第二章 クルミ泥棒
(背は、僕と同じぐらいか)
ミハイルはそのことを、イワンの背後をついて歩くことで初めて知った。いつも教室の隅にいるイワン、また教室の前で答えを書かされているイワンは、自分よりいくらか背が高いように見えたのに。ミハイルは彼に、年齢以外で自分と同じ面があったことに多少の驚きを感じた。
それにしても、イワンの家は遠かった。彼らは学校のある街を外れ、民家もまばらな森のなかへと足を踏み入れていた。人の話し声もなく、辺りに木の葉が落ちる音と、寂しい烏の声ばかりが響いていた。
イワンはついて来るかと言ったきり、背後にミハイルのいることを忘れているかのように、ずんずんと先へ進んだ。途中で小川を飛び越したり、木の根を跨いだりしながら、この良いとは言えない道をイワンは飛ぶように軽々と進んだ。ミハイルがいちいち木や石につまずくのと違い、彼はまるで身体を持たずに影だけで歩いているかのようだった。
やがてイワンが立ち止まった。しかしミハイルは目を凝らして、それが家であることを確認しなければならなかった。確かに家ではあったが、別荘として建てた丸太小屋のようなもので、二階建ての屋根には蔦のような葉が絡み、蜂の巣らしいものが貼りつき、このまま土に乗せておけば朽ちて馴染んでしまいそうな、頼りない一個の泥団子のような家だった。ただいま、とイワンが薄い扉を押した。驚いたまま立ち尽くしていたミハイルは、慌ててその後を追った。学校中の秀才が誰も敵わないイワン、全ての科目に家庭教師がついているという噂、甘やかされた傲慢な秀才――そのような彼の肖像が、わずか数秒のうちに吹き飛びかけていることに、ミハイルは戦慄を覚えた。
その家のなかは、木の葉の落ちる音を透かすほどに静かだった。ミハイルは誰もいないものと思ったが、イワンは何かを目指してるようにさっさと奥へと進んだ。イワンの向かった先を見ると、廊下の突き当りに、屋根の隙間から降り注ぐ淡い光を集めているような一隅があるのが見えた。イワンがその突き当りの部屋に入ったのを見て、ミハイルは慌てて走った。
なかには小さな台所とテーブルがあり、老人が小さな眼鏡をして、手のなかに握りしめた何かの部品を、しきりと点検しているところだった。よく見るとそれは、薄緑色の表皮に包まれた木の実だった。
クルミの実ではないか、とミハイルは思った。
「金槌で叩かないと開かないよ、ポレノフさん」
「イワンか」と老人は目を上げて言った。
「さっきからやってみているんだがね……どうも上手くいかん」
老人はクルミを暗い口内に放り込んだ。それから黄ばんだ歯で噛み砕こうとした。イワンはその過程を黙って見つめていた。老人は何度か歯でクルミを砕こうとし(そいつは、誰だ)という風にミハイルの方を見た。
「友達です」
イワンはすらりと言った。ミハイルは驚いたが、それはイワンの本心と言うより、ただ型どおりに彼に挨拶しろ、という指示であるように感じられた。ミハイルは慌ただしく頭を下げ、それで良いのかとばかりにイワンの顔を覗き見た。
イワンはミハイルの方をまるで見ず、真っすぐ老人の方を見たままだった。そして老人の方に近づくと、彼がテーブルの上に広げているクルミのうち、群れを作っていない二、三個を中央に寄せた。彼は老人がクルミを口に入れる間は黙っていたが、噛みつこうとして苦しむ音がするなかでふと口を開いた。
「いきなりそれを食べようったって無理ですよ。クルミの実は収穫してから、外皮が腐るまで放置しておくんです。表皮が腐って手で剥ける程度になったら、外殻からこそげ取って、また外皮が乾燥するまで放置しないといけない。中身を取るんだったら、その後で金槌で叩かないと開きませんよ、僕に言ってくれたらやっておくのに」
「こりゃあ、みんなあの子が取ってきたもんだよ、え」と老人が、暗い口のなかを見せながら言った。
「どうもいかんな……こういうことは、百姓みたいなことをやっても仕方がない。お宅から盗んだものを剥いてくれと、ドミトリーに頼むわけにもいかんしな。イワン、これはドミトリーの庭先に生っているものを、あの子が全部取ってきちまったんだよ、子供たちを引き連れて」
イワンが顔色を変えたのがミハイルにも分かった。
「あいつはどこにいるんです」
「二階、さ……」
とポレノフはクルミの表皮を指で擦りつつ言った。
「あちゃ、爪を切っちまった。二階だよ、寝かせてある。またどうせ熱を出すだろうからね……川に落ちたのさ。ドミトリーのところの犬が吠えたんで、子供らは一斉に逃げたというのに、一番年長のあの子だけが慌てて川へ落っこちたっていうんだから世話ないよ、全く……」
