第六章 ぼくを忘れないで
なんで、と呟こうとして、その言葉が喉の奥で消えるのをミハイルは聴いた。
「なんでだか分かるだろう、殺しちまうためだよ。敵討ちさ、きみの」
「殺すって、誰を?」
「蜂、」
とイワンは冗談を言うかのように笑いを含ませた声で言った。だが実際のところ、それはただの事実だった。
「きみが家に来て、アリョーシャに言われて、二階の軒下にある蜂の巣を取ろうとしてやっただろう。あれはポレノフに触るなと言われていたせいでもあるんだ。
手に入らないものが欲しくなるのは、子供の性だからな。二階のすぐ軒下にあるのに、満月を取るぐらいに遠くなった。俺に言っても取ってもらえないことは、最初から承知していたんだろう。俺の前でもあれが欲しいことは隠してた。
あいつは虎視眈々と、きみが自分に利用されに来るのを待ってた。自分を密かにいじめる兄の友達が、自分にはそれだけ特別な関心があることを分かってたんだな。そしてその友達は、自分が多少の無理を言っても、こういう種類の無理だったら、喜んで従うということも弁えてた」ミハイルは骨身が冷たくなるように感じながらこの言葉を聞いていた。
「俺があいつに起こっていることを承知していないとでも思ったのかい。よくも火薬の作り方や、小鳥の絞め方なんぞを教えてくれたものじゃないか。俺をずいぶんと恐れて
いるくせに、なめられたものだな」「でも、アリョーシャと僕とは、」
とミハイルはイワンへの恐れを隠すように声を振り絞った。
「もう、友達なんだ。どんな危険なことだって、みんな分かち合えるよ」
「あいつは火さえも恐れなくなってた、」イワンは微笑を含ませた声で言った。
「おめでとう、きみがあいつに影響を与えたんだ。俺ですら成し遂げられなかったことを、きみがやったことを認めるよ。
きみがずっと、アリョーシャを手に入れたがっていたのは知ってた。それも、白痴同然のアリョーシカじゃなく、きみに出来ないことをやる勇気をもった、兵隊のアリョーシャだ。きみはそれをも成し遂げかかっていた。
もっと慎重に、寝ている時にナイフで喉を刺せとでも言ったら、あいつはナイフの切れ味を試すためにそうしただろうに。
俺でさえ成し遂げられなかった、アリョーシャを自分の都合の良いように作り変えること――それが出来たのは、きみのやり方をあいつが気に入ったからだろうな。俺は何であれ、本物を触らせることはしなかった。あれは駄目だ、これはいけないと言っても、あいつは一向に理解しないが、それでも火だのナイフだの、実物を触らせるわけにはいかないと思ってた。
ところがあいつはきみを通じて、何やら『危険ではなくなる火の扱い方』というものを学んでた。こうすれば火は自分の方に燃え移らないと確信して、きみに教わったことを試す楽しみを感じながら、あいつは軒下の蜂の巣に火をつけたんだ。きみを殺してしまったかもしれないものが、消えてなくなるように。
きみは邪魔なものを消す方法というのを、あいつに仕込んだね。あいつは喜んでる、あいつのために礼を言うよ。ただどうせなら、そんなことをしたら家が燃えるし、地獄 34 では人は生きられないということを教えてほしかったな」そこまで言うと、彼はミハイルの襟元を掴み、恐ろしい早さで地面に引き倒した。倒れたミハイルの背や頭を、イワンは靴底で滅茶苦茶に蹴飛ばした。ミハイルは全身に降り注ぐ痛みを、イワンの告発の言葉そのもののように感じながら、それが骨身に染み込むのを眺めていた。
「お前が、アリョーシャを狙ったんじゃないことは分かってる、」
イワンが忌々し気にミハイルの髪を引っ張り、顔を仰向かせつつ言った。ミハイルの鼻から細く血が垂れた。
「せっかく懐いてきた駒を失っても、何の利点もないものな。だがあいつ自身、右の手と頬に火傷を負った。もしポレノフが悲鳴を聞きつけていなかったら、今頃あいつは蜂と同じ運命を辿っていただろうな。きみが教えた、マッチのつけ方のお蔭で。
ミーシャ、悪いがあいつはきみの手になんか負えないよ。きみが遊びに来なくなったというだけで、蜂の巣を焼いて祈るような子なんだ。神だの奇跡だの、そんなもの現実にはないと言ってもちっとも聞きやしない。
きみからあいつに、現実なんてものは蜂の巣も同然で、あいつには触ることが出来ない危険なものだ、死後の世界がどこかに隠されてるなんて話は、嘘だって話してやってくれないか。そんなもの、本当に行ってみてもありはしなかったって、きみから言えば通じるかもしれない――」イワンがそう言った後、何か金属の擦れる音が響いた。ミハイルは自分の頭から何かどろりとした液体をかけられたのを感じた。ミハイルは一瞬、それが蜂蜜なのではないかと思った。頬に触れるとたちまち指先が黒くなった。それは焦げるような匂いのする黒い油だった。
イワンの押し殺したような声がふと耳元で聴こえた。
「狙うんなら、弟なんか狙わずに俺を直接狙えよ。きみはつくづく度胸がないんだな、もし俺がきみの立場だったらこうしてる。ナイフで刺すなり、燃やして埋めるなりしたらいいじゃないか――」
ミハイルは丸太のように横たわり、ただイワンの足元を見ていた。イワンのポケットから、マッチ棒が乾いた音を立ててはらはらと落ちた。それはかつて、ミハイルが玩具として密かにアリョーシャに渡したものの一部だった。イワンはかがみ込んでその一部を拾い上げた。
その指先が、猛烈な勢いでマッチを擦る音をミハイルは聴いた。
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