#2 後輩たちの恨み言

「えええっ! 先輩にチョコ、ですか? それはそれは……」

「忠告のついでだったけどね」

 時はあっという間に巡って、扇さんからチョコを貰うついでに忠告を受けたその日の放課後となる。僕以外に誰もいない教室で、僕だけが本を読んでいたのだ。時間が過ぎるのもあっという間というものだろう。

 放課後も特に変わらず教室で本を読んでいた僕のところにやってきたのは、僕が部長をしている弁論部に所属する唯一の後輩、笹原色であった。部長をしているというか、もう実質引退しているから今は彼女が部長だ。

 笹原は鼻歌混じりに茶色いウェーブがかった髪を揺らしながら、まるでさも当たり前のように教室に入ってきた。実のところ、弁論部の部室は別にちゃんとあるのだが、あそこは北側に窓があって太陽光が入らず冬は寒いし暖房もない。だから冬になってからこっち、教室に誰もいないのを良いことに弁論部の活動は三年十五組の教室で行っていた。

 入ってきた笹原は、スラックスのポケットを探る。彼女は女子生徒だが制服がブレザーの上等高校のこと、女子がスラックスを履くのも珍しいがないことではない。そしてやつがポケットから取り出したのは、軟膏の入った円筒形の小さいケースである。

 嫌だったが、仕方ないので僕は顔の包帯を外した。そしてブレザーとカッターシャツも脱いで、上半身裸になる。

「はーい、軟膏のお時間ですよー」

 看護師のつもりか、そんなことを言いつつ僕の体中にやつは軟膏を塗りたくるのだった。ここしばらく、というか僕が火傷をしてからの日課になっているが、どうもこの軟膏というやつのべたつきは慣れない。

 ともかく、笹原が僕の背中に軟膏を塗りたくっているのを尻目に、雑談を初めて扇さんのチョコの話になったわけである。

「まさか先輩にチョコをあげる奇特な女子がいて、しかもそれが他ならぬ扇先輩だとは思いませんでしたよ。まさかのダークホースですね」

「それについては僕が一番驚いているな」

「わたしだってあげようとは思わなかったのに」

「それはそれで傷つく」

「仕方ないんですよ。実はクラスメイトと賭けをしてまして。先輩が誰かからチョコを何個貰うか賭けたんです。そしたらわたし、賭けの当事者なのに先輩にチョコあげたらおかしなことになるじゃないですか」

「人のチョコでギャンブルをするな」

「ちなみにわたしは零個予想なので外しました」

「何気にひどいよなお前って…………」

 先輩に対する敬意が足りない。この辺りはもっと扇さんを見習って……いやいいか。

 扇さんを見習うと人生の難易度が爆上がりする。こいつはこれくらい気楽な方がいい。たぶん今、『堕ちる帳』事件に関わった人間の中で一番気楽なのがこいつだ。

「まあでも賭けには負けたんで、もう関係ないですよ! 軟膏塗り終わったらショッピングモールにでも行きませんか? チョコ買ってあげますから!」

「うーん」

「あれ乗り気でない?」

 僕が放課後、帰っても別に問題ないこのタイミングで教室に残っているのは、やはりあの嫌な予感が残っているからなのだった。調理実習室に近づけない以上どうしようもないのだが、しかしこのまま帰るのも気分が悪いな。

 とかなんとか考えている間に、背中に軟膏を塗り終わった笹原が正面に回ってくる。軟膏塗りは顔に移行する。別に顔くらい自分で塗れるわけだが、そのまま笹原に任せておくことにした。

 笹原の目は、好奇心と活発さを表すかのように、太陽のごとく輝いている。そこには扇さんのようなどこか不審なくらい爛々としたところもなく、あるいはどこかの誰かがそうであるように濁って死んだ魚のようにもなっていない。あくまでも自然体。

 こいつは強い。間違いなく、上等高校の誰よりも。

「嫌な予感がするんだよなあ」

 だから、というわけではない。僕が扇さんには打ち明けなかった予感を笹原に打ち明けたのは、たぶんこいつなら何を言っても動じないと思っているからというより、他に言うやつがいないからだ。そういう意味では、僕は結構こいつに甘えている節もある。『堕ちる帳』事件では特にその傾向が顕著で、こいつを巻き込み過ぎたとちょっと自省したりするのだけど。

