神童

merongree

第一章 黒い名前

Карамазов(カラマーゾフ)

と、Карамзин(カラムジン)は書いた。караは、テュルク語で「黒」を意味する。彼らはその部分だけを共有していた。

(なぜ僕じゃないんだ)

とМихаил(ミハイル) Карамзин(カラムジン)は思った。父親に持ち帰る書類で、まさか姓を書き換えるわけにはいかない。

ミハイルはКарамазовの、мазовの部分を黒く塗りつぶした。まるでその文字が声を発するのを遮るかのように。

(なぜ僕はカラマーゾフじゃないんだ)

 彼は今や、イワンがその姓を持っていることが羨ましくて仕方がなかった。ほんの三か月前まで、ミハイル・カラムジンという名前は、他に並ぶ者のない彼の優秀さを表すものとして、彼に与えられた勲章のようなものだった。しかし今や彼の首にかけられたメダルは、ぴかぴか光る銀色の輝きを放っていた。それは、彼の名前である以上に、今やこうした意味で彼の同級生たちに理解されていた。

「カラマーゾフじゃない方」

 ミハイルは、自分を呪うそのКарамазовのスペルを、何の憎しみも込めずに白い紙面の上に書き出した。まるでそうすることで、Карамзинとして出来上がってしまった自分を解体することが出来ると思っているかのように。そして彼は他人の姓を、毛糸を編むように丁寧に書いた。

少年は身体をややこちらに向け、これから浴びせられる声を避けようとするかのように、半身を別の方に向けていた。

「やっぱり知らないか、」とミハイルは叫ぶように言った。「きみは僕の名前なんか知らないって言うんだろう、イワン・カラマーゾフ」

 イワンは何の躊躇いもなくミハイルに背を向けて、さっさと先へ行こうとした。

「待てよ、僕はきみのクラスメートなんだぜ、全く知らないということはないだろ、」

「だから何だ、別に俺にはきみを覚えておく必要なんかない」とイワンは言った。

「用事がある方が名乗ればいいだろ、それできみは俺に何の用事があるんだ、あらかた察しはつくがね」

「僕と、来週の物理の試験で勝負しろ」

 ミハイルは前日から、イワンに向かって言うことを何度も想像してきた台詞を言った。もしカラマーゾフに勝ったら、好きな物を買ってくれると父親が言ったとは言えずに。

 イワンは前を向いたまま、小さく溜息を吐いた。

「試験を受けるのはただの義務だ、俺ときみとの間の約束事なんか入る余地はない、そっちで勝手に点数を比べたらいい」

 最初に言っておくが、俺はきみに興味がない、とイワンは言った。


Антон Ге(アントン・ジー)

Михаил Карамзин(ミハイル・カラムジン)


 ミハイルは早々に自分の名前を見つけたことを後悔した。イワンの来る前、彼は名簿にある自分の名前が、黄金色に浮き上がって見えたものだった。しかしそれが「イワンではない」という形容詞に生まれ変わってから、名簿のなかでの見え方が違ってきた。ミハイルは自分の名前が黄金色の鐘から、錆びついた釘にすり替えられてしまったのに気づいた。

 今では彼は自分の名前を見ると、その終わりの部分―― 彼を悩ませる、余計な部分を塗りつぶしたくなる衝動に駆られるのだった。それさえなければ、自分は一つ上の順位を取り戻すことが出来るのに。


Антон Ге(アントン・ジー)

Михаил Карамзин(ミハイル・カラムジン)




イワン カラマーゾフ Иван Карамазов


 彼らの学校では、一位と二位の名前の間に大きな間隔をつけるのが慣例だった。それは一位と二位の間にはそれだけ大きな差がある、という思想によるものだった。

ミハイルはこのわずかな間をも、イワンの持っている名前の一部のように感じた。イワンの名前は「書かれる」のではなく、ミハイルにとっては「起こる」ものだった。それはセーターの上に起こる静電気のように、密かに彼を脅かして跡形もなく消える。

 ミハイルは恐れを隠しながら、忌々しい小さな雷を鎮めるように、ノートの上に書き記す習慣を続けた。

Карамазов、Карамазов、Карамазов、……。

「先生、」

 教師の貼り出した試験結果を見て、教室がまだざわついているなか、イワンが栗色の髪を刈り上げた、涼しい首筋を見せて立ち上がった。

「明日の授業を欠席させてください」教室にどよめきが起こった。

「何だよあいつ」

「一番だからって余裕ぶりやがって」

「学校なんか来なくていいってのか」

(……)

