第七章 試験より大事なもの

 それから、頭に包帯を巻いて登校したミハイルの周囲で、「あれはイワン・カラマーゾフの仕業らしい」という噂はすぐに流れた。彼ら二人が、いわゆるライバル関係にあるということは、学校中では周知のことだった。またイワンの言う通り、数多くいた「彼のせいで無名になった二番の生徒」のなかで、かろうじてまだリストに残っているのはミハイルだけだったので、他の生徒が一層彼に期待をかけ、同情が集まったということもあった。

 イワンはこのところ、体調不良を理由に何日も欠席していた。だが彼が本当に病気だと信じる生徒は一人もいなかった。ミハイルは頭の怪我について訊かれても、転んだと言うだけで口をつぐんでいた。

 前回の数学の試験でミハイルが上回ったので、イワンが仕返しにやったのだという噂はいよいよ膨らんだ。彼が黙っているうちに、何やらミハイルを主役にした英雄譚のようなものまで成立し出した。

(何もわかっちゃいないし、みんな何一つ、本当のことを知ろうとさえしていない)ミハイルだけがそう思っていた。彼は自分が沈黙して初めて、他人が「イワン・カラマーゾフ」という名前をどのように呼んでいるのかを知った。かつて彼の名前をノートに書いては塗りつぶしていたミハイルは、自分の憎悪がペン先から滴り、黒いインクとなって彼の名前をつぶすのを見ていた。

 しかし彼の友人たちは、集団で彼の名前を呼ぶことで、靴跡を付けるようにイワンの名前を汚していた。もはや一つ一つの悪罵が、誰の靴跡によるものか見分けることは出来なかった。彼らが個人では決して太刀打ちできないその名前は、今や学校から彼らに与えられた呪いの一つに数えられていた。学期末試験、ラテン語、礼拝、罰則、カラマーゾフ。

(アリョーシャの遠足の方が、数学の試験より大事だったということを、誰も知らない)

 ミハイルは噂している誰にも近寄らず、机にいて独り鋭く溜息を吐いた。

 ミハイルが森でイワンに呼び出され、殺されかけたその前には、彼らの他に誰も知らないいくつかの出来事があった。


 数学の試験の前日、イワンは突然学校を欠席した。皆、イワンが授業を欠席して明日の試験の準備をしているのだろうと噂したが、ミハイルだけは、その日がアリョーシャの遠足の日だということを知っていた。

 その頃、アリョーシャはミハイルの前でも、癇癪を起こしたりむずかることが増えていた。ミハイルが彼らの家を訪れると、二階でイワンが弟を押さえつけるように抱きしめていて、ミハイルに何か目だけですまなそうにものを言う、というような光景が度々あった。イワンのそんな表情は学校では決して見られないもので、ミハイルはそういうイワンを見るだけでも、何か罪悪感のようなもので胸が塞がる思いがした。

 アリョーシャの遠足のことを知ったのも、偶然ではあったが、イワンがその場にいるミハイルに隠さずに話したためだった。

「帰ろう、アリョーシャ。この次の火曜日になったら、俺たちの家に帰ろう。だからそれまでは何もせず、いい子でいなくてはいけないよ」

 その言葉は、イワンによって唱えられているうちに自然な節がつき、歌のような調子を持っていた。イワンが家では子守歌を歌って弟をあやしているなどということは、学校では物笑いの種にしかならないだろう。あるいは誰にも信じられないかのどちらかだった。

 ミハイルはこの兄弟に親しむうちに、何度も彼らを助けたいと思ったものだったが、同時に何も手出し出来ないということも実感していた。しかし同じ学校に通う生徒として、少なくともイワンに迫る試練については少しだけ理解しているつもりで、ミハイルは彼の試験勉強の手伝いということを考えた。

 しかし、それはミハイルの想像のなかでも滑稽な冗談としか思えなかった。また実際にそれを口にして、イワンに冷笑とともに迎えられることを彼は恐れた。また同時に、そんな場合にイワンは決して笑ったりしない、ということも悪夢のように想像した。