「嫌な予感ですか?」

「ああ。何となくだが、扇さんが主宰するバレンタインイベントで、何かが起きそうな気がするんだよ」

「それは……。文化祭事件――『堕ちる帳』事件でしたっけ――の時みたいに明確な未来のビジョンが見えているって感じじゃないんですか?」

「そういう感じじゃないな。第一、あの事件の時ぐらいなんだよな、先の先まで何が起こるか見通せたのって」

「そういう意味じゃあの事件、先輩の探偵としての八面六臂度マックスって感じの事件でしたねえ」

 顔の軟膏も塗り終わり、笹原が僕から離れる。シャツを着ると軟膏でべたついて張り付いて気持ちが悪い。だから嫌なんだよこれ。

「ともかく、僕は調理実習室に近づけない以上、何が起こるか分からない。笹原、お前なら近づけるだろう? 様子を探ってほしいんだが」

「先輩も夏ごろに比べてだいぶ世話焼きになりましたねえ」

 ぼやいて、笹原は首にかけた赤いヘッドフォンを弄る。彼女がトレードマーク的に、いつも身に着けているのだ。

「でも無理です。わたしも近づけないんです」

「え?」

「わたしも実行委員会の子に近づくなと釘を刺されまして。例の事件で暴れたの、上等高校的には先輩というより弁論部全体という認識らしくて、わたしもとばっちりを」

「ふーむ」

 暴れたのはまず犯人であり、犯人を除けば雪垣のはずだったんだが。どうも僕と笹原は割を食う人生らしい。

「じゃあ近づけないか」

「そうですねえ。でも、いいんじゃないですか?」

 と、笹原は楽観的な観測を述べる。

「あくまでも嫌な予感、じゃないですか。実際に何かが起こると決まったわけじゃないですし」

「まあ、そうだが……」

「それに、ですよ」

 ブレザーを着終えた僕の肩を掴んで、笹原は僕を座らせた。

「近づくなって言われているのに近づいて、いざ本当に何か起きたらどうするんですか? 十中八九わたしたちのせいにされますよ。触らぬ神に祟りなしです」

「…………そういう考え方もあるか」

 確かにこいつの言う通りだ。いざ近づいて何かが起きたとき、僕と笹原のせいにされてもかなわない。ただ濡れ衣を着せられるだけならまだいい方で、そのせいで現場がパニックになって適切な処置を施せず、事態がより悪化するケースも考えられる。

「だったら何もしないのも、手としてはありなのか」

「むしろ最善手ですよ。どうしても気になるなら、そのイベントが終わるまではここで待機していればいいじゃないですか」

「そうだな」

 言って、笹原は僕の右隣に腰を落ち着けた。くしくも扇さんが座ったのと同じ、雪垣のやつの席である。

「あ、そういえば」

 笹原は思い出したように柏手を打つ。

「先輩、名探偵+αって知ってます?」

「…………いきなり何の話だ?」

 本当に待機するつもりで雑談に転じたな。

「実は先日、うちのラジオ番組にメールが届きまして」

「ラジオ番組ねえ」

 笹原は実は、現役女子高生ラジオパーソナリティとしてラジオ番組『DJササハラの血みどろニュースチャンネル』の司会を務めるとんでも女子である。そもそも、僕の部活に顔を出すようになったのも、タロット館での事件をこいつがその立場上聞き及んだからという側面が強い。

「なんでも、宇津木博士以前の名探偵らしいですよ」

「宇津木さん以前の?」

 宇津木博士。ミステリ作家であると同時に名探偵とたたえられ、警視庁唯一の黙認探偵と目された数奇な男。彼はタロット館の事件で真っ先に殺されてしまい、したがって僕が事件を解決せざるをえず、僕が高校生探偵なんて呼ばれるようになってしまうきっかけを作った人だ。まあ、死人に愚痴っても仕方ないが。

