第十七章 他人の栄光

 校長杯の審査は締切の十日後で、月が改まって既にイワンは学校にいなかった。彼がいなくなって二、三日の間は、「イワンがいなくなった」という事実のために、クラス中が浮ついているようにミハイルには感じられた。

 しかしそれも数日のうちに収まった。同級生の誰にも、イワンは全く関心を示さなかったが、誰もが一度はイワンへの挑戦者だったことがあり、苦い敗北の経験があり、彼を強いて思い出すことには多少の苦痛の味わいが伴った。イワンはどこかで地獄にでも落ちていればいい、という総意が彼らの頭上に出来上がり、彼らは敵のいなくなった自分たちの巣を愛した。

 ミハイルは、彼らのはしゃぎぶりや、またその新しい日常に慣れていく様につけても、イワンの皮肉を連想せずにいられなかった。イワンが他の生徒を「雛鳥」と揶揄したことがあったが、自分を含め彼らには自由というものがそもそもなかった。つねに中間試験、学期末試験といった目にみえない幽霊に脅かされ、それが済むと束の間の「解放」を味わう。つまるところ、それが自分たちに支給される「自由」の模造品なのだ。またこの自由は、堂々と授業を欠席していたイワンが得ていたような、自ら手にする空白ではなく、支給される間隙でなくては、彼らには羨ましくないものだった。

(みんなイワンがいたことの証拠みたいだ)

 ミハイルはもはや眺め方の変わった、同級生たちの姿を見て思った。

 校長杯の結果は、演劇の授業の際に発表された。

 生徒たちに侮られ、「兄さん」というあだ名さえ与えられ、一種の人気を獲得することにさえなった若い教師は、授業の初めに「今日でぼくの役目は終わりです」と宣言し、悲鳴と喝采とを浴びた。みなこの若い「兄さん」を玩具として愛していた。

「どうして、なんで兄さんはいなくなってしまうの?」生徒の一人が、感情表現の試験のようにたっぷりと抑揚をつけて言ったことで、場が笑いのために湧きたった。

「それはねえ、新しい兄が来たからですよ。もっとも、彼の弟となるのはたった一人だけだけれど――校長先生、それじゃあ僕はこの辺で」

 そう言って彼は、校長とその隣にいる若い男にその場を譲った。生徒たちは、校長と見慣れぬ男が壇上にいることに気づいてはいたが、「兄さん」が壇上にいる間は休憩時間のように思い、ふざけていたのを止めざるを得なかった。

 ミハイルは一切を他人事のように見下ろしていた。彼は階段教室の中ほどにいて、過去の授業で劇場を模して使っていた教室を、ぼんやりと眺め渡した。

 実のところ、彼がイワンに見透かされた劇作家になりたいという夢は、まるでサーカスの猛獣遣いに憧れるような獏としたものだった。幼い時に彼の父が、彼と兄を伴って連れて行ってくれた観劇の思い出が忘れられず、彼は戯曲の世界と、その思い出に親しむのとを同時にした。彼はその思い出の世界に永遠の立場を得るように、自分でその夢の描き手となりたいと願った。その程度の夢であり、将来の方途という意味ではなかった。

 しかし、イワンに追い立てられるようにして読み込み、また彼自身も書くことを義務づけられたような戯曲は、小声から悲鳴のようなものまであったが、どの台詞も誰かしらの肉声だった。彼は夢のようなものに触れるつもりで、獰猛な獣の毛深い喉を撫でさせられた。

 彼は失望したりするほど、明確に己の夢を描いていたわけではなかった。ただ、獣の正体を知りつつ、ミハイルの腕を引き寄せたイワンの顔を、まともに見ないうちに去られた、という空虚な手応えだけが片腕に残った。

 ミハイルが言ってイワンが書いた、彼らの告白の合成のようなものは既にこの世になく、それぞれの腕で告白をすることになったが、この結果も、あれほど慌てていたようだったイワンが初めから仕組んだことのように、今となっては思われた。

 イワンの不在が、一切の証拠のように感じられた。ミハイルの感じている空虚、生徒たちの含み笑い、彼らを覆っている透明な鈍感さ――それらのなかに、かつてイワンが言及しなかったものはなかった。彼は自分の不在時の教室にあるものまで、全て冗談のなかで言い終えていた。

