第三章 イワンの欠席

 翌日、イワンは予告通りに学校を欠席した。

(試験のすぐ後で言っていたんだから、)

 と、ミハイルは指折り数えるように、イワンの行動を振り返って思った。

(別にあの子の看病とかじゃないだろう、川に落ちたとかいうのは、事故だったみたいだし――あの天使みたいな子)彼は、アリョーシャというイワンの弟の、砂糖で出来ているような愛らしい容姿を思い浮かべた。イワンとは兄と弟ということだったが、まるで同じ両親から生れたようには見えなかった。

 イワンの表情が殻の奥に閉ざされているのに対し、アリョーシャは?き出しの白い果肉のような柔らかい表情をしていた。イワンとの遣り取りを見ていると、どうやら感情の区切りさえはっきりとはなさそうで、その淡い笑みは言葉を知らない嬰児を思わせた。

 他方で、彼は白痴のようではなかった。イワンが何か言うと、時にはミハイルが言葉で理解するより早く、アリョーシャは兄の意図を理解したしるしを瞬時に瞳のなかに閃かせた。白い肌が血色をそのまま透かすように、彼の白い頬には、瞬時の感情や理解が遮るものなしに氾濫して表れるようだった。

(イワンの、弟だ)

 一見、星と石ほどに違って見える兄と弟を見て、ミハイルはその反応の鋭さからそう結論づけた。あの人形のような弟にも、神童の兄のような閃きがあることを、このイワンの前に神童だった少年は鋭敏に嗅ぎ取った。「他人の空似だろうと、嫌味で言われるよ」

 その日、アリョーシャが寝入った後で、まだ濡れている髪を梳いてやりながらイワンは言った。

「しかし他人であってくれた方が良かったようなものだ。こいつのせいで、俺までカラマーゾフを背負うことになった」

「どういう意味だい? きみだって初めからカラマーゾフ家の息子なんだろう、それにきみの方が兄さんなんだから

――」

「そうだよ、俺一人だったんだ。いや、二人か。本当のところ、何人なのかは親父にすらも分からない。でも、俺一人だったんだ。その後にこの『魅力的な小悪魔』が来た。こいつは俺が受け取らなかったものを受け取るために、俺の身代わりとして送られてきたようなものだ」

 イワンはまるで謎のようなことを言った。彼はそう言う時、全然ミハイルの方を見ておらず、この問題について他人の理解など予め必要としていないらしかった。

「でも、こうして身代わりを立てても、そのことに苦しめられる。身代わりにしたことを背負うんだ、こうして」そう言って、今度は彼はアリョーシャの顔にかがみ込んだ。

 ミハイルには、イワンが突然弟の顔に接吻したように見えた。イワンはしばらく微動だにせず、弟の顔の上に自分の顔を伏せていた。一瞬のうちに成立した動作には、イワンがそれを習慣化している故らしい円滑さがあった。

 ミハイルは数秒の間、何も考えられずに傍観した。

「寝てる、」

 ただアリョーシャの寝息を確かめていたらしいイワンは、まるで医者が宣告するようにそう言った。

(あの子は、幸福そうに眠っていた……)

 ミハイルには、その日に自分が見た光景の、全てが信じがたいものに思われた。裕福な家の息子だと思われていた哀れな神童、彼を養っている義理の老父、傾いている家、テーブルに散らばった青いクルミ、老人の持つ黄色い歯、隙間から零れる不明瞭な言葉。外套を着せられたまま、幸福そうに眠っていた愛らしい弟。そして弟が泥棒をしたと分かっても、決して叱らないイワンの優しい声音。そのくせ弟が寝入ると、まるで悪魔のように言い出す彼の態度。天使のように寝入っているだけなのに、家族に腫物のように扱われている、アリョーシャの存在の物々しさ。それらの一切が、これまで同級生の間で畏敬と侮蔑、嫉妬を込めて呼ばれていた「イワン・カラマーゾフ」という名前の、どこにも影を落としていないことにミハイルは驚いた。イワンの名前は飛翔する鳥で、彼の私生活は地面に残された影だった。彼は自分の名前と、自分の生活とを二つながらに、空と地面ほどに分けて持っているらしかった。

 アリョーシャが眠った後で、ミハイルが半ば夢から醒めるように、彼らの家から引き揚げて帰ろうとした時、戸口に立ったイワンが言った。

「じゃあな、『友達』」

 とうとう彼が最後までミハイルの名前を覚えなかったことで、ミハイルは「これは現実らしい」という感触を得た。

(今日は、二人とも何をしていたんだろう、イワンに、それにアリョーシャ)

