毒入りバレンタイン事件:高校生探偵・猫目石瓦礫最後の事件
紅藍
#0 プロローグ
世界は、悲しみで満ち溢れている。
いや、違うのか。
悲しみで満ち溢れているのは、僕の世界だけか。
「先輩、先輩っ!」
今日も、扉をノックする音が響いた。ただ、それだけだ。僕はその呼びかけに答えることはない。
答えたところで、何になるというのだ。
ノックの音は、やがて小さくなり、聞こえなくなる。
僕は時間を確認しようとして、左腕に巻いた腕時計を見た、つもりだった。そこに腕時計ははまっていない。そうそう、普段から腕時計を巻く習慣がなかったものだから、つい付け忘れるのだった。
たぶん、ポケットに入っているはずだ。僕は自分のポケットを探って、腕時計を取り出す。
結果から言えば、取り出せなかった。
そこに、腕時計はなかった。
「……………………ああ」
ああ、そうだった。
なくしたのだ、あれは。
紫の、雪の結晶が文字盤に輝くあの腕時計。
大切な人からもらったもの。
大切な人の、大切な思い出。
あれは、あの人が亡くなった日に、一緒になくなった。
「先輩」
声が、した。
まだいたのか。
「明日、バレンタインですね」
明日?
日時の感覚が、なかった。そうか、もう二月になっていたのか。
「明日、みんなでチョコレート作ることにしたんです。みんな、あの事件以来暗く落ち込んでたから、ここでぱあっと明るいことでもしようかなって。それでみんなに相談されたんで、私が提案したんです」
少しだけ、ほんの少しだけだが、扉の向こうから聞こえる声は明るくて、どこか誇らしげなものになっていた。
「作ったら、先輩にも持ってきますね。それじゃあ、また明日来ます」
カツ、カツと足音を響かせて、あいつは離れていく。
それでいい。
いつまでも、僕の傍にいるべきじゃない。
「そういえば…………」
そういえば、あいつ、どこか誇らしげだったような。
少し考えて、あいつの言った言葉を思い出す。
相談。
相談だ。
まさか…………。
「それは、駄目だ」
それだけは、駄目だ。
彼女は今、道を誤ろうとしている。
それを正すだけの力が、今の僕にあるだろうか。
「伊利亜さん……」
僕に、そんな力は…………。
世界は、悲しみで満ち溢れている。
いや、違うのか。
悲しみで満ち溢れているのは、僕の世界か。
「駄目ですよ、兄さん」
学校から帰ると、家のキッチンからやたらに甘い匂いがした。不審に思いながら入ってみると、そこで妹の哀歌がチョコ菓子をせっせと作っていたのだった。
「つまみ食いをしては」
「まだ指一本すら伸ばしていないんだけど」
というか、なぜチョコ?
不審に思ったのが僕の顔に出たのだろう。彼女が補足してくれる。
「明日はバレンタインですからね。クラスのみんなにチョコレートをと思い立ちまして」
「ああ、バレンタイン」
そうか、もう二月に入っていたんだったな。どうもここしばらく、時間の感覚が薄いもので。
「そういえば僕、人生でお前からチョコを貰った経験がないんだけど」
「あげてませんからね、貰った経験がないのは当然でしょう」
そういうことを聞いているんじゃないんだが。
「味覚音痴全日本代表の兄さんにチョコをあげても、あげる甲斐がないというものですから」
「失礼な。さすがにチョコの味くらい分かる」
「去年の夏、チョコアイスと間違えて味噌をスプーンでがっつりいったの忘れてませんからね」
見てたのか。あれは一口食べた後、ラベルの表記で気づいた。
「それに兄さんは、恋人の帳さんからしこたま貰えばいいでしょう」
「今はそれが可能な状態にないの分かって言ってるだろう」
帳の健康状態という、けっこうピーキーで繊細な話題にずけずけと踏み込む妹に呆れながら、僕は時間を確認するべく右手に巻いた腕時計を見た。男の僕がつけるにしてもごつくて持て余しがちなデザインの、陸上生活では明らかなオーバースペックの黒いダイバーズウォッチである。時刻は午後五時を指し示していた。
「今日はなんだか眠くてつらかったな……まあ最近眠いんだけどさ」
欠伸をした。その拍子に顔の皮膚が引きつって、違和感が体を支配した。
「痛みますか?」
「いや。痛くはない。肌の突っ張る感覚がうっとおしいだけだ。ところでキッチンがこんな有様なんだけど、今日の夕飯はどうするんだ? 今日、お前の当番だろう?」
「お母さまに頼んで、外食にでも連れ出してもらいますよ。たまにはいいでしょう」
「そうだな」
荷物を自分の部屋に置いて、ついでに着替えようか。そう思って、僕はその場を後にした。
世界は悲しみに満ち溢れている。
それは例えば、バレンタインにチョコを貰えないとか、なんとか。そんなしょぼくてどうでもいいものだけど。
それでも悲しみは悲しみで。
きっと誰かの、大切な人を失った悲しみよりもそれは時に大きな痛みだったりするのだろう。
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