第九章 待ち望んだ春

 ミハイルは、イワンのこうした詳細な説明を、少し寂しい気分で聴いていた。この寂しさ、起こっていないことに対する直感的な悲しみというものが、結局のところ彼がイワンに接近して得た最大の収穫となる予感がした。

 ミハイルは自分の直感が覆られないことを感じつつ、その不思議さを奇妙な孤独のなかで確かめていた。彼はイワンの隣にいて、彼の思いがけない友情の打ち明け話を聴きつつ、確信的にこう感じていた。

(これから先、もう二度とこんなことは起こらない)

 ただ衝突して、何事もなかったように打ち解け合い、打ち明け話さえする――友達の間にあって何ら不思議でないそんなことは、この先二度とイワンとの間にないだろう。自分でもなぜ、そんな風に思うのか説明出来なかった。ただミハイルが持っていたのは、未来はその方角に向かって走っていという実感だった。まるで列車が線路の上を淀みなく進んでいくように、彼らの陽だまりのような時間は、ある終着点に向かって進められているのだ。

 ミハイルが漠然と悲壮な予感を感じて黙っている間、ふいにイワンが例の労わるような表情で、彼に目を凝らしてきた。そうして彼は手を伸ばし、ミハイルの頭に触れた。

 その不躾さは、イワンにあってはそれが冗談であるしるしだった。イワンが快活にその傷に触れること、全く自分のせいなどとは想像もしないことに、彼の聡明さが現れているようにミハイルには感じられた。実際、ミハイルの頭の包帯の傷は、イワンにやられた傷のためではなかった。

「自分で火をつけたのか」

 声の底に笑いをすらひそめて、イワンは言った。ミハイルはかぶりを振った。

「火かき棒で殴られた」

「誰に? 俺がそんなことを?」「みんなはそうだって噂してる」ミハイルは笑った。

「でもそうじゃない、きみは火かき棒なんか持っていやしなかった。きみは僕に油をかけて、マッチを渡しただけだ。僕があの子に渡したみたいに。僕はアリョーシャに、火かき棒なんて重いものは持たせなかった……」

「アリョーシャにやられた?」

「もし、あの子にそれを持つだけの力があったら、きっとそうしていただろうね」

 ミハイルは本心からそう言って笑った。

「僕を必要としているから。僕を手放したくないということを周囲に悟られないように、わざと僕に怪我をさせたりするぐらいのこと、彼は出来ることならしていただろうと思うよ。あの子がそういう計算をして振る舞うということを、僕ももう知ってる。きみは信じないかもしれないけれど、僕たち、本当に友達になったんだよ」

 イワンは答えず、俯いたままの姿勢でつぶやくように言った。

「じゃあ誰にやられたんだ」

「知りたい? 珍しいじゃないか、きみにもきみの弟にも関わりのないことだよ。僕に興味はないっていつも言うくせに」

「別に質問したっていいだろう」

 とイワンは淡々と権利を主張するように言った。「親切で訊いてやるんじゃない。きみを助けられるとは思ってないが、単なる興味で訊くんだ」

「父さん」

 とミハイルは言った。ただ父親だと言っただけなのに、ある種の習慣を告白したような響きがあることに彼は自分で気がついた。またそのことにイワンも気づいて、自分と目を合わせないのだということも。

「将来、学校を卒業した後の進路のことで話して、喧嘩になった。父さんは息子に、役人になってほしいと思ってる。マルケルもずっと反発していたんだけれど、死んでからはもう殴れない。だから僕、というわけ。

 ……成績も一番じゃなくなってから、ずっと罵られ続けてた。一番の他に意味なんてないんだ、少なくとも父さんには。それは自分の息子かどうかというぐらい重要な違いなんだよ、あの人には」

 イワンは微動だにせず、ミハイルのこの告白について聞いていた。ミハイルの言葉には何ら、彼に対する敵意などは表れていなかったが、ミハイルの父親にとっては、イワンが『姿の見えない悪魔』だったことが二人の前に明らかになった。

「苦労させられるんだな、きみも」イワンは労わりとも、単なる観察ともつかないことを言った。

「きみの肉親に、きみの場合には、きみの親父か」

「どこの父親もそんなものだろう? あの学校には優秀な息子に期待をかける、教育熱心で厳格な父親が多いって先生が――」

「俺の父親は存在ごと忘れてる」イワンは低く呟いた。

「アリョーシャは母親にそっくりだというので、覚えてるかもしれないが、それもどうかな。俺は誰とも似ていないらしいから、他人の子とでも思ってるのかもしれない」期待をかけられるのとどちらが良いか、とイワンは呟いた。

「忘れられるのと、殴られるのとだったらどちらが辛いか。もし親父が俺を殴るようなことがあれば――そんなことありはしないが――親父を殺したいと思うかもしれない。だから、もしきみがそう思うことがあっても、俺は不思議には思わない。だが忘れられていてもやはり殺したくなるんだから同じことか」

