第五章 おかえりミーシャ
アリョーシャ、アリョーシャ・カラマーゾフ、僕が帰ってきたよ……。
「ただいま、」
とミハイルは言った。
「おかえり、ミーシャ、」
とすっかりミハイルに慣れたアリョーシャは言った。
「さあ上着を脱いで、外は寒かったでしょう。コニャックがいい? それともお茶にする? ここにミーシャの分のパンがあるよ、ぼくが今出してあげるから、手のひらをお皿にして待っていてね」
ミハイルは何でもアリョーシャの言いつけに従ってやった。やがてアリョーシャが来て、ミハイルの手のなかに、パンだと言ってドングリをこなごなに砕いたものをまき散らした。
アリョーシャもミハイルも、数日のうちにこのような遣り取りに慣れ、互いに驚きもしなかった。ミハイルは鳥の糞がついたそのドングリの欠片を易々と取り上げて自分の口に入れた。
「ミーシャ、」
と咎めるような口調でイワンが言った。彼はいつの間にか、アリョーシャが言うのと同様にミハイルを愛称で呼んでいた。ただしそれは彼への親しみのためでなく「アリョーシャの玩具」としての呼称であることが、呼ばれていてミハイルにははっきりと分かった。
「いい加減にしないか、きみだってアレクセイが自分が何をしているのか、分かってやっているのを知ってるだろう」
「そうだよ、僕たちは楽しんでいるんだ」とミハイルは言い返した。
「分かってやっているんだよ。僕たちに分かっているということだって、きみは知っているだろう。だったら構わないじゃないか。木登りだろうと川遊びだろうと、ゲームというのは危険さを楽しむものだろう。僕たちのおままごとには、ちょっと新しい要素が加わっているというだけさ。ねえアレクセイ、僕らは家族なんだものね」
イワンが苛立った調子で、読んでいた本を机の上に叩きつけた。彼の持っていたペンが、机の上を転がる音をミハイルは聴いた。この後、イワンは何か強い調子でミハイルに言ったが、ミハイルは机の上の本に目を奪われて、イワンの言うことを聞き取れなかった。
イワンの手の下には、白くて分厚い表紙の本があり、そこには金色の文字が印刷されていた。それは「ラテン語」でもなく「世界史」でもなく、外国語の単語が並んでいた。それはキリル文字ではなく英語のアルファベットで、ミハイルは自分の知っている音を頭のなかで組み合わせて発音しようとした。
シェークスピア、と、ミハイルが集中によって硬直した唇を動かして言うと、イワンは手の下の本を引っ手繰り、裏返して机上へ放り出した。それから数秒の間、彼は思案するように黙り、今度はその本をミハイルの胸元へ乱暴に放った。ミハイルの手元に来たその本は、多くの所有者の手を経てきたものらしく、ページが反り返っていた。
ミハイルはイワンに命じられたような気分で、ページをめくり出した。シェークスピア、という文字は確かに表紙にあったが、よく見ると前後にも単語が続いており、その部分はインクが掠れていて見えなかった。中身はすべて英語で、ページ本文には様々な筆記用具で、書きこみや線が引かれていた。それは今までの所有者たちによるものらしく、ミハイルが内心望んだように、イワンの筆跡を見分けることは不可能だった。
「俺の本じゃない」とイワンはどこまでミハイルの思考を見透かしたものか、吐き捨てるように言った。
「親戚から借りてる、ポレノフはそんなもの買い与えちゃくれないしな、そんなままごとの道具みたいなもの」
彼がそんなもの、と言った内容がどのようなものか、ミハイルは読み取ることが出来なかった。ふうん、と彼は口中で低く呟き、アリョーシャが煉瓦のお茶を飲めと言って彼を揺さぶっている間も、読めない文字を読み取ろうとすることに全身を傾けた。
数週間後、イワンの方が話があると言って、放課後にミハイルを森のなかに呼び出した。ミハイルがアリョーシャの家で蜂に刺されて、数日間学校を欠席し、やっと登校したその日だった。
ミハイルは大きく誤解をしていた。彼はイワンたちの家で遊んでいる時に蜂に刺されたので、そのことをイワンが気にして、彼に詫びたりするために呼び出したものかと思っていた。イワンは苦虫を噛み潰したような表情でいたが、これもいつものことなので、ミハイルは異変が既に起こっていることに全く気づかなかった。