 実際、イワンはミハイルのそうした逡巡を見通していて、彼を労わるような表情さえ見せた。時々発作のように暴れ出すアリョーシャを抱きすくめ、その肩越しにミハイルを見て「気にするなよ、ミーシャ」と言ったりした。

 イワンは打ち解けていくというより、ミハイルに対する優位性を守ったまま、彼に対する思いやりを差し出してくるようだった。まるで木登りをしている兄が、弟に高い枝の実をとって差し出すように、その手から思いやりの果実を受け取るたび、ミハイルは彼を憎んだ。ミハイルにとって命も同然だった、ミハイル・カラムジンという名前を殺した悪魔が、優しい兄がくれるように憎悪の機会を惜しみなく与えてくれること、またその度に彼を憎む正当な理由をつけてはくれないことを、ミハイルは純粋に憎悪した。

 そしてイワンが「遠足」で欠席し、密かに準備していると言われた翌日の数学の試験で、ミハイルはイワンを「とうとう打ち負かした」。しかし、その点差はごくわずかなものだった。ミハイルはむしろ、ずっとアリョーシャの世話にかかりきりだったはずのイワンの点数を見て戦慄する思いだったが、彼らの友人はイワンが二番になったという順位だけをみて単純に喝采した。

 ミハイルには、イワンが嘲笑されることと、自分が喝采を浴びることとが等しく虚しかった。彼らのミハイルへの賛辞には、ミハイルは自分たちの仲間だという総意が含まれていた。それはつまり、カラムジンでは生徒たち全員の敵となるには不足だということでもあった。ミハイルはこの勝利によって、再び無名になったようなものだった。彼ら「選ばれなかった者」の英雄となることが、いかに虚しいことかを、彼はこの試験での小さな勝利で知った。順位が出たその日の放課後、ミハイルは試験後からずっと欠席していたイワンの家を訪れた。イワンはいつもの通り、アリョーシャのボール遊びに付き合っていた。彼は弟に向けていた柔らかい笑みを浮かべたまま、二階に上がってきたミハイルを迎えた。

 ミハイルは努めて、取り留めもないことを話そうとしたが、イワンの方が何故か試験結果のことを知っていた。

「きみが一番だったらしいじゃないか、おめでとう」

 イワンはあっさりそう言い、それから舌打ちするような鋭い音を立てて、アリョーシャがボールを階下に転がさないように注意を促した。

 ミハイルは今や、イワンに対して負うものを取り上げられた気持ちだった。アリョーシャまでが、どこか屈託しているように見えるらしいミハイルを気遣うかのごとく、わざとボールをぶつけたりしてきた。ミハイルは快活に怒ったふりをしてそれを受け取り、彼がイワンのために出来ることとして、この手に余る弟の世話を替わろうとした。

 ミハイルがイワンをそれとなく机の方に追い遣り、アリョーシャに向かって手を伸ばそうとした時、アリョーシャの表情が水を浴びたように急変した。ミハイルは、確かに彼自身見覚えのあるその動作を、アリョーシャが今目の前で行ったという事実を咄嗟に呑み込めなかった。

 蜂、巣、取る。あそこに。兄、見せる、禁止、絶対に。

 それはミハイルがアリョーシャに向かって教え込んだ、いくつかの指文字による合図だった。それをアリョーシャは、イワンが彼らに背を向けた途端に、ミハイルに向かって雷のように素早く示した。

 そもそもミハイルはこの弟を、自分の道具にするために近づいたものだった。そのことは確かで、ミハイル自身彼らに親しむうちにふと思い出し、後悔して苦しんだようなことだったが、彼は当初の目的に従い、既にいくつかの方法を実践してしまっていた。

 この指文字がそのうちの一つで、彼はアリョーシャにナイフの使い方、小鳥の絞め殺し方、鼠の死骸の解剖の仕方などを教えたものだったが、その他、彼の道具となる上で最も大切な、彼らにだけ通じる合図についても教えていた。