 宇津木さんは名探偵としてその名が知れ渡っていたけれど、あの人以前にも名探偵なんて呼ばれる人がいたのか? てっきり、宇津木さんが最初くらいに思っていた。

「名探偵+αって変な名前だな。それ以外に分かっていることはないのか?」

「そうですね。二人組で、一人が七色七なないろななって名前だってことくらいですか」

「七色……」

「虹の七色に、数字の七です」

 聞いたことないな、そんな名前。

「先輩でも知りませんか。うーん」

「むしろ僕はお前に知らないことがある方が驚きなんだけどな」

「無茶言わないでください。宇津木博士以前の名探偵、活躍はもう三十年くらい前って話ですから」

「警察の人は何も言ってなかったな」

「先輩と同じで、警察にはあまり協力していない人かもしれませんね」

 僕は昔から、それこそ物心ついたころから多くの事件に巻き込まれて来たけれど、どこぞの少年漫画の高校生探偵のように馴染みの刑事がいるわけではない。大抵警察からは疎まれるし。

「そのメールには何か書かれてなかったのか?」

「いえ、名探偵+α、七色七という存在がいることを教えてくれただけで。もし宇津木以前の探偵がいるならスクープですからね、しっかり裏を取りたいところなんですが」

「難しいだろうな、それは」

 名探偵以前の名探偵、か。

 それは少し、興味があるな。

「悲哀なら何か知っているかもな」

「悲哀さんですか! 確かに」

「あ、でも知らないかもな」

「どっちですか!」

「まあいいさ。また今度聞いておくよ」

「お願いしますよ」

 とか何とか。

 適当にくっちゃべっていると。

 がらりと教室の扉が開いた。

 僕と笹原は音につられてそちらの方を見る。

 誰が入ってきたのかと思ったら、入ってきたのはブレザー姿の男子生徒である。

 彼は……。

「籠目先輩」

 僕が応えるより先に笹原が応じた。

「……どもっす。ここにいましたか」

 籠目くん、籠目六星くん。彼は帳の後輩で、今はグルメサイエンス部の副部長をしている二年生だ。

「実は先輩を探してたんすよ」

「僕を?」

 ふっと、嫌な予感を思い出す。

「まさか調理実習室で何かあったとかじゃないだろうな」

「調理実習室? 今は実行委員会が占領してる感じっすね」

 いや、何もないか。何かあったにしては籠目くん、のらりくらりという感じの侵入だったからな。何かあったらもっと慌てている。

「そうそう、実行委員。……ったく、何なんすかね連中」

 調理実習室という言葉が呼び水になったのか、突然彼は愚痴っぽくなる。

「一週間前にバレンタインでチョコを作りたいから調理実習室を貸してくれって言い出してきたんすよ。俺は嫌だったんすけど、教室の使用許可を出すのはグルメサイエンス部じゃなくて顧問ですから、顧問が認めたもんで今日はうちの部活休みなんすよ」

「嫌だったのか」

「そりゃあ当然でしょう。こっちには夜島部長のうらみがある」

「でしょうねえ」

 笹原が同調する。それにつられて余計に籠目君は愚痴る。

「連中、面の皮が厚いったらないですよ」

 彼は窓際に移動して、窓べりに体を預けた。

「文化祭事件の時、夜島部長――もう部長じゃなかったっすね、夜島先輩が体育館の屋上から誰かに突き落とされたってのに、その事件を隠して文化祭を開催しようとしたじゃないっすか。あの件、うちじゃみんなまだ恨んでますよ。気にしてないのは部長の市松くらいじゃないですか? あいつは、ちょっと優しすぎるやつなんで仕方ないですけど」

 今部長をやっているのは、籠目くんと同じ二年生の市松格子さんである。彼女と彼は夏休み頃、部長の座をかけてちょっとしたいさかいがあったので少し心配していたが、この分だと思うところはあっても上手くはいっているらしい。

「籠目くん、そんなに根に持つタイプだったっけ?」

「ただ隠蔽するだけじゃなく、隠蔽に加担しなかったら文化祭の活動スペースを与えないとまで言いやがりましたからね。誰でも根に持つでしょう。そのせいでウチも先輩たちの弁論部も今年度の文化祭は活動できてないんですから」

