第十章 侵入者の価値
これが投げる、これが取る、これが走る、と言い、ミハイルは曲芸のように指先を曲げたり伸ばしたりした。
「これが『小鳥』、それにこれが『殺す』」
もう分かったよ、とイワンがうんざりとした調子で言った。
「それをきみは、あいつに仕込んだって言うんだろう。確かに、何だか知らないがきみがそんな真似をして、あいつをあやすのは見たことがある。あいつがやっているのは見たことがないがね」
ミハイルはイワンの言葉の先を遮るようにかぶりを振った。
「あの子は聡明だよ、僕のする合図は全部一目で覚えていたかもしれない。ただ自分の手でやって見せるようなことはしなかった。恐らくきみが自分にだけ注目していることを分かっていたんだろうな。僕の身体を使って合図を作るようにすれば、たとえきみに見られたとしても僕が一方的にやっていることに装えると思っていたんだろう。『自分』が、『小鳥』を、『殺す』、この手の組み合わせをこうして左右に揺すれば『殺すこと』になり、上下に揺すれば『殺せ』という命令形になる。アリョーシャはこのこともすぐに覚えた」
イワンは頬杖をついていたが、やがて苛立った表情の目を上げた。
「だから?」
「アリョーシャが僕にさせた合図について、察しがつくだろう、きみなら」
あなた、という合図をミハイルはした。それからさらに手を閃かせて言った。
「これが『兄』だよ。兄さん、これは是非とも必要だった。きみが見通していた通り、僕があの子に近づいたのは、きみを破たんさせるために必要な手駒に思えたから――でも、それはあの子も同じだった。
僕らはお互いにきみとの関係を思い通りにするために、お互いを利用しようとしていた。まさに『鏡』だったな、僕らの関係は。お互いのやろうとすることが手に取るように分かったよ。きみに見られていない、無視されている者同士、いくらかの手を示すことで、お互いに普段隠しているものがどんなものなのか感じ取ることが出来た」
それから彼は指を揃えてイワンの目の前に垂らした。イワンの注目が爪の辺りに集まったところで、彼は手品でもするようにその手の形を変えた。
「これは無言の合図、声を出さなくてもいい言葉だと理解した時、あの子が何をやったと思う? 初め、僕の手をもう一度よく見るために掴んだと思ったけれど、違った。あの子の普段書く文字からは想像できない、確かな筆跡みたいな強い力で、僕の指を折り曲げてこうやったよ、」
そう言って彼は『兄』が、『弟』を、『殺す』という合図を示した。
「冗談かと思った、」
とミハイルは言った。
「でも、その後で『蜂の巣を取れ』だろう――。しかも『兄には見せるな』と来たもんだ。見間違いじゃなかった。彼は最初から、それが内緒の暗号で、密かに通じさせられる無言の言葉だと理解していたんだ。形を試すような素振りをしながら、最初から僕に内緒で伝えるつもりで『兄』『弟』『殺す』って手を作ってた……。
あの子が失敗ばかりするって言うけれど、それもわざとだろうね。知らないかもしれないから言うけど、きみが驚いて、ポレノフさんを呼びに走ったりする時に、あの子は溜息を吐くような目で僕を見るんだ。自分が冷静だということを、僕には目配せで知らせてくるんだよ。大騒動になれば他人が自分に注目しない隙が生まれることを、あの子は経験で分かってるんだろう。自分を縛める縄を緩めさせるように、わざと周囲を混乱させる。あの子は冷静に、ただの自由を渇望してる、だからこそ騒動を起こす」
ミハイルは殺す、という形に組んだままの手を左右に振った。
「これを向こうに押し出すと、疑問形になる。これも僕が教えたことだ。あの子は合図の『兄』『弟』『殺す』って僕の手を作った後、左右に振って、知っている』かって僕に尋ねた。だから僕は『知らないよ、アリョーシャ』と答えた、肉声でね。何だか彼の手に乗るのが怖くてそうしたんだ。すると彼は繰り返した。『兄』きみだよ、イワンが、
『弟』自分を『殺す』と――」
イワンは立ち上がった。ミハイルは、自分の言葉が彼を動かしたという結果に今さら驚いた。あれほどイワンをよく憎むことの出来た心が、実際には彼を追い詰めた結果を見ることの恐れに震えていた。ミハイルがそっと彼の目を見ると、意外にもイワンの表情は怒りには囚われておらず、純粋な驚きのために微かに開かれているだけだった。
「ミーシャ、結論から言ってくれ。合図だの何だのはどうでもいい、つまりきみは俺に何のことを言うつもりなんだ」
「あのことだよ、」
ミハイルは目に力を込めてイワンを見返した。言葉にすることを躊躇ったことを口にするのに、ミハイルは己の拳を強く握りしめた。
「もう何かしらの習慣になってるんだろう、アリョーシャを見ていれば分かる。イワン、きみはあの子を賢くするために何でもやったと言うけれど、あの子に何をしているの? あの子は聡明だよ――きみが思うよりもずっと。自分が与えられているものの正体を理解できるぐらいに。
きみは一体、あの子に何を与え続けているんだい? どうして、あの子がままごとを毒を食わせる遊びだと理解しているのか、考えたことがあるか――?
