第十二章 演劇の授業
「僕には出来ません、」
と言い、イワンは分厚い台本を机の上に投げた。周りにいた子供たちが一斉に囃し立てた。
「『あんたがあたしを怖がらなくても、あたしがあんたを駄目にして、そのことを後であんたに責められるのがあたしは……』」
「ばか、そりゃナスターシャの台詞だよ」
「ちがったか?」
「イワンがやるのはロゴージンだよ、男の方さ……『ほら見ろ、約束の十万ルーブルだ! これでお前は俺のものだ!』」
おおよそイワンに似つかわしくない台詞を、子供たちはわざと大仰な節回しで読み上げた。新任の教師は沸き立つような教室をみて狼狽しながら、
「イワン・カラマーゾフ君、ちゃんとしてくれなくちゃ困るよ、」
と弱々しく言った。
「えっと誰だったかな、アントン、きみが今言った通り、イワンがやるのはロゴージンだったね、」
「そうです、先生」とアントンが囃し立てるように言った。
「イワン、このロゴージンは情熱に駆られている男だよ、もっと感情的にやって貰わなくちゃ。絶世の美女であるナスターシャ・フィリポブナに恋をして、彼女の口約束を信じて、十万ルーブルをかき集めて来るんだ。ただ一介の商人でしかない彼には、並々でない苦労があったはずだよね ……そして最終的にはそれは火のなかにくべられる……この時の彼の絶望する気持ちを述べよ。
いや、そんな問題じゃないな……とにかく、ここでは美女に翻弄される男の、燃え盛る炎のような情熱が必要なんだ……そうだ、もし想像力が足りないのなら、試しに僕を絶世の美女だと思ってやってごらん」「大した想像力だな、イワン――」
生徒たちが囃し立てた。若い教師がイワンに向かっている間、ミハイルから見ても檀上のイワンは明らかに教師からも生徒からも目を逸らしており、全身で溜息を吐いたのが見えた。
「だから、僕には出来ません。そういう能力がないものですから、失礼します」
そう言って教室を出ていくイワンの後を、卑猥な罵声が追いかけた。せっかく準主役に据えた模範的な生徒に逃げられ、若い教師は困惑して頭を掻いた。
「困ったなあ、彼ならロゴージンの台詞全部覚えられると思ったのに……こんなんじゃ来月の舞台はどうするんだ、もう時間ないってのに」
「先生、あいつもう来月はいないよ」
と若い教師とみて嵩を括っている少年たちが声を上げた。
「え、そうなの」
と彼もまた素っ頓狂な声を上げた。
「あいつは言わないけど、もうみんな知ってる」
「また転校するんだって。それで最近やる気ないんだよ」「逃げるんだろ、何かにつまずいちまったんだ。今やミーシャに負けるしな、『二番のカラムジン』に――」
彼らはどっと嘲笑の声を上げてさえずった。その嘲笑は出て行ったイワンに向けられたものだったが、彼らの群れのなかにいるミーシャには身に応えた。結局のところ、彼が努力して取り戻し得る彼自身の値打ちはこれだけのものだった。同い歳の年齢の子どもが、揃ってイワンに感じたような脅威を、ミハイルが先天的に持っているものに感じ得ないのは、実に自然なことだった。ミハイルは、イワンとの違いを誰よりも実感して知っているつもりだったが、こうして教室にいると、当のイワンよりも彼への罵声が身に染みた。
ミハイルの友人であり、粗暴だがやさしい所のあるアントンが、その嘲笑から守るように彼の肩を叩いた。彼は誰よりもイワンが嫌いだった。
「気にするなよミーシャ、みんなあいつを痛めつけたくて言ってるだけだ」
ミハイルはこの友には、自分がこの数か月の間に見たことを打ち明けられるように思った。ただしイワンの事柄でなければ。イワンが実際には、学校で見せるような冷徹な面ばかりではないこと、可愛い弟がいること、また弟が同い歳の子供の群れには到底入れそうにないこと、家出癖に付き合うことで養家に縛りつけておこうとする努力、弟には赤ん坊にするような笑顔を向けること、また弟を頼むと言われたこと――それからあのむせかえるような匂い。
あれは酒ではないかと思われたが、彼の知っているようなワインや何かとも違うように感じられた。酒にどのような種類があるかはミハイルには分かりかねたが、日常的にその匂いがするというのは、アリョーシャの密かな犯罪であるのか。それとも彼の生活全てを管理している、イワンの仕業なのか。
仮にそうだとしたらその目的は?あらゆる危険なものから遠ざけたいはずの彼が、何故赤ん坊のような弟に毒のようなものを盛る必要があるのか? 子供を酒浸りにさせて良いわけがないと、彼が分からないはずがないのに。
あの時、列車が過ぎる音に粉砕された告白は、彼の繰り返している習慣について語っているように感じられたものだったが、果たして何を告げていたのだろうか? 告白は一度きり――あらゆる現象は一度きり。それ以外は作為的な、自然の模造品に過ぎない。繰り返された告白は自己弁護に他ならない――あの光景を反芻する度に、イワンの言ったその言葉にミハイルは押し戻された。
それなら今や自分は、イワンに対して何が出来る? 彼の言ったとにアリョーシャを見張ること? しかしアリョーシャは彼に何故あんなにも、『兄が弟を殺す』などと訴えてきたのか?