 終業の鐘が鳴るのを聴いてもなお、ミハイルは呆然と机に座ったままでいた。その一日中、彼は前日に見た光景を反芻するのに費やした。

(会いに行こうか、)

 という考えがふと、彼の胸に起こった。実際には、その日の訪問以前にイワンと会話したことなど殆どなく、友達と言えるほど親しくなどなかったのだが、生活している彼らに会ってその印象を反芻するうち、ミハイルの胸には不思議な親しみが湧いていた。

(でも僕が突然行ったりしても、イワンは怒るだろうな、きっと)

 他方ですぐにそう思った。それには多少の根拠があった。

 アリョーシャが眠った後、彼らの間にはそれまでになかった、不思議な連帯感が醸し出されていた。今目の前で眠っているアリョーシャが、まるで彼らの共有する弟である、というような錯覚が起こったのだった。

 ミハイルはそう口に出さなかったが、イワンが自分に接する雰囲気が和らいだのを感じ、相手も自分と同じ気でいると考えた。彼らは視線を合わさず、しばらくアリョーシャを見ていたが、ミハイルは確証を得ようとふと目を上げ、そして落胆した。

 イワンはあくまで弟を見、ミハイルのことなどまるで忘れ去っていた。ミハイルが束の間、イワンからの親しみのように感じたものは、実際にはイワンが弟に向けていた憐れみの残余の匂いに過ぎなかった。ミハイル自身はその場で許されたわけでも、受け入れられたわけでもなく、ただ彼らに忘れ去られただけだった。

(イワンは、そしてアリョーシャ……、あの二人は、学校にいない間、何をしているんだろう?)

 ミハイルは独り、椅子の上で想像を膨らませるしかなかった。あの他人を全く必要としていない二人、育ての親らしい老人すら「死に損ない」と言って笑っている二人は、彼らだけの世界で一体何をしているのだろう?

 ミハイルが部屋に入る前、二人でいた彼らはまるで言葉を発していなかった。イワンはきっとどこにも行かず、まだベッドのなかにいるアリョーシャのそばを離れずにいるのだろう。二人きりでいる時には、言葉さえも交わさずにああしているのかもしれない。彼らは互いの瞳の反応を見るだけで、意図を通じさせられるのではないかと思われる瞬間が、あの短い対峙の間でさえ何度もあった。

 ふと、ミハイルの想像のなかで奇妙なことが起こった。彼が脳裏に描いていた彼らの姿が、ミハイルの意図しないように動き出したのだった。

 ベッドで眠っていたアリョーシャは、意志を持つかのように瞳を開き、ミハイルの想像の目を見返してきた。彼は兄の袖を引いた。彼は無言のままだったが、強い意志の力がその手に込められているのが感じられた。イワンは弟に促されて、ミハイルの方をちらと見た。その目には既に、ミハイルに対する嘲笑のような光が掛かっていた。彼はアリョーシャの顔に自分の顔を近づけて囁いた。

「冗談だよ、アリョーシャ、冗談だよ」

 自分がペンを床に落とした音でミハイルは正気に返った。既に放課後の教室には誰もおらず、辺りは薄暗くなっていた。

(いけない、もう帰らないと)

 ミハイルは急いで帰り支度を始めた。本当は今日訪れたかったのだが、あの森の奥深くの家まで行ったら、帰りは夜になってしまうだろう。

 ミハイルはその日、欠席したイワンを訪問することを断念した。


 翌日、イワンは前日に何事もなかったかのように、いつも通りに登校していた。ミハイルは彼を呼び止めた。イワンは怪訝そうな表情を浮かべつつ、放課後にミハイルと落ち合うことに同意した。

「きみが訊きたいことぐらい分かるさ」

 ミハイルが尋ねる前から、腕組みしていたイワンの方が口を開いた。

「学校をさぼって、どこへ行っていたんだって訊くんだろう。病気でもないのに? それともきみは本当は病気なのか? 僕らに隠していることがあるんじゃないのか、だろうな」