彼は、確かに自分の意志だと示しながら――『蜂の巣』を、『取れ』と、命令したよ。最後には自分の手を使ったんだ。これは自分の肉声だと言うつもりだったんだろうな。
あれが危険なものだってことぐらい、彼だって承知の上さ。でも、どうしても欲しかったんだ――蜂の巣、あんな爆弾みたいなものが。あの子は自分の掌に入る危険を手に入れようとしてたんだよ。僕が気に入られたのだって、僕が引きずっていく先にいつも危険があったからだろう。分かるかいイワン――今やあの子は、安楽椅子に縛りつける庇護者じゃなく、危険の縁へ引きずっていく解放者を求めてるんだ。
あの子にとっての僕の価値は、あの子に優しかったことじゃなく、きみに敵意を持っていたことだ。彼が暴れても庇護の頑丈さが増すだけだ。余所者の僕があの家の平穏さを壊して、外へ連れ出すことを期待してたんだ。だから僕に懐く振りをした。あの子を利用しようとする僕に同意する振りをして、僕の共犯者になれることだって暗に示してきた。
完璧な合図を送ったのは、準備が整ったっていう意味だったんだろう。あの子は実際聡明であることを明かしだし、僕が彼を買って自分の側へ連れて行くことを期待してた。
イワン、毎日あの子と一緒にいるくせに、きみは一体何を見ている? どうして僕が言ったことに、きみは気づいていないの? きみはあの子に、」そう言った時、ミハイルは自分の舌に自分がこれから言おうとする言葉の棘を感じたように思った。そして今度は、それがイワンの表情にどんな傷をつけるのかを見ようとした。
「自分の見たいものをしか見ていないんだろう、きみよりも愚かな、他の全ての人たちがそうするのと同じように」イワンは傾いてきた日差しを全身に受けていた。それから微かに身じろぎして、ミハイルに何か優しく言おうとしている気配だった。ミハイルはその兆しに囚われまいとした。
「匂いだよ、」
とミハイルは自分でその一言が、口をついて出たのに驚いた。彼は自分で、無自覚のうちに自分がイワンとの別離を受け入れたことを、自分の身体に起こったこの現象で知った。
「匂い?」
イワンもこの一言に驚いて目を上げた。そのアリョーシャと同じダークグレイの瞳のなかに、陽光がどっと入って靴跡を散らした。
「イワン、僕がなぜ分かったと思う――あの子の、いやきっときみの秘密なんだろう、匂いだよ、アリョーシャの身体から匂いがするんだ」
イワンは笑い声を立てた。それは明らかに、敗北のしるしとして彼らの間に響いた。
「匂いか、それなら仕方がないな――きみが本当に知りたかったのはそれか、」
そう言い、イワンは俯いて笑うことを止めようとした。しかし急にはそれを止めることが出来ずに、苦しむような笑い声を立てた。
ミハイルは背後に、黒い鉄の塊が滑り込んでくる気配が近づくのを感じていた。彼はこれから起こることについて、自分の想像が成就することを懇願しながら拒んだ。イワンは突然起こった病的な笑いに押し込められそうになる彼自身を、必死に取り出そうともがいていた。
「まさかきみに教えられるとはね――仕方ない、きみが聴きたかった話をしてやるよ。あのことか――殆どきみが発見したようなもんだ。ちょうど罪悪感が切れてきたところだった、捕まえてくれて良かった――」そう言うとイワンは口を開いた。
ミハイルはその後の人生において、どんな場合にも自分はイワンに及ばないと思ったものだったが、それはイワンが抜群の秀才だったためではなく、罪の告白の滑らかさを見たせいだった。イワンにとって身を切るように辛いはずの、弟に対する紛れもない罪の告白を、それを暴こうとした他人に向かって躊躇いもなく――ただし羞恥に目を伏せて――澱みなく言い切った時、ミハイルは自分の身体に刃を突き立てた人間の汗を見たように、その光景を素晴らしい勇敢さの結晶のように感じた。
