第十四章 黙っていること
明らかに、僕にも分かることがある、とミハイルは言った。
「何が?」
とイワンは目を上げずに言った。
「これが僕のためなんかじゃないってこと」とミハイルは言った。
「僕の実力は知っただろう、勝つ見込みがない人間にどうして」
「なんだ、もうあきらめてるのか、まだ勝てないと決まったわけじゃないぜ。何もきみはシェークスピアと戦うわけじゃない。残り十日で、あのぼんくら教師がほったらかしていたポスターを見て、作品を最後まで完結させられるだけの情熱と実力を持った、ほんの少しの生徒とのみ争って勝てばいいんだ。試験で戦う人数よりよっぽど少ない、分かるか」
「だったらきみが、」とミハイルはつい言った。
「あれほど正確に講評が出来るんなら、きみがペンを取って戦えばいいじゃないか、きみは僕なんかよりずっと博識で、きみの方が何もかも勝ってる、それを僕は誰よりも知ってる」
「俺が?」
とイワンは目の底まで透けるほど明るく瞳を見開いて言った。
「ミハイル、きみは誤解しているよ。きみの作品の講評は、俺自身がたまたま読んでいた文芸評論の物まねに過ぎない。またきみの作品はまだ、そうだな、きみの好きなものに無理に毛でも生やした感じで、到底野生の動物とは言えない、肉屋に並んだ家畜の肉と言ったところだ。それを仕留めるのに技術も何もなかろう、ただ決まったやり方でフォークで刺すだけ……」
「だから、きみが殺したらいい」
とミハイルは血の滲むような声で言った。
「きみには自分で殺しをする勇気はないのか。計画を立てて他人に履行させる、それのどこがえらいんだ。何だか知らないが、きみが勝ちたいんだろう、この試験に。珍しく、きみ自身がさ。でもきみはもうじきいなくなるから、自分の代わりに僕に目をつけた、というわけさ。
アリョーシャに何でも仕込もうとしたみたいに、今度は僕を仕込んで勝たせようというわけさ、きみの言う『道楽』だと僕にも分かったよ。
あいにく、僕はきみとは違う。どんな意味でもね、きみが想像する通りにはいかない。僕みたいなぼんくらに時間をかけて仕込むひまがあったら、きみ自身が銃を取って外へ出たらどうだ。野生の猪でも兎でも、好きなのを選んで殺してきたらいい。きみ自身にそうする勇気があるんならさ、どうなんだ」
イワンはミハイルの剣幕に押されるような表情になって、少しの間黙ってから言った。
「ミーシャ、頼むから妙な気を起こさないでほしい。信じて貰えないかもしれないが、俺はきみ自身に良かれと思ってやってる。はっきり言って、準備にかけた時間は俺の方が多いぐらいだ、きみだって見てるだろう」
「信じないと言ったら?だいたい本心を明かそうとしないきみを信じろという方が無理な話だ。きみが僕に執着する理由なんかないはずだ、どうせ何か事情があるんだろう? 理由も分からずにきみに利用されるのなんかごめんだ――」
彼らの間に、西日に染まった沈黙が落ちた。こんな遣り取りはこの数日で何度も繰り返されてきたが、事情、という言葉がこの時、彼らの間で短い悲鳴のように響いた。
ミハイルは自分がアリョーシャに言及したと思った。なぜか自分の方がイワンを傷つけたような気持ちで目を上げた。
「別に関係ないさ、誰も」とイワンは小声で言った。
「きみの満足するような嘘を考えることは出来ても、もう言えない。本当に、事情のないことを信じて貰うにはどうしたらいいのか、俺には分からない。たぶん俺たちはとっくに親しいんだろうな。口論になって何を言うかは前もって察しがつく。実際に事情に精通していなくても」
ミハイルは、イワンが『薔薇』や『恋人』という言葉を平気で口にした時と同様の衝撃を胸に感じた。
「いま、何て言ったのか、僕に分かるように説明してくれないか」
「繰り返して言う罪の告白は自己弁護に過ぎないよ、」とイワンは瞳を見開いて、明るい調子で言った。彼は明らかに、それを冗談として言っていた。
「もう一つ秘密を教えておく。悲劇の他に、もう一つ抜け道がある」
自分自身のことを書くんだ、これならば他人が入る余地がなく、誰よりも自分が精通していることだと言い張れる、他人の評価に耐えるものにするためには、なるべく自分から遠い人物、時代、設定にはしないことだ、きみ自身の密かな告白だと思われるぐらいでちょうどいい――。