 ミハイルはイワンのこれまでの話から、アリョーシャは文字を覚えられないのではないかと疑っていたが、実際に自分の発案した指文字を作って見せると、その反応の鋭さには寒気を感じるほどだった。アリョーシャはイワンが何を言っても、大概笑い声を立てているだけだったが、あの笑いは漫然とした愉快の笑いではなく、恐ろしく鋭い同意、理解、もしくは嘲笑の笑いだったらしいことが、ミハイルが実際にアリョーシャに接するうちに実感として感じられるようになった。

(確かに、イワン・カラマーゾフの弟だ)

 ミハイルは舌を巻いた。しかし続いて彼を悩ませたのは、アリョーシャがその仕草を覚えても、自分の声として使わないことだった。彼は物を取る時も自分で手を伸ばさず、わずかな仕草で兄に取らせ、そのことをすっかり習慣にしていたが、この合図を覚えても自分で指を折ったりせず、当然のごとくにミハイルの指をとって折らせた。これでは合図になりはしない、とミハイルが困惑し「アリョーシャ、そうじゃないよ、自分で話すんだ」と言うと、アリョーシャは嘲笑の笑みを瞳いっぱいに浮かべて『分かった』とミハイルの指を折ったものだった。

 しかしアリョーシャは突然、ミハイルに向かって『蜂の巣』の一連の合図を示した。それは何の前触れもなく起こった、アリョーシャからの初めての意思表示だった。

(アリョーシャが、僕に話しかけた)

 ミハイルは戦慄した。アリョーシャが自分から話しかけてきたことに加え、『兄』『見せる』『禁止』と、どうやらイワンには内緒にしたいことを伝えて来たことに彼は驚いていた。

 ミハイルの目をさらに驚かせる出来事が起こった。彼が呆然と、何の合図も返さずにいると、アリョーシャはそのダークグレイの瞳に張りつめた緊張を閃かし、片方の手で『同意か』『同意か』『同意か』と、がなり立てるように合図を繰り返した。その仕草の傍ら、アリョーシャはイワンには物音だけが聴こえるように、片方の手でボールを床にぶつけ続けた。

 ふと、イワンがポレノフに呼ばれた。彼らの会話が二階にも薄く聴こえて来た。何かしらの用事で捕まっているらしい気配だった。その間に、ミハイルは窓から身を乗り出して、軒下にある蜂の巣に手を伸ばした。

 蜂に刺されたのはその直後だった。悲鳴を聴きつけて戻ってきたイワンにミハイルは叱り飛ばされ、慌ただしく看護された。

「きみを刺した蜂は、もうこの世にいない」

 そうイワンが苦々しく言ったのは、ミハイルがアリョーシャに密かに命じられて、取ってやろうとした蜂の巣から出た蜂のことだった。ミハイルはそれに刺されたために、しばらく動けずに学校にもイワンの家にも来ることが出来なかった。アリョーシャは、全てを蜂のせいだと考えたらしかった。彼は大切なミハイルの敵討ちをし、彼に教えられたマッチの使い方を実践して、蜂の巣に放火した。その結果として、彼は蜂の巣だけでなく、養家の軒下と自分の右手と右頬とを焼いた。

 アリョーシャの悲鳴を聞いてポレノフ氏が駆けつけ、その場は小火で済んだ。イワンは養父から、あの手に負えない悪童が火遊びをした、危うく家を燃やしちまうところだったという報告を聞いて、アリョーシャが他の生徒の小銭を盗んだと聞いた時のように驚いた。

「誰に命令されたんだ、言ってみろ」

 イワンはまたも震える声で弟に尋ねた。アリョーシャは今度は誰の顔も指さずに、包帯に包まれた顔の奥で視線を鈍らせているだけだった。しかしイワンは、今度こそ誰かしらの差し金であることを確信していた。アリョーシャが使ったのがマッチで、イワン自身は決して持たせたりしなかった物を大量に持っていたことが証拠だった。マッチの出所を探して、やがてイワンはミハイルの犯罪に気がついた。