「何を怒ってるの?」とさえ、ミハイルは冗談交じりに言った。
「僕なら平気だよ、大したことなかった。ちょっと痛かったけれど……薬もつけたし、寝ていたら熱も引いたよ。ただ医者の話だと、同じ種類の蜂に刺されないように注意しないといけないっていうから、今度きみの家に行く時には注意しなくちゃいけないな、」
「もういない」
とイワンは少しも笑わずに言った。
「きみを刺した蜂は、もうこの世にいないよ」
「……ああ、蜂は、人を刺すとそれで死んじまうんだってね、今度刺されてみて、本で見て初めて知ったよ。人を命賭けで刺すんだから、凄いもんだな。僕にはそんな勇気は持てそうもない」
「あいつに命じられて蜂の巣を手づかみにしようとしてもかい、」
とイワンは初めて少し笑った。
「うん、あの子が言うんなら僕は、」とミハイルは言った。
「何でもしてやりたくなるんだ。あの子が言うのと、僕自身が勇気を出すのとは全然別さ。あの子が命じるから出来ることが、僕独りでやれるわけではない、そのことは僕自身分かってるよ……これは勇気ではなく、言わば愛情のしるしなんだ。僕には兄貴はいたけれど、弟はいないし。
兄弟っていいもんだなと思ったよ。弟が自分に出来ないことを兄貴に頼むだろう、ああして、取れないからミーシャが取ってって言われると、それが蜂の巣だろうと満月だろうと、何だって取ってやりたいと思うものな。
兄貴をやってみて、初めてそのことを知ったよ。これはきみたちに出会って知った、愛情というものについての大きな発見なんだ。きみがアリョーシャに甘いのだって今なら分かる、ましてああいう自分じゃ何も出来ない、可愛い弟だったらなおさら、」側にいて助けてやりたいと思うものとミハイルが言った時、イワンがぐずっと喉元で音を立てた。それはいつもの、冷笑的な笑いの前触れのようでもあり、何か涙ぐんでいる声のようにも聞こえた。
イワンは喉を鳴らした後、しばらく何か思案にふけるような様子を示した。後からミハイルが考えるに、自分を打ちのめす前にイワンはこの時少し躊躇していたものと思われた。完璧な残酷さの前に、このような躊躇のしるしが出現することが、イワンの天才的な優しさの証明だった。もっともこの種の優しさは、イワン自身がアリョーシャに打ちのめされる過程で、彼が自らの手で培養したものだったか 30 もしれないが。
何も知らないミハイルは、イワンの言葉を促すように質問をした。
「アリョーシャは元気かい? 僕がしばらく休んで、そっちにも行けなかったから、僕のことを忘れちゃっているんじゃないかと心配なんだ」
「忘れちゃいない」
「それなら良かった……。ねえイワン、来月また試験があるだろう。休んでしまったから、困ってるんだ。どうか友達のよしみで、きみのノートを見せてくれないか。もう試験で勝負しろだなんて言わないよ。この間の数学の前に何があったかは分かってる。結局、カラムジンは自分の実力で勝てっこないんだ。でも、イワン・カラマーゾフのノートを見たなんて言ったら、不正扱いにされるかもしれないな……、ねえラテン語のノートだけでも」
「俺も出ていない」
「どうして……」
とミハイルは言い、ふと思い当たったことを口にした。
「また、家畜なんとか村へ『遠足』に行ったの?」
イワンは首を横に振った。他方で『遠足』という言葉には反応を示し、溜息交じりに続けた。「確かに、少し遠出したよ。あいつは危うく戻って来られないところだった。俺はあいつに病気の振りをしろと言った。ポレノフとも口裏を合わせておいたから、それで今回は上手くいった。
でも次はもうないだろうな。いっそのこと本当の病人にしてしまった方が、正当に扱われるだけいいのかもしれない。ただしアリョーシャ・カラマーゾフじゃない、ただの番号で呼ばれるあの病人として」
「病気になったの、」