「きみが言えそうで、言えなかったことを言わせたらいいんじゃないのかな。美女や、狐や、王子や、兵士。彼らの口を使ってなら、言えるだろう」
文字にするというのは、そういう機会でもあるんだ、とイワンは妙に浮ついた調子で言った。
イワンは盥のなかに布を浸し、それをつけてアリョーシャの額を拭った。布を水面に漬けるたび、微かな水音とともにアルコールの匂いが辺りに漂った。
「あいつが勝てるかどうか、これ自体が賭けだな」
とイワンは独りごとに言った。アリョーシャはベッドに寝たまま、イワンの指をつかみ、人差し指と親指とを曲げてくっつけた。それから小指で指の腹を軽くつついた。
「それか、何だったかな、あいつとの合図だろう、一通り説明してもらったけれど、忘れた――それももう見ることはない」
そう言って、彼はアリョーシャの口元を布で拭った。わずかに含まれた成分だけでも彼には構わないらしく、布をまるごと口のなかに入れようとするので、イワンは素早く取り上げた。アリョーシャはイワンが叱ると思って身を竦めたが、イワンは布を取り上げたまま茫然と自分の考えに浸っていて、ふと身を翻すように机に向かった。
彼自身の旅立ちに向けて机の上は整頓されており、殆どの書物は既に荷物のなかに詰められていた。彼は「シェークスピア」とわずかに文字が残っている本を開いた。
「読んでいると言ったってちっとも分かっちゃいない……」彼は不平を漏らしつつ、ノートに走り書きをし始めた。「自分のことを書け、というのに、あいつが取り上げるのは他人の美質ばっかりだ。せめてそれにひれ伏す、あいつ自身を横に描いたら構図になるだろうに……」
「あんまり現実味がないな、」
イワンは、新聞記者のエゴールがかつて自分に言ったことを思い出した。
「ワーニャ、小説を書いてみろと言ったが、これは『目撃者』の仕事とは違うぜ。そこのところをまず言っておくべきだったな」
察しが悪いということを言われて、イワンはかっとなった。彼は、この一回りも歳の違う友人の前では、あらゆる感情に率直になり、腹を立ててくってかかることすら出来た。
「何が違うの」と彼は不平を鳴らすように言った。
「まず書き終わるだけでも上等だ、とあなたは言ったじゃないか。既定の文字数は大幅に上回っているし、起承転結だってある、前提を間違えているとは思わない」
「万人受けすると言えばする、抽象的なテーマだ」エゴールは分厚いノートを閉じて言った。
「犯罪思想を持つ学生、元役人、金貸し、沢山の子どもたちを抱えて気の狂いそうな母親、親のために身売りした少女娼婦――これらのリアリティをどこできみが手に入れたかと言えば、おれがきみに頼んだ仕事からだろうな。こんな片田舎で、静かな暮らしにくるまれた、夢見がちな中学生が考えることと言えば、神話の英雄、宝物、兵士、絶世の美女、まあそういうモチーフになりがちだ。きみ自身が目撃した、貧しい人々の悲惨な暮らしを題材としたのは、さすが我らが記者と認めるよ。
しかし人間にはいろいろな面がある。それが分かるのは彼らと苦い経験を分かち合った時だけだ。目撃しているだけなら、人は善玉と悪玉に区別できる。きみは意図して彼らを白と黒に分けたんだろうが、あまりに現実味に欠けている。天使と悪魔、善玉と悪玉の対決、これじゃあまるで三流のゴシップ記事だな」
イワンは怒って席を立った。
「それじゃあ何だ、あなたはわざわざそれを言うためペテルブルグから来たのか」
「まあ怒るな、大事な忠告だぜ、おれでなくてもそう思う」そう言われてイワンは押し黙った。ミハイルは酒瓶の栓を抜いて、グラスを見もせずに注いだ。
「飲むんならおれはかまわんよ」
と言い、もう一つのグラスにイワンの分を注いだ。それは彼の手の届くところから離れていた。
「酒は好きじゃない」
「そうかい? たまに酒臭いから、こんな片田舎で中学生なんかやってるのは辛かろうと同情していたよ、ワーニャ記者」
「アリョーシャと俺とは違う」
それは痛切な告白だったが、エゴールは聞いているのかどうか、まるで無風の表情でいた。彼は無造作にページをめくっていたかと思うと、ある地点でふと気づいたように言った。
「あの子が出てこないな、」