 イワンは独り言の調子でそう言っていた。ミハイルは息を殺して、友達の変化に気づいていない素振りを続けた。イワンのこの言い方は、ミハイルに対する冗談めかした思いやりの修辞でなければ、彼自身の父親殺しの願望の吐露だった。

 ミハイルは今や、仲間の顔を直に見ることを恐れていた。そのことは彼が未来を恐れる気分に直結していた。ミハイルがあらゆる手を尽くしても勝つことの出来なかったこの神童が、どんな肉声で『父親さえいなければ幸福になれる』という密かな思想について語るのか、それを肉眼で見ることは、自力で回避しようのない不幸に目を遣ることと似ていた。

 果たしてイワン・カラマーゾフなら、自分を苦しめる父親を殺すということが出来るのだろうか? 火かき棒で殴るような鮮烈な一撃で、自分にとっての悪魔を屈服させるということが可能なのだろうか?

 ミハイルは恐れつつ、まるで少女が自分の髪型を直すように、自分の頭に巻かれた包帯の厚い綴じ目に手をやった。それからイワンの横顔を盗み見た。そこに彼の未来を照らす黒い太陽が上がっていることを確信しながら。

 果たして、イワンの顔には白紙のノートを思わせるような、ぼんやりとした空白があるばかりだった。人間が殺意を語る上で必要と思われる、怒りや憎しみに相当するような影はどこにもなかった。

(アリョーシャの兄だ、)

 ミハイルは自分でその意味を理解するより先に、自分が目撃した表情からそう感じた。

「学校にはいつ戻るの」

 とミハイルは話題を努めて平凡な日常の問題に戻す気で言った。

「学校?」

 イワンは夢から醒めたような、謎かけでもされたような反応をした。

「そう、学校、今だってさぼりだ。また来月の末には期末試験があるだろう、このところきみは休みがちだったから、試験範囲は……」

 イワンはふと、何かの間違いに気づいたように目を上げた。

「なんだそんなことか、それなら俺の方がきみに教えてやれる」

 ミハイルは口をつぐんだ。

「教師も人間だからな、それぞれ出題の傾向や癖が違うから見ていれば分かる。ゼーリンは黒板を二度叩く。アザーロフは自分の教科書に印をつけているから見れば分かる。ゾロトフの爺さんは訊けば教えてくれるさ。コスチェンコは級長を贔屓にしてるから、級長に割り振られた課題を見ておけば傾向はつかめるよ。

 俺があそこでしていたのはそういうことさ。学校には毎日行けるわけじゃないから、科目ごとに傾向と対策が必要になってくる。もちろん、過去数年分の問題を手に入れた上での話だがね」

 そう言い、イワンは自分の鞄から分厚い紙の束を掴んで無造作にミハイルに渡した。ミハイルはイワンが殆どノートを取らないと思っていたが、この過去問題集には夥しい書き込みや注意書きがしてあった。

「きみにやるよ、俺にはもう必要ない」

「だろうね、きみのことだもの」

 そう言いながら、ミハイルはイワンに対し憎悪のようなものがこみ上げて来るのを感じた。

「それからもう一つ、ミーシャ、きみが知りたいだろうことを教えるよ、来月俺はもういない」

 ミハイルは黙った。イワンは微笑を含ませた声で続けた。

「なんだ、嬉しくないか」

「嬉しいけど」

 殆ど悲鳴に近い声が出て、それきりミハイルが黙ると、イワンは快活に笑った。

「冗談だって言いたいけれど、本当さ。ペテルブルグにある全寮制の学校に行くことになった。ポレノフの知り合いが校長をしている所で、編入試験も受けてきた。来月には学校からだけじゃなく、この町から俺はいなくなる。良かったじゃないか、きみは色々と手を尽くしてきた。来月からどうしたら俺がくたばるのか、もう考えなくたっていいんだぜ」

「アリョーシャは、」

 と悲鳴のような声でミハイルは言った。

「それじゃアレクセイは、きみの弟はどうなるの」

「置いていくことになる」

 イワンは事もなげに言った。その時の彼の無表情の白さを、ミハイルは自分が苦痛をもって眺めたのに気づいた。「交換条件だった。アリョーシャを学校に入れる時期も遅れてるし、家のなかで二人も面倒は見切れないと――。全寮制の学校にいる間は、衣食住は保証されて、ポレノフは子供を養育するという約束を履行したことになる。恐らく条件に合う所をずっと探してたんだろうな。