 ミハイルが考えついても口にすることの出来ない悪口が、少年たちの群れから次々と出た。

「かまわんよ、きみは一か月ほど旅行にいっても差し支えないだろう、きみに教えることなんかあと幾らもないからね」

 物理教師は珍しくおどけて、教科書を持ち上げて見せた。

「一日で結構です」

 イワンが生真面目に言うのを、ミハイルだけが他の生徒とは違った関心で眺めた。


 廊下でイワンを呼び止めて、ミハイルが言った。

「やっぱり噂は本当だったんだな、イワン・カラマーゾフ」

「何が?」

「家庭教師がいるって噂」

 ミハイルは母親譲りの、赤毛の癖の強い巻き毛を耳に掛けながら言った。それは自分で自覚してもいたが、彼が緊張しながらものを言う時に出る癖だった。

「きみは学校なんか来なくてもいいんだろう。実家が金持ちで、美術や音楽に至るまで、あらゆる科目で家庭教師がいるっていう噂だものな、カラマーゾフくんには」

 イワンは吹き出した。この陰鬱な印象の少年は、快活な笑いとは無縁のようだったが、この笑いは奇妙に似合っていた。笑うことがどういう経路を経てか、この少年の身体に染みついてしまっているしるしのようだった。

 イワンは笑いを収めると、ミハイルに背を向けてさっさと歩き出した。ミハイルは慌ててその後を追った。

「待てよ、明日は学校に来ないんだろう、もう試験は済んだんだぜ、今さら勉強じゃないだろうな。きみはどこへ行って何をする気なんだ、まさか本当に旅行にでも行っちまう気なのか」

「きみは、俺について何を調べたんだ」

 イワンがふいに立ち止まって振り返った。まるで質問をしているのは初めから彼であったかのような態度で、ミハイルは怯んだ。

「……調べるも何も、そもそもきみは有名人じゃないか」

「有名人? 俺が?」

 ミハイルは頷いた。何故、とイワンが教師のように尋ねた。

「学校始まって以来の秀才だから。先生がきみのことを『神童』って言うの知ってるだろう」

「前の学校の話は?」

「まえの学校?」

「前かどうかは知らなくても構わない、前の前の学校でもいい、きみが俺について調べた悪評については? きみの手札は本当にそれで全部なのか?」

「手札も何も、僕はきみと勝負しようなんて思っちゃいないよ」

 ミハイルはついうっかり本音を漏らした。

 イワンは微かに笑みを浮かべつつ、ゆっくりと言い返した。

「なんだ、昨日までの威勢と随分な違いだな、昨日は俺を刺し殺しに来たのかと思った」

「死んでくれと思ったよ」ミハイルはまたも本音を漏らした。ミハイル自身、自分の名前を奪った神童と、親しくなりたいのか敵対したいのか、よく分からなくなっていた。ただ確かなのは、彼はイワンを目の前にすると、何一つ嘘が言えなくなることだった。ミハイルは自分でも理由の分からないまま、母親にすら打ち明けていない本心を、日々自分が呪っている対象に向かって漏らし続けた。

「きみを殺して、僕がカラマーゾフになりたいと神様に祈ったぐらいだ」

 イワンは驚いたように微かに目を見開いた。この時、ミハイルは初めてイワンの顔をまじまじと見た。栗色の短い髪、血色を透かした白い耳、グレイの瞳のなかには、はっとするほど豊かな光が備わっていた。まるで鈍く光る水を湛えた湖のようだった。

 その瞳が瞬いた時、ミハイルは自分の頭のなかにあった言葉が瞬時に消えるのを感じた。彼は陰鬱な印象のイワンに、そのような瑞々しい輝きが備わっているとは想像していなかった。彼は自分の計算の間違いに気づいた時のように、頭のなかが真っ白になるのを感じた。

「家庭教師がいると言ったな」

 とイワンは低く呟いた。まるでミハイルに尋問するような調子だった。ミハイルはつい「僕にはいないよ」などと愚かにも言い返した。

「僕には父さんの他に、勉強を教えてくれる人は誰もいない。父さんの他、死んだ兄さん――マルケルの他は誰も」そう言った時、イワンは動揺したように目を微かに動かした。

「マルケルを知ってるの、」

「まさか。知るわけないだろ、俺はきみの名前すら知らないんだ」

「僕、僕は――」

 ようやくミハイルは、自分の方はイワンに名乗っていなかったことを思い出した。もっとも彼が来て以来、三か月も同じクラスにいるのだったが。

「『二番のカラムジン』だよ、これはきみが来たせいで、僕についたあだ名なんだ」

 ミハイルは笑いながら言った。

「つまり『カラマーゾフでない方』っていうわけ、きみが座っていた席は、三か月前まで僕の席だったんだぜ」

「自分が二番だと思ってる奴はきみだけじゃない」

 ミハイルは、自分が傷ついた表情を漏らしたことに気づいた。

「……悪かったよ」

 と、意外にも素早くイワンの方から、詫びる言葉が降ってきた。

「少し言葉が過ぎた。何も俺に、こういう絡み方をしてくるのはきみだけじゃない、という話さ。きみが将来、もし俺を絞め殺すようなことがあったとしても、それはきみの独創というものでもない。俺の周りには誰かしら、そういうことを考える人間がいる。俺自身が原因と言えばそうかもしれない。俺に対してきみが何をしようとも、そのことはきみ独自の考えによる犯罪とは言えない」

 ついて来るか、とイワンは聞き取れないほどの小声で言った。そしてさっさと歩き出した。

 半ば茫然と彼の言葉を聞いていたミハイルは、

「いま何て言ったの?」と叫んだ。

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