ミハイルは包帯が取れてもなお、彼らの家を訪れられずにいた。行けば何か、イワンが彼に見せたくない姿を目撃してしまうような予感がしていた。
そしてそのことを、自分はイワンのあの微笑によって理解するのだろうという気がした。もはや残された時間のない自分たちには詫びたり、新たな約束をする時間さえもないことを。
「あいつにも苦手な科目があるんだな、『感情』だよ――」とアントンが彼に耳打ちして言った。
「この『演劇』の授業でぼろが出たなあ。こんな遊び、何が面白いのかと思ったが、俺より不愉快に思ってる奴があそこにいたんだ。あいつは冷徹で、誰もが認める通り能力が高いだろう。だから他人のことを庇ったり、他人の感情を推し量るということが出来ないんだ。弱い者の気持ちなんか、あいつは考えたこともないんだろう。手に入らないものを手に入れようとする人間の情熱なんざ、あいつは知るよしもない話だろうし、そんな演技をしろと言ったところで無理だろうさ。あいつは演技をする必要を人生に持ってないんだから。
ミーシャ、その点お前はとても人間的だ。俺は最初からお前が一番優れていると思ってたぜ。結局成績なんてもの、ここに出るまでしか意味をなさない、単なる数字にすぎんよ。ここを出たら最後、人間としての魅力が成功、立身出世、そんなものを決定づけるんだ――、なあ、あいつがここを出てどこへ行くか、お前は知ってるか? 誰に訊いてもそれだけは上手く隠してやがるんだ、あいつはどこへ行くつもりなのか――」
「なにも、知らないくせに」とミハイルは呟いた。
「彼が庇ってきたもの全部、知らないくせに……アリョーシャ……蜂、クルミ泥棒、エゴール、目撃者、……彼が誰であるかなんて何も知らないくせに、平気でカラマーゾフの影だけを踏みつけるんだな」
彼の突然の剣幕に、アントンの方が驚いた。
「ミーシャ、俺はお前のカラマーゾフの話をしてるんだぜ、誰と間違えてるんだ、イワンだよ、お前の敵だった――」
「それだって、イワンの演技なんだ」と昂奮したミハイルは続けて言った。
「彼は常に、何かである振りをしてるんだ、何かを庇おうとして、僕らの目から隠すために――僕らのうちの誰も本物の彼を見ていない、その理由すら分かってない……それなのに、みな、自分の憎悪のために、ただ痛めつけたいだという理由だけで、イワンに濡れ衣のような名前を着せてるんだ、彼は本当はカラマーゾフなんかじゃない」
そう叫んだ時、教師が手を叩いて彼らを呼び止めた。「雑談はそれぐらいにしてほしいな、えっとアントンと、隣は誰だっけ、カラマーゾフくん、いや、違ったか」生徒たちはどっと笑った。
演劇の授業を中断した罰として、彼らは校舎裏の掃除を命じられた。アントンは首尾よくこの罰を抜け出した。愚直に掃除を続けている彼に、カラマーゾフくん、と演劇のにわか授業のために雇われたらしい、この若い教師が声を掛けてきた。
「懲罰の一つだよ、劣等生には雑用も頼んでいいと言われてるから――」「騒ぎを起こしましたが、僕は劣等生じゃありません」と書類を受け取りながらミハイルは言った。
「『二番のカラムジン』です。イワン・カラマーゾフには劣るけれども、その次の沢山の生徒のうちの一人です」
「カラムジン?」
と彼は妙に大きな声で言い、自分の持っていた答案用紙をまさぐり出した。
「なんだ、一番じゃないか、驚いたよ、なんだか聞き覚えのある名前だと思ってた」
「カラマーゾフは?」
とミハイルは微かな恐れを感じつつ尋ねた。
「カラマーゾフくんねえ、彼は試験を受けていないね。転校するという噂は本当らしいな」とあやふやなことを言った。
「その封筒、貼らなくちゃいけないポスターなんだけれど、そっちにも答案が混じっていないか、ちょっと確かめてくれるかな」
と教師はまた危なげなことを言い、ミハイルは仕方なしに封筒から紙の束を引き出してめくった。
「校長杯」という名前の下に、舞台の上でドレスを着た女性と、彼女に求愛するように跪いている青年の絵が描かれており、「脚本募集」「応募条件」「優勝賞金百ルーブル」という文字が太く描かれていた。
「校長の甥が劇作家らしいな、」
と空になった教室でイワンが言った。今や、学校にまつわる情報は誰よりも彼がよく知っている、ということをミハイルは弁えて尋ねたのだったが、当然のように答えが返ってきたことに呆れた。
「にわか演劇の授業ににわか教師、あれも劇作家の甥がペテルブルグからやってきて、授業をみたいというんで付け焼き刃でも付けとこう、という算段さ。この間の授業ではもう来てたよ、ちょっと教室を覗いただけで帰ってたがね。