 弁論部が活動できなかったのは単に、ただでさえ二人しかいないのにその僕と笹原が事件に関わり切っていたからだけどな。

「しかもただでさえこっちが恨みたいくらいなのに、事件の犯人もうちの部から出ちゃったもんですから、むしろ学校側からはウチの部員は恨まれ気味で立場ないんすよ。せっかくの文化祭を潰したって。何なんすかね、これ」

「こればっかりは時間が解決するしかないでしょうね」

 同じく恨まれ気味の笹原の言葉である。

「かくいうわたしも立場ないですよ。ま、わたしはあのとき存分に暴れた口なんで後悔はしてないですけど、巻き込まれたグルメサイエンス部は不幸でしたね」

「本当にな。教師の中じゃウチを廃部にしようかって話も出てるみたいっすけどね。それなら文化祭の準備段階からやからしてる実行委員の連中はどうなんだって話だ」

 それは…………籠目くんが愚痴るのも当然だろう。実行委員会はあの『殺人恋文』事件を文化祭準備中の合宿で起こし、被害者も加害者も内部から出している。その時点で文化祭の実行が危ぶまれたという内部事情こそあるものの、その後に帳の件を隠蔽して文化祭を開催しようとしたのは誰がどう見ても悪手だ。それなのに実行委員は今も平然とバレンタインのイベントを企画し、グルメサイエンス部は廃部を噂されるのだからやるせない。

「じゃあ、今はグルメサイエンス部のみんなはもう下校したのか?」

「連中が何やらかすか分からないんで、俺は残りますけどね。あと市松は一応部長なんで、念のためイベントに出て状況を見てます」

 恨んではいないと言い条、市松さんも何かしら思うところはあるのだろう。基本的におっとりして危機感の薄い彼女にしては、警戒した態度だ。

「先輩、これなら安心ですね」

「ん、そうかな…………」

 さっきの嫌な予感の話の続きか、笹原が言及したのは。確かに、グルメサイエンス部の部長職二人が控えていれば、大抵は何とかなりそうではあるが……。

「何の話っすか?」

「いやなんでも」

 さすがに籠目くんに嫌な予感のことを話すと、それみたことかと勢い込んで突撃しかねないからな。彼は一本気というか、思い込むと視野狭窄になるところがあるし。

「はあ……何にも起きないといいんすけどね」

 そう言って、籠目くんは窓の外を見る。

「とはいっても」

 一方の笹原は気楽である。

「たかがチョコを作るくらいで何かが起きるなんてないですよねえ」

「いーや分からん。連中のことだ。金属製のボウルをレンジでチンして大爆発とかやりかねん」

「そんな初歩的な……」

 まあ、それを防ぐためにも市松さんがついているんだろうし……。

「まったく、連中が何もしてないと――――」

「…………ん?」

 唐突に、籠目くんの言葉が切れる。

「どうしたんですか?」

 笹原が尋ねるが、籠目くんは窓から外を覗いたまま、動きが止まっている。

「籠目くん?」

「………………くそっ!」

 悪態をつかれた。

 籠目くんは一言悪態をつくと、ダッシュで教室を抜け出していく。

「え、え?」

 笹原は慌てたように籠目くんを追った。一方の僕は、籠目くんがいた窓際まで近づいて、外の様子を確認する。

 ここから見えるのは体育館脇の通路。冬の寒空の下、枯れた木々が立ち並んでいるだけだ。別に、何もおかしなところはない。

「何か見たような態度だったが……」

 分からない。ともかく、追いかけることにした。

 上等高校の校舎は、単純化すればロの字型になっていると考えていい。僕のいる三年十五組の教室は、ロの字の底面右側の二階に位置している。他の教室が基本的にロの字の上部に位置することを考えれば、三年十五組の教室は隔離されていると言っていい。十五組に限らず、三年十三組と十四組の教室も同じ場所にあった。受験に備え、騒がしさを少しでも低減するために他の教室から離れた場所にあるのだ。一応これでも特進クラスだから。

 廊下を通って階段を下れば、すぐに昇降口に着く。昇降口の出入り口では籠目くんが肩で息をしながら、周囲を隙なく伺っている。隣で笹原が風に負けて寒そうに縮こまっていた。

「籠目先輩! 何があったんですか?」

「…………いや」

 笹原の問いに、籠目くんは答えない。

「別に、何でもねえ。気のせいだ」

「気のせいって感じの走り方じゃなかったですけどね」

「気のせいだよ」

 そんなやり取りをしている二人に後ろから近づく。二人も気づいてこちらを見た。

「そういえば、先輩を探していたって話でしたよね」

 まるで話を逸らすかのように、籠目くんはそう言った。

「ああ、そんなことを言っていたような」

「実は夜島先輩のことでして」

「帳の?」

「ええ。夜島先輩の私物が、調理実習室の隣にある準備室にいくらか残ってまして。今まではいつか取りに来るだろうと放置してたんすけど、もう二月ですからね。来年度のことも考えないといけないですし、猫目石先輩に引き取ってもらおうかと」

「まあ、そうなるか」

 帳の私物となると、彼女の家にも出入りできる僕でないと回収は難しいだろう。

「忘れないうち、今からでもいいっすか?」

「今から? でも準備室は調理実習室の隣だろう? 近づくなって言われてるんだよ」

「そりゃ向こうの都合でしょう。調理実習室に行くわけじゃないですし。それにもうチョコづくりも終わってる頃合いじゃないっすか?」

 言われて、僕は腕時計を見る。笹原と籠目くんも、つられるようにスマートフォンで時間を確認する。午後四時を過ぎて今は五時になろうというところだった。空を見ると冬のこと、もう日が暮れかけている。単に、曇っているというのもあるだろうけど。

「そうかもな。じゃあ行こう」

 そして僕たちは調理実習室まで歩いていくことになった。

「先輩先輩」

 先行する籠目くんを尻目に、僕の隣で笹原がせっついて来た。

「何だったんでしょうね、籠目先輩のあの態度」

「さあな」

 彼は窓を見ていた。そして、何かを見つけて追いかけようとした。それは確実だ。

「彼が何もないと言うのなら、今はそっとしておくしかないだろう」

「でも気になりますよね。籠目先輩、ストーカーにでも付きまとわれているんでしょうか?」

「それはさすがに……」

 ない、と思うけど。

 分からないな。何が起きても不思議じゃない。それは、文化祭の事件、『堕ちる帳』事件で僕たちがよく味わっているからな。

「でも彼に関しては嫌な予感はしないし、放置でいいんじゃないか?」

「扇先輩の件と扱いが違いすぎません?」

「そうでもない」

 籠目くんだって大事な後輩だとも。

 今はバレンタインイベントに注意力のリソースが割かれているだけだ。もしイベントが無事終わったなら、少しつっついて聞きただしてもいいだろう。

 なんて話をしている間に、すぐに目的地に着く。校舎のロの字型で言えば、調理実習室は底面左側だから結構近いのだ。

「ところで帳の私物ってなんだ? あいつの私物って基本高価だから僕としてもあまり触りたくはないんだけど」

「恋人の猫目石先輩が触りたくないもんを、俺らが触りたいわけないじゃないっすか。つっても、レシピ本と手書きのノートが数冊なんで大したもんじゃないっすよ」

「ならいいか。今日にでもお見舞いついでに届けよう」

「お見舞い、そうっすね……。猫目石先輩は……」

 調理実習室横にある準備室の扉を開きかけて、籠目くんがそのままの姿勢で問う。

「先輩は夜島先輩のお見舞い、行ってるんすね」

「そりゃもうほぼ毎日」

「容体、どうっすか」

「君が心配するほどのことは何もないよ」

「…………そっすか」

 帳の容体に、何か思うところがあるのだろうか。籠目くんの表情からは感情が読めない。ともかく、彼は準備室の扉を開こうとして。

 扉はそれ以前にひとりでに開き。

 中から誰かが飛び出してきた。

「ごふっ!」

「あ、籠目くんが」

 思いのほか勢いがあったのか、ぶつかった勢いのまま廊下の壁際まで吹き飛ばされた。

「いつつ、あ、籠目くんっ! ごめんっ!」

「………………てめえ市松ぅ!」

 誰かと思いきや、準備室から飛び出してきたのは現グルメサイエンス部部長の市松格子さんだった。ピンク色の可愛らしいエプロンを身に着けている。

それと、なぜかそのさらに後ろから出てきたのは扇さんだ。彼女は紫色のエプロンをしていた。

「何度も言ったよな! 準備室の扉は覗き窓ないからゆっくり出ろって危ないからさあ!」

「ご、ごめんって。ちょっと急いでて」

 一方の扇さんは、僕を認めて顔をしかめた。

「猫目石先輩……近づかないでって釘刺したのにむしろ近づいてくるの何でですか?」

「あまのじゃくだねえ」

「ふざけないでください!」

 怒る籠目くんと宥める市松さん、怒る扇さんとすっとぼける僕という中々に混乱した状態だ。

「お前部長なんだからそういうところ改めろって何度も言っただろ! 後輩に示しつかないから」

「え、でも今日後輩いないよ?」

「そういう意味じゃねえ!」

 前言撤回。市松さんもすっとぼけている。意外といい根性してるな。

「何のために釘刺したんですかね私は! ガラになく義理チョコまで渡したのに不義理が過ぎるんじゃないんですか!?」

「ギリギリセーフだよ。ここは準備室であって調理実習室じゃないし。義理だけに」

「あーくそ!」

 ついに籠目くんが激昂する。ふざけ過ぎた。

「猫目石先輩に市松! 人が怒っているときにふざけないと気が済まない呪いにでもかかってんのかあんたらは!!」

 まとめて怒られてしまった。先輩として恥ずかしい。

「まあまあ」

 ここで宥め役に回ったのは唯一誰にも恥じるところのない笹原である。

「先輩方、勘気を収めてくださいよ。これは不幸な事故で誰も悪くないんですから」

「あんたも近づくなって伝えなかったっけ?」

 そういえばそうだったな。じゃあ僕も笹原も恥じ入るべきだったか。

「確かに調理実習室には近づくなと言われましたけど、わたしたちは夜島先輩の荷物を取りに準備室に来ただけです。決してバレンタインのチョコづくりを邪魔しに来たのでもないですし、混乱の最中隙をついてチョコを拝借しようとも思っていませんとも」

 その言い方だとつまみ食いは計画してたんだな。

「夜島先輩の荷物?」

 市松さんが応える。

「あ、そっか。そろそろ猫目石先輩に引き取ってもらおうって籠目くん言ってたもんね」

「そうだよ。で、そっちこそ何で調理実習室にいるはずが準備室なんだ?」

「それは、ほら、これ」

 市松さんが持っていたものを掲げる。それは、ラッピングの材料?

「作ったもの、全部は食べられないから。残ったものは梱包しようと思って用意してたの、準備室に置いてたんだ」

「はー、そういうことね」

 籠目くんもようやく怒りを収めて納得する。

「ふうん、じゃあ何のトラブルもなく完成したんだね」

「猫目石先輩はトラブルが起きると思ってたんですか?」

「いやあまさか」

 おっと失言失言。

「どうだい? 美味しくできた?」

「完成はしましたけど冷ましていた段階なのでまだ食べていませんよ」

「せっかくですし猫目石先輩もどうですか?」

 市松さんが無邪気に提案してくる。後ろで扇さんは苦虫を噛み潰したような顔をしたが、ここでじゃあ「先輩は来るな!」と言うだけの度胸と狭量さは持ち合わせていなかったらしい。

「まあ、もうほとんど終わってますから問題ないでしょう。どうですか、猫目石先輩も笹原ちゃんも」

「やったーチョコだー!」

 きゃっきゃと喜んで、笹原はいの一番に調理実習室まで駆けていく。その後を市松さんと籠目くんも追った。

「まったく…………」

 扇さんは溜息を吐いた。

「あの子、笹原ちゃんって鈍感なんですか?」

「なにが?」

「全日本鈍感選手権代表みたいな先輩に聞くのもおかしい話でしたか」

 だから何が?

「正直なところ、猫目石先輩を調理実習室に近づけないって案は満場一致で採択されたんですよ」

「僕