 教室の中央にある檀上には、落ち着かない様子で後ろへ下がった若い教師の前に、禿げた円い頭をした校長が、大仰なローブを着て立っており、うやうやしく優勝者の名前を述べようとしていた。

 ミハイルは数日前に、イワンがあの切迫した調子で自分に勝たせようとした勝負の結果が、あの太った藍色の水鳥のような中年男の手のなかにあるとはどうしても思われず、鈍く光る白紙をぼんやりと眺めていた。「アントン・ジー! おめでとう……」

 校長が優勝者の名前を告げた時も、空砲が鳴るのを聴いたように、彼はその声が自分を吹き通るのをただ感じていた。

 しかし他の生徒にはない衝撃を感じていたことは確からしく、彼は校長の方をぼんやりと見つめていたのだが、隣の若い男にその視線を捕まえられた。

 彼はイワンの言っていた校長の甥らしく見えたが、茶色の髪をやや長く伸ばしており、整った顔立ちはアリョーシャが青年になった姿のようだった。マカールという、イワンの言っていた名前を思い出したものの、その瞳の輝き方をみて、少しエゴールにも似ている、とミハイルは思った。マカールは彼の方を見て、校長の袖を引いた。校長が目を上げて、ミハイルの方へ向かって朗々とした声で、「きみかね、アントン・ジー君。早く降りてきなさい」と言ったので、生徒たちがどっと笑った。それから若い教師が裾から慌てて飛び出して来て、

「校長先生、すみません、その子じゃありません、アントンは、いまあの端にいる子です……」

 と言って、机に伏したまま居眠りをしている、アントンを起こしに階段を駆け上がっていった。アントンの、幻の水晶髑髏を探し求めて航海に出る少年海賊団の冒険劇は、十代の少年らしい発想が評価され、すぐに優勝が決まったらしかった。ミハイルは受賞に際しての校長の言葉を聴いていたが、日ごろ彼が少年たちに推奨している健康さ、団結力、健康さのしるしとしてのほんの少しの野蛮さ、好色さなどが詰まったもののように感じられ、イワンの言う「評価基準を見誤るな」という言葉が思い出された。アントンにそれが出来、イワンがその基準を見誤ったというのは喜劇のように思われた。

 彼は受賞の理由を聴きながら、笑いを堪えようとしていた。しかし実際には、笑うことも赦されるような雰囲気だった。誰もこれを、アントンの勝利だとはみなしておらず、彼らしい悪戯に対する大人の一種の無理解のように見なしていた。アントンは教師たちの志向を見抜いた上で、あえて適当な冒険譚を拵えたのに違いなく、それが正当な評価を受けて、優勝とされてしまうこと自体に喜劇があった。生徒たちはいつ、アントンを喝采する野次を飛ばしてよいものかと機会を伺っていたし、壇上に引きずり出されたアントンも、彼らのうちの何人かに目で合図を送っていた。


 人もまばらになった頃、ミハイルはようやく席を立った。壇上には校長が去った後、若い教師と、マカールとが残って何か遣り取りしていた。ミハイルはマカールの方が少し気にかかった。校長の演説中も、何人かの生徒が気づいていたが、マカールは足をふらふらさせたり、ふいに顔を上げたりして、いかにも校長の強いる緊張の埒に入っていないという態度を続けたし、自分は彼の生徒ではないと言いたげだった。その落ち着きのない彼の正体が、どこにあったかにミハイルは多少の関心が残った。

 教室を出ていく時に、マカールの方がミハイルの腕を捕らえた。彼はぎゅうとミハイルの左腕を掴んだ上で、ふと右腕を吊っているのに気づいたように、微かにその手を緩めた。

「きみかい、ミハイル・カラムジンは」

 小さなシェークスピア、と言って、彼はおどけるように握手を求めた。ミハイルは、その言い方や表情の快活さから、エゴールを思い浮かべた。そして、かつてエゴールから直接手紙をもらった時にイワンの得た感激は、このようなものだったのかと想像しつつ、左手を握り返した。それが自分には相応しくない栄光だと悟りながら。

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