例年の校長杯はただのお遊びで、内輪の学芸会だ。今回みたいに賞金付きでペテルブルグで上演の機会があるなんて条件、何だか上滑りしているな。大方、甥のマカール相手に校長が見栄を張ったんだろう。道楽の賭けが絡んでいる可能性すらある、流石にそこまでは知らないがね」
「まったく、目撃者の情報にはあきれるな」とミハイルは天を仰ぐようにして言った。
「こんなこと新聞に載ったりするわけがない、演劇のにわか授業は成績には入らない……きみはただの趣味でこんなことまで調べるのか」
「入ってくる情報を減らす必要はないさ、それに学校がポスターを貼って全生徒に知らせようとしているような情報だぜ。そのぐらいのこと、事前に分かっていなくてどうする。それと、にわか教師はポスターが手に入ってから半月は放置していた。その締切じゃ、脚本自体ろくに集まらないかもしれないな」
そう言って、イワンは彼が腰かけている机に積み上げてあるポスターをめくった。彼が何かを齧りながら喋っていることが、ミハイルは気になっていた。彼はまた一つ、ポケットから何かを取り出して口に入れ、またポスターを改めようとした。
「汚れた手で触るなよ、これから貼らなくちゃいけないんだ」
「ふうん、これだけ情報を提供してやってる相手にずいぶんな言い方だな。締切は今月末か、今から告知してあと二週間、果たして誰の責任になるのか、それだけでも見ておきたかった」
そう言ってイワンは口のなかのものを再び噛み始めた。
彼らの間に摩擦音のようにざらついた沈黙が落ちた。
「食べるか」とイワンはポケットのなかから、おがくずのようなものを出した。ミハイルがひるむと「別に今さらきみに何をしようという気はないぜ」と笑った。
「アリョーシャが盗んだやつ、ようやく食べられるようになった」
ミハイルが手のひらに転がすと、確かにそれはクルミの実だった。
「中身が取れたの」
「そう、半分はポレノフのために置いてきた」
そう言うと、イワンは大仰に白い歯を見せてクルミの実を噛み、行儀悪くそれをがちりと噛んで見せた。ミハイルも口のなかにクルミを入れて大仰に噛み砕いた。彼らはしばらく共犯の笑いのために身体を揺すった。
「で、きみは応募するのか」
とイワンがミハイルにずけりと言った。ミハイルは今度は、声も出さずに怯んだ。
「きみが本当になりたいものは劇作家だ、それで役人にしようとしている父親と衝突している、知らないとでも思ったか」
ミハイルは咄嗟にイワンの襟首を掴んだ。
「誰かに喋ったか」
「ふうん、本当なんだな、きみにだけだよ、他に当てがあるはずもない」
とイワンは落ち着いて言った。
「こんなことペテルブルグの新聞に載ることでもなし、きみにしか確かめようがない。確かに、きみは作文の授業で時折褒められるし、ラテン語の翻訳は不確かだが、詩的な表現でうまくかわすこともある。図書室で読んでいる本からもきみが好きな作家は明らかだ、シラーの詩に、ドストエフスキーの小説に、シェークスピアの戯曲……、まあそういう有名どころで、悲劇が好きなんだな、古典的で、同時に大衆的だ」
ミハイルは聴きながら憎悪のために一瞬我を忘れた。硬直したミハイルの手首を払って、ふいにイワンが明るい声で言った。
「あと二週間しかない、応募するんなら特別な準備が要る。校長杯の過去の受賞作は知ってるか? 最初に言っておくが、まさか自分の才能で勝負できると思うなよ、こういうものは選定基準を理解していた人間の勝ちだ。審判がどうやって点数をつけるか、それを知らずに試合に出るほど愚かなことはない。事前の準備がものを言うんだ、協力するよ、もしきみが応募する気があるんならだが」
そう言ってイワンは席を立った。彼はさっさと鞄を取って教室を出ようとした。ミハイルは彼を追わずに、ただ自分が配ることを命じられたポスターに見入っていた。
「……それ、」
とイワンの方が声を掛けてきた。
「きみの文芸趣味の話なんか聞いちゃいない……よく見ろ、優勝賞金のところ、金が手に入るんだ」ミハイルはぼんやりとその数字を見つめた。
「列車の運賃より余るぜ、きみはその気になればこの町を出て――ペテルブルグに行ける」
もし本当にここを出たいんならの話だ、と言いイワンは教室を出ていった。
ミハイルは返事せず、西日に赤々と照らされているポスターの堆い山を独り見つめた。
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