「少し違ってる」

 と、ミハイルは弱々しく、しかし皮肉交じりの笑いを込めて言った。

「もし僕が昨日、きみたちを訪ねて行ったら、きみは怒っただろうか? そのことを訊こうと思ってた」

「昨日?」

 とイワンは何か間違いを聴いたような顔つきで言った。

「うん」

 とミハイルはすぐに言ったが、イワンの怪訝そうな態度に怯んだのが声音に出た。

「来なくて正解だったよ、昨日家に来られても俺たちはいなかった」

 イワンは続けて何か言いかけたが、何かに気づいたように黙り込んだ。そして黙ったまま、彼の帰る道に向かってどんどん歩き出した。

「待てよ、それならきみたちはどこへ」

「教えるとは言ってない、ただきみがそれを訊くだろうことは知ってた。朝からきみの顔にそう書いてあるからな、それぐらいのこと、馬鹿でも分かるさ」

「そんなに訊かれたくないことなのか、さてはあの子が原因だな」

 イワンはぴたりと歩くのをやめて、ミハイルを振り返った。

「……きみは、アレクセイに会おうとしてたんじゃないのか」

 ミハイルはイワンの反応を奇妙に感じた。ミハイル自身は「きみたちは」とは言ったが「きみの弟は」とは言った覚えがなかった。

「なぜそう思うの?」

 ミハイルは皮肉でやり返すことも忘れて、単純に質問した。イワンはミハイルの目を真っすぐに見たまま答えた。

「イワン・カラマーゾフが隠蔽している一番厄介な事情だから」

 ミハイルは吹き出した。あのイワンが真剣な調子で、自分の名前を戯化して言うのがおかしかった。また彼が鉛筆の芯の先端のように尖らせている、剥き出しの警戒心が何だか滑稽に感じられた。彼はイワンを慰めるようなつもりで言った。

「ねえきみ、そんなに怒らないでくれよ。何だよ、僕がきみの秘密を暴こうとしていると言うの? あの可愛い弟のことを? あの子がきみの隠し事だって言うのか、それは冗談にしか聞こえないな。

 だって、きみは昨日簡単に、あの子を僕と引き合わせてくれたじゃないか、あの天使のような子。僕のことを友達だと言って、紹介さえしてくれた。どうしてきみは、あの子を他人に隠さないといけないんだい? 

――確かに、『他人の空似』と言われるのも分かるよ。

 他人同士だと言う方が似合うぐらいに似ていないものね。でも、そんなことがきみには恥ずかしいのかい? それとも、あんなに弟を可愛がっていることを?

 正直、驚いたよ。きみはあの子をすごく可愛がっているんだもの。だって泥棒してきたって――えっと、事情はよく知らないけれど、『悪戯』をしたって、きみは怒らなかったじゃないか。あの子もまるで、きみが自分を叱らないと分かっているみたいだった。きみは学校では、いつも学者みたいに難しく考え込んでるけど、家じゃあんなに甘い兄さんだということを知られたくないのかい?

 もしきみがそう言うんなら、僕は秘密にするよ。僕はもうきみたち二人の友達なんだから――」

 イワンはしばらく、このミハイルの罪のない演説を聴いていた。

 しかし最後にはとうとう堪え切れないとばかりに、身体を揺らして笑い声を立てた。

「ごめん、悪かったよ、俺の言い方が悪かったな。ねえきみ、きみはあいつのことをひどく誤解している。あいつは天使でも、ただの弟でもない、俺が夢に見る悪魔で、厄介者で、家庭教師だ。

 何であいつに会わせたかって? きみが『家庭教師がいるんだろう』とか言うから、実物を見せてやったまでだよ、あまりきみがしつこいからさ」

 ミハイルは驚いた。イワンの言う「家庭教師」という単語に、何か難しい意味が含まれているのか、と疑ったほどだった。

「ミハイル・カラムジン君」

 だしぬけにイワンがミハイルの名前を言った。

「僕を知ってるの」

「知ってるさ、いつも二番だから」

 そう言うと、イワンは肩に掛けていた鞄を背負い直した。彼は笑いを漏らすように咳き込み、それからミハイルに向かって言った。

「きみはカラマーゾフじゃない、自分にそんな幸福が与えられているとも知らずに、平気で他人の名前を追いかけるんだな。きみ、名簿のなかで、自分の名前が黒く塗りつぶされているのを見たことがあるか……恐らく、きみは自分の名前を見つけることが嬉しくて仕方がないんだろう、俺自身は見たくもないがね。

 アリョーシャ、あれがいるお蔭で、俺自身は賢くならざるを得ない。学校なんかにいるより、よほど多くのことを学べるよ。あいつがああして白痴同然であることで、俺ばかり賢くしてもらったみたいだ。

 なあきみ、本当に知りたいのはそんなことじゃないだろう。きみが一番知りたいことを教えようか――どうして俺に勝てないか? 

 きみに家庭教師がいないからじゃない、厄介者の弟がいないからだ。あれを抱えていないきみが、俺に勝てないのなんか当然だよ」

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