ミハイルは小さく叫んだ。彼自身、アリョーシャの身に起こったことについて本気で心配するとは想像していなかったから、イワンの表情に釣り込まれて起こったこの反応は自分で意外だった。
ミハイルはこの数週間、アリョーシャを自分の手駒にするために、近くにいて様々な工夫を凝らしてきた。
彼はアリョーシャを愛せるかとも試みた。それは何度も失敗した。愛するには、その対象は彼にとってひどく恐ろしいか、あるいは手を差し伸べてやりたくなるほど可憐でなくてはならなかったが、アリョーシャはそのどちらでもなかった。
彼がアリョーシャの反応を見ようと、ちょっとした悪戯を仕掛けても、アリョーシャは罠に必ず掛かるものの、奇妙な方法で脱出し、決してミハイルの手を借りなかった。アリョーシャは周囲から多少の悪戯や脅かしを受けることには慣れっこになっていて、大抵のことから自分を救い出す方法を知っているらしかった。
イワンはアリョーシャを臆病だと言ったが、ミハイルはこれほど怯えることに自体に慣れ、漫然と震えているような子供を知らなかった。アリョーシャは小さな物音に、自分を迫害するものに恐怖したが、自分が迫害される理由を理解しないままに、迫害者のあしらいに慣れてしまったものらしかった。
ミハイルがどんな脅かしをやっても、アリョーシャの習慣的な震えに迎えられるだけだった。わざと怖がらせるようなことを言っても、アリョーシャはあの大きな瞳で見返すだけだったが、ミハイルはそこで、自分の加えるあらゆる打撃が、鈍い湖のなかで小さな漣に変えられるのを見た。アリョーシャは目に映る世界を、理解しないままに個々の形に分解し、ただの色彩として感じているだけのようだった。
アリョーシャにとっては、もはや世界は色褪せたインクで書かれた単語で、彼はその「恐怖」というスペルをそっくり記憶してはいるが、眺めることに伴って意味が起こらないのかもしれなかった。彼はままごとで、繰り返し煉瓦のお茶だの、鉄くずのパンだのを食べろとミハイルに強要したが、これも毒を食えと迫っているのではなく、アリョーシャにとっては毒も菓子もただの色彩でしかないということを、ミハイルと共有しようとしたのではないか――。(アリョーシャは恐怖を、濾過してしまう弁を身体のどこかに持っていた)とミハイルは思った。
(恐怖の扱いに慣れて、身体の外に恐れを吐き出してしまう。あの子にかかれば、凶器みたいな物さえお菓子に変わってしまうのを、僕は何度も見た。煉瓦のお茶も、鉄くずのパンも、あの子の手から受け取るとたちまち塵くずから食べ物に変わった。だってあの子は苦さを感じていないから。一切の苦悩のない瞳で差し出されると、僕まで苦痛を感じられなくなる)
そう思ってから、彼は目の前にいる怒気を含んだイワンを見た。病気なの、という言葉に反応したらしいイワンのその表情は、決してアリョーシャの前では見せないものだった。
「病気じゃない、あいつは全部分かってやってるんだ、きみも知ってるだろう」
(また、そんなことを言って。確かに、あの子は見ためよりずっと賢い。でも、恐怖を感じられないって何だかちょっとおかしいよ。どうしてあの子が異常だと認められないんだろう? 本当は全部分かってる? そんなこと医者じゃないと分からないんじゃないか。泥棒したって叱らないなんて、彼を正気と認めているとは思えないね……。
イワンはこんなに弟に甘いけれど、それこそ彼自身、弟に砂糖菓子に変えられたんじゃないか?)
ミハイルは自分の考えに没頭しながら、イワンが自分に向かって口を開くのを眺めた。
(ああ、きっとそうだ、僕だって何をされてもあの子に怒れなかった。きっとアリョーシャが恐怖することに慣れ、その恐怖を目のなかから捨ててしまう術を身につけた時、イワンはアリョーシャの目に映る甘い影になるしかなかったんだ。弟が信じているような優しい兄になってやるより仕方なかったんだろうな)
「アリョーシャが、ポレノフの家に火をつけた」
ミハイルは内容も弁えずに、イワンの言うことに反射的に頷いた。
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