彼はその後もイワンという存在を思う時、この時の告白の見事さを思い浮かべずにいられなかった。少しの躊躇いの後、わずかに覗いた白い歯が、あたかも列車の車輪のように正確に律動し、一本の罪の道を辿っていく様を、決して勇敢ではない少年として、ミハイルは震えながら見つめていた。
ただ、この告白の音色が実際にどんなものであったのかは分からなかった。それは彼らの背後に滑り込んで通り過ぎた、現実の列車の軋む音によって轢死体にされてしまった。
「……だよ、」
とイワンは粉々にくだけた言葉を最後に一つの音にまとめ、審判を待つような目でミハイルの顔を見た。彼のダークグレイの瞳の底には、もはや出血らしい苦痛の色はなかった。恐らくこんな光景が地の果てからいつかやって来るのを、覚悟していたためではないかと思われた。
あれほど覚悟を決めて攻撃したというのに、ミハイルは咄嗟に、自分はやはりイワンに使われたと感じた。それから、どんな言葉を吐きかければこの場合、イワンの意に適うのかとさえ思った。
「……聞こえなかった、」
ミハイルは、恐らくイワンにとって手ひどい打撃になるであろう、しかし正直な事情を言った。決して面当てのためにそうしたのではなく、聡明なミハイルはこの場合、イワンを徹底して打ちのめすような言葉を言わなければ、彼の罪を暴いた人間の振る舞いとして不完全で、彼に済まないように感じたのだった。
「え、」
イワンは微かな動揺を含ませた笑い声で言った。しかし彼はミハイルを許していることが感じ取れた。とどのつまり、ミハイルは及第したらしかった。イワンがいつか来ると思っていたらしい、彼の罪を暴く余所者として。
「そうか、それは残念だったな、もう行こう」
そう言い、イワンは椅子に乗せていた荷物を纏めだした。ミハイルは自分の役割が彼によって引き剥がされ、終わったことを感じた。つい先ほどまで彼らを緊密に結びつけていた一つの光景が、慌ただしく終わろうとしていた。
「待てよ、もう一度言ってくれないか」
「二度と言うもんか、きみには分からなかったんだろう」とイワンは平素の、どこか優しい冷淡さを回復して言った。
「すべての現象は一度しか起こらない――二度繰り返せば、それは成立する以外の余計な条件を含むことになる― ―だから、出来事の目撃者の証言には値打ちがあるんだ。記事にされ、複製される時には何かしらの条件を含まされ、醜い自然の模造品になるだけだけれどね――何度も行われる罪の告白なんて、ただの自己弁護に過ぎないよ。きみのお蔭で俺は本当に罪を告白出来た、きみには感謝してる」そう言い、イワンはさっさと歩き出した。ミハイルはその後を追った。
「エゴールの仕事はいいのか、」
「構わないよ。さっき見たなかにはいなかったからそう言うさ」
「今のは、エゴールの受け売りか」
ミハイルが息を切らせてそう言うと、イワンは微かに目に力を溜めて振り向いた。
「そう言えばきみの話を聞いていなかったな、きみは将来、卒業したら何になりたいんだい? ――不具者になるその他に」
ミハイルは頭の包帯に手を当てて、怒りのために沈黙した。彼は自分が、進路のことで父親と口論したということを明かしたことを悔やんだ。
「何もする気がないんなら、殺人でもしてみる気はないか」
「え、」
冗談だよ、とイワンは言った。
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