ポレノフ氏の言葉が終わらないうちに、イワンは身を翻して飛ぶように二階へと駆けた。彼らの頭上に、怒っているらしいイワンの荒々しい足音が落ちてきて、微かに空中に埃が舞った。老人は相変わらず、クルミを剥こうとして傷ついた指を吸っていた。ミハイルは彼に一礼すると、イワンの後を追って台所を出た。
ミハイルがそろりと階段を上がると、すぐ目の前の部屋のなかで、イワンがベッドのそばに座っているのが見えた。彼より一回りほど小さく見える少女が、外套を着たままベッドに横たわっていた。実際には何重にも重ね着をさせられ、その上に外套を着けているらしかったが、その苦し気な衣装の洪水のなかで、生気のない瞳を瞬いている様は、人間というより精巧な人形のようだった。
しかしその人形のような子供は、ミハイルの足音に感づいたらしく、彼の方に鋭く視線を向けてきた。ミハイルは息を呑んだ。その顔には、イワンと同じ鈍い湖の色を湛えた目が二つ、指環の宝石のように整然と嵌め込まれていた。
ただイワンと違い、その目には蒼白な頬も、険しく目をそばめる素振りもなかった。やや間隔が開いてついているダークグレイの瞳には、視線こそ備わっているものの、眺めたものを空中で丸ごと失くしているかのような印象があった。
ミハイルはイワンのような鋭さのない、人形のようにただ愛らしい顔を、咄嗟に彼の妹だと感じた。「イワン、可愛い子だね、きみの妹?」
イワンは初めてミハイルの存在に気づいたように、微かに目をそばめた。彼は黙ったまま、人形の娘の顔のそばへと手を遣った。耳元で切り揃えた栗色の髪、淡い血色の上った唇は、本当に少女の人形のように愛らしかった。
人形の娘は、淡い白紙を思わせるぼんやりとした笑みを浮かべ、イワンの瞳をただ見返していた。イワンは娘の喉元に指を入れ、呼吸を助けてやるように襟をくつろげた。ミハイルが驚いたことに、イワンはそうして開いた喉元に、両手でわっと掴みかかった。
「また、余計な仕事を増やしただろう、アリョーシャ」そう言った時の彼の声は、明らかに笑いを押し殺していた。
「川に落ちたんだって……馬鹿だな。ポレノフが下でぼやいてたよ、お前には手を焼かされるってさ。また皆を連れていったのか? 盗んだクルミのことは、よく注意してやったのかい?
ポレノフの奴、殻のまんま齧ろうとしてたんだぜ、お前が教えてやらなくちゃ駄目じゃないか。あんな青いクルミ、食べられやしないって。盗んでくるのが楽しみなんだって、あの死に損ないに教えてやらなくちゃ駄目じゃないか……」
アリョーシャと呼ばれた子供は、イワンが何か言うごとに、くすぐられたように笑い声を立てた。よく見るとイワンが喉元を締めにかかったのは素振りだけで、実際にはアリョーシャの首を掴んではいなかった。アリョーシャは、イワンの突然の素振りにも動じることなく、ただ彼の一挙手一投足を楽しんでいるようだった。イワンが老人のことを揶揄した時に、アリョーシャの発した笑いは、ミハイルの耳にもはっきりと分かる「共犯の笑い」だった。
ミハイルは目の前の現実を理解しようと努めた。階下での遣り取りから、ポレノフが触っていたクルミが、アリョーシャが盗んだ物らしいことは推測出来た。しかし目の前には、それを制裁するかのように出て行ったイワンとは別の少年がいた。
ミハイルは困惑した。イワンのこの変化はどうしたことだろう? 彼は初めから、アリョーシャを叱る気などなかったのだろうか? 彼が「死に損ない」と言った、あの老人の前で見せた怒りは、全くただの偽りだったのだろうか? そして、自分を締め殺そうとする仕草すら冗談にしか捉えない、この人形の娘の落ち着きは何なのだろう? 彼らは灰色の瞳の色の他に、何を共有して笑っているんだろうか……。イワン、とアリョーシャがふいにはっきりとした発音でイワンを呼んだ。
「イワン、こんにちは」
と言って、アリョーシャはイワンの袖を捕らえ、それからミハイルの方を指さした。ああ、と面倒見のいい兄はそれだけで、アリョーシャの主張を察したらしかった。
「お友達だよ、こんにちは。アリョーシャ、お前に子供の友達がいるみたいに、俺にも同い歳の友達がいるんだ。なあおい、これはアリョーシャ、見ての通り俺の弟だよ。きみの名前が何ていうのか、アリョーシャに教えてやってくれ、知りたがってる」
イワンは弟に向けた笑みを浮かべたまま、背後のミハイルに向かって言った。
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