彼はページを再びめくりつつ、癖のある髪を手で掻き上げながら、はっきりと断罪するような調子で話し出した。「意図して出さないものか。身近にいる人物なら、意図しなくても登場人物に投影していたりするものだけれど、最初から最後までそれらしい影がない。――ろくでなしの、酒飲みの弟なんか出したくないのかな」
「アリョーシャはそんなんじゃない、あいつには俺が」
「白痴扱いにされるぐらいなら、予め程度の分かる白痴にしちまえという魂胆か」
イワンはナイフで刺されたように驚き、それから黙った。彼はエゴールに対し、自分が反駁できないということを理解していた。言えば言うほど、その言い訳を解剖されて、彼自身見たくもなかった真実を、己の病んだ内臓の色のように見せられるのが目に見えていた。
「それもただの酒じゃないね。何だいあの匂いは。こんな田舎だとああいう酒があるのかと思ったが、ここで足がつくようなことをきみがやるとは思えない。どうも素人が作った感じがするな。誰から手に入れてる? ――まあそんな特ダネはさておいて、ワーニャ、きみ自身の考えを聞きた
い。何のために弟に酒なんか飲ませてるんだ」沈黙の後、イワンは小声で言った。
「列車に乗る時だけだ……」
彼の声が広がり出すのと同時に、蠅がやってきてテーブルの上でしきりと手足を擦った。
「外で暴れると、どこに連れて行かれるか分からないから ……あれがあれば大人しく寝てくれる……寝る時は外に出て行かないように……ほんの少しだけ……」
「でもなあ、あれには中毒性というものがある、きみ自身にもだ」
エゴールはのどかに、イワンのノートをめくりながら言った。
「きみだって、酒で人生を棒に振った人間をさんざん見てきただろう、娘を売る、仕事を失くす。あれの力にすがって立つ人間なんかいない。今からあんなものの中毒にして、弟がどうなっても構わないのか」
「どうなってもいいわけじゃない、幸福を願ってる、」イワンは叫ぶように言った。
「でもあいつよりも、俺自身が幸福になりたいと思ってる」そう言った時、イワンはエゴールが自分の表情を見て、わずかに目を細めたのを見た。彼は構わずに話し続けた。
「だから、家の他のどこにも連れて行かない。医者がなんだ、あいつを違うものにしてしまう薬なんてくそくらえだ。酒だったら、あいつは少し陽気になるだけだ。本当はよく笑うのに、周りが怯えさせるから、ろくに口も利けないようになっちまったんじゃないか。
赤ん坊みたいによく眠る――それのどこが悪い? 現実のどこにも、あいつが平穏にいられるところなんかない。あいつが悪魔や怪物を見るのは、頭がおかしいからじゃない、ただ目を開けてるからさ。現実そのものが、あいつには怪物に見えてるんだ。目を閉じさせて、そんなのもの存在しないと教えてやればいい。
分かってるよ――、本当はそうじゃない。あいつは他の子供と違ってる、だから、幸福だって他人と違うものにしてやる必要があるだけだ。俺はあいつより先に親父の息子として生まれたせいで、人生がどんなところなのか分かってる。あいつを待ち構えているものを、俺はもうとっくに身に浴びた。
エゴール、あなたの言う通りだよ。このままじゃ、あいつがどうなるかなんて分かってる、でも、分かっている通りになるのなら、俺はそれで構わないよ。せいぜい酒を欲しがって暴れるぐらいだろう、それなら赤ん坊の頃と変わらない。もう母さんはいない、親父はあいつを忘れてる、あいつが欲しいものを与えられるのは俺しかいない。あいつが怪物を見たがるんなら、どんな恐怖だって俺が与えてやるんだから、どこにも行く必要なんかない。
他人があいつを気に入るのは、あいつが素直だから、自分の気に入るように作り変えられると思わせるからさ。あいつはどこにも、誰にも連れて行かせないよ。あいつが違う人間に変えられるのを見るぐらいなら、俺が知っている最期を見届ける方がずっとましだ」
エゴールはこの間、彼をみつめる己の瞳のなかに焦点を作るまいと努めているようだった。聞き終わると、エゴールは無造作に「ワーニャ、書きなよ」と言った。