 だから俺の方でも条件を出した。俺がいなくなっても、アレクセイを病院や施設には入れないこと。家出をする時には必ず誰かが側にいて、ちゃんとこっちに連れ帰ること― ―ここがあいつの家だって分かるまで、ここに押さえつけておくこと――、一応承諾はされたがね、約束事は出来上がってから履行される場合の方が少ない。時折はこちらに戻って来て様子を見るつもりだよ。まさか外国に売り飛ばしたりしないだろうが、子供には関心がない人だからな。何をして『不慮の事故』だと言い出すか分からない」

 イワンは書かれた記録を読み上げているような、抑揚のない調子でこの打ち明け話をした。そのことは、彼がこの内容を、教科書の文章を暗唱してしまうように何度も内心で繰り返してきたということを表していた。

「他に仕方がないんだ、もう、手はさんざん尽くした」この言葉を口にした時、イワンの口吻に初めてわずかな出血のような震えが滲んだ。

「――あいつは他人に好かれる、俺とは違って。分別のないことにかけては赤ん坊も同然だし、周囲に迷惑しかかけない奴だが――それでもいつも庇ってくれる他人がいた。お守は何も、俺でなくとも構わないんだ。好かれるということは、生きることを赦されるということだ。出来るだけ多くの他人があいつの近くにいてくれたらと思う。あいつはきみのことは本当に気に入ってた。蜂の巣を焼いたのだって、そうすればきみが戻ると信じていたからさ。きみが来ない限りまたやるかもしれない、頼む」

 ミハイルは、イワンが己のなかで出した答えを伏せているその目をまともに見ることを、己のなかで数秒の間拒んだ。果たしてその目には、紛れもないイワン自身の本心の出血があった。

「もうじき俺はいなくなる。誰も来なければ、あいつの周りには身内の人間しかいなくなる――何が起こってもおかしくない。どうか見張っていてほしいんだ。あいつが人間になれなくても、せめて大人になるまでの間、あいつが不慮の事故で転落死したりしないように、側で見ていてほしいんだ。きみの気に入ることなら俺は何だってする」頼むよ、他に当てもない、と、血を吐くようにイワンは言った。

 イワンのこんな懇願を、ミハイルは殆ど現実の光景として理解できず、身体に穴を開けられたように茫然と聴いていた。もしミハイルに、イワンたちの家で過ごした履歴がなかったなら、この神童の懇願は、単にミハイルにとって友情の結晶のような、感動的な告白としてのみ理解され、彼自身感動しながらイワンの求めに応じたことだろう。しかし実際には、イワンの告白は隠蔽されていた現実の姿と言うには不十分だった。それは現実というより、イワンの側からの願望の吐露でしかないことを、ミハイルは彼自身の経験から偶然にも知っていた。

 ミハイルはイワンの懇願を聴きながら、アリョーシャが自分に見せた表情を思い出していた。

 アリョーシャはまともに言葉を話さなかったが、実際に肉声を聴かなくとも、アリョーシャの表情がいちいち懇願であり、隠蔽されている現実を打ち明けるものであったことを、今やミハイルはだけが理解しており、そのことにイワンは気づいていなかった。

「イワン、きみが知らないだろうけれど知らなくちゃいけないことを、僕が教えてあげる」

 イワンは懇願のために殆ど涙ぐんでいたような表情に、彼が待ち受けようとしていたもののために浮かべた微かな笑みを張った。

 ミハイルは薄い氷を踏みつけるように、イワンの微笑みを破る言葉を、躊躇わずに吐き続けた。

「この別離は、あの子にとっては待ち望んだ春なんだ。何故きみでなく僕を必要としたと思う? そしてなお、僕を取り戻そうとしている理由を、きみは想像したことがあるか――」


 イワンは続きを待つように沈黙していた。ミハイルはある目的のために、立ち上がってイワンの正面に立った。自分の言葉がイワンの表情に投げかけた波紋を見るのを恐れて、ミハイルは視線を交わさないように目を伏せた。

「それだけ、僕に投資したっていうことだよ、イワン。このまま逃げられたんじゃ惜しいって思ってるんだろう。僕があの子に、きみの邪魔をさせるという目的で利用価値を見出したように、彼もまたそうだった。あの子は僕を『解放者』にしようとして執着していたんだよ、その証拠だってある」

 そう言ってミハイルはイワンの前に手を掲げた。イワンは証拠品を見ることを恐れるかのように目をそばめたが、実際にはミハイルの空の手のひらしかなかった。ミハイルは微笑した。

「何かがあるわけじゃないよ、手の格好をみて。こんな風な手を、あの子がするのを見たことがあるかい」

 そう言ってミハイルは右手の中指を、人差し指に引っ掛けた。

 その時駅員がやってきて、ホームの上で何やら合図をし始めた。彼は二人の方に訝し気な視線をやると、また駅舎の方へと去った。ミハイルは振り向かずに、その不思議な指の格好をイワンに示している姿勢を続けた。イワンは沈黙したまま、ミハイルの胸の辺りに視線を彷徨わせていた。

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