 ミハイルはイワンの家で蜂に刺されてから、ずっと学校を休んでいた。イワンの方も、家に放火して以来ずっとアリョーシャが落ち着かないため、試験の日以外は学校を休まざるを得なくなっていた。そしてミハイルの犯罪を知ってからは、彼と学校で会う機会を伺っていた。

 やがてミハイルが癒えて登校をし始めたらしいと聞いて、イワンは学校に来た。専ら、ミハイルに会うためだけに。彼に会い、自分の弟を傷つけた悪しき道具を突き返し、今度は彼自身が、弟の敵討ちをするために――。

 イワンの言葉や行動、また他の生徒の噂から、ミハイルは今や真実の内観も外観も、己一人が知っているように感じた。

(それならイワン、なぜ僕を殺さなかったの)

 彼は窓の外の景色を眺めてぼんやりそう思ったが、頭に痛みを感じてすぐ思い直した。

(単純なことだ、アリョーシャが可哀想だから。僕にとってそうだったように、アリョーシャにとっても僕は貴重な玩具だった。それを全部、ナイフや何かを取り上げた上に焼き滅ぼしてしまったんじゃ、またアリョーシャが昂奮して手に負えなくなる。

 僕に火をつけようとしながら、アリョーシャに地獄なんかなかったと言え、と言ったっけ。イワン、まだあの子に会わせる気があるんだな。きっとあの子は、僕が来なくなったことで、イワンを責めたり困らせたりするんだろう。イワンはきっと、言うことを聞いていたら返してやると言っているんだ。お前の宝物は、今はみんな森に埋めてあると言って。……

 イワンがマッチを擦り、油をかけたミハイルの顔に近づいた時、ミハイルはただ自分が焼き殺されるのを眺めていた。いよいよだと思ったその時、彼は火のついたマッチをわざと目の前で掲げて、ふっと息を吹きかけた。

 その息はミハイルの赤毛をわずかに掠めた。あと半歩でも近づいていれば、少なくとも彼の目と鼻は焼けていただろう。イワンは火の消えたマッチをその位置で掲げたまま、ミハイルの顔を見て低く最後に呟いた。

「冗談だよ、俺たちのミーシャ……こんなこと全部冗談なんだ」

(あの時――)

 ミハイルはその恐ろしい回想の場面を思考により締めくくった。

(イワンは僕を殺そうとしたわけでも、躊躇って殺せなかったわけでもない。最初から、アリョーシャに与えられる安全な玩具にするためにああしたんだ。脅して、生かしておくことにした。それだけだ。彼にとって僕など何の価


 値もないけれど、アリョーシャにとってはナイフやマッチと同じぐらい大事なガラクタだから。あの子から宝物を奪うまいとして、――それだけで自分の憎悪を殺すことが出来たんだ、イワンは)

 教師がカラムジンを指したが、彼は思考に没頭していて気づかなかった。彼の頭に巻かれた包帯と、このところ続く彼の放心、イワン・カラマーゾフの長期欠席にまつわる噂を教師は知っており、ミハイルのその放心はその噂の証拠の一欠片のように見なされ、彼は追及されず見過ごされた。

 独り思考に囚われていたミハイルはイワンを諦め、彼が動かしがたい結論に突き当たった。

(それでも親父よりは、あの悪魔よりはマシというものさ。僕に『裏切られ』、どんなに『失望させられた』ところで― ―、あのアリョーシャがいる限り、僕を本気で殺そうとしたりしないものな――イワンだったら)

 ミハイルは包帯の端に触れつつ、ふいに立ち上がった。教師が彼を呼び止めるのも聞かずに、ミハイルは頭痛がするので医務室に行くと言って教室を出て、そのまま学校を飛び出した。

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