「別に、己の罪を告白しろ、というんじゃないさ。ただ、きみは現実に何が起こっているか、その目でよく見ておく必要がある。自分自身の目撃者となる機会を持ちなさい。最初に会った時から、あの子がきみにとって何か特別な存在だということは分かってた。それ以上のことまでは、想像しなかったけれど……」
そう言って彼は口をつぐむように酒瓶に栓をした。
「あの子が興味深かったのは、きみの弟だからというより、何というか、今までに会ったなかでの誰とも違う、きみの言う善とも悪ともつかない、まだら模様のような魂がひそんでいる感じがしたからさ。きみの書く小説にあの子が登場した時、果たして天使のようになるのか、悪魔のようになるのか――(なあ、しかしこの次の小説ではいきなり『悪魔』を登場させるのは止めてくれよ――きみにとってはあれが現実なのかもしれないが、おれとしては幻が出て来る時点で、現実とは思えなくなった)願わくば、そのどちらとも言えない、現実のアリョーシャを見てみたいものだな。きみじしんは、あの子をまるで無垢なお人形のように見ているらしいが、おれにはどうも違って見えてる」エゴールはこれきりにする、とばかりにイワンのノートを閉じた。彼は沈黙しているイワンを見て苦笑した。
「なんだ、ずいぶん大人しくなっちまったな」
「相手があなただからだよ」とイワンは言った。
「あなたは大人で聡明だから、いつも何も言うことがなくなる。別に敵意を持っているというんじゃない、親愛のしるしみたいなものだ」
「そうかい、しかしきみは決して、自分で言うような『他人を信用しない人間』だとはおれは思わないね。むしろ『例外』に対しては余りにも寛大だし、反乱を起こされた場合の準備というものをまるでしていない。その点、友人として心配なくらいさ。多少は相手に、裏切られる余地というものを残しておきなよ。誰だって相手より自分の幸福の方が大事さ、時にはそのために行動さえ起こす――分かってるだろうワーニャ」
イワンは彼を恐れた。自分の打ち明けた内容について、エゴールが実際のところ殆ど言及しないことが、世間や、自分以外の正義が自分にどのような目を向けるか、ということを如実に表していた。
エゴールのような寛大な監視者が出来たことを、彼は己の罪の告白の成果だと思い、また奇妙なことではあるが、自分が本当にその罪を犯していることの証拠のように感じた。
彼はこの年上の友達に、断片的に自分の罪を打ち明けたことで、その後に断罪されない苦しみが向こうからやって来る、ということを理解した。こればかりはエゴールにも打ち明けるわけにいかなかった。
彼はエゴールの諭すような眼差しに、アリョーシャが自分を見る目を重ねた。それらは同じ現実を暗示するものだった。アリョーシャが悲しいわけではないのに、イワンに言われるがままに頭に描いた恐ろしい想像を吐き出すように涙を流す現象に、イワンはアリョーシャの静かな告発をみた。
既にそれが現実の一部を占めている以上、彼の罪はもはや秘密ではなかった。自分で告白をしなければ、弟の涙のような突然の契機によって、彼の罪は明るみに引き出されることになるだろう。このまま沈黙を続けていても、自分に平穏というものは訪れず、いずれは黙っている自分の息遣いにすら罪のしるしを見出すのではないか――。自分で自分の罪を明かし、相応しい罰を得ることが、イワンに残された生き延びる道であることは明らかだった。
しかしなぜ、とイワンは思った。背後では既にアリョーシャが寝息を立てていた。
(なぜ告白をしなければならないと思うほど、俺は苦しむようになったのか――)
彼がアリョーシャに毒を盛ることを思いついた時、彼はその企みの恐ろしさに怯んだが、選択した時点において彼に混乱はなかった。彼は毒というものなしに続いていく現実の先にある未来に震え、決意して自分の手をその行為に染めた。それを始めた時、彼が自分に与えた名前は罪人でなくただの兄だった。
(告白をまぬがれるから、読むんだろう――。何も弟を殺す必要に駆られた兄は俺ばかりじゃないはずだ――)
イワンは開いていた本を手繰り寄せた。そして実際のところエゴールにも隠し通した、まだ犯していない自らの罪のことが既に書かれていることを祈って、夥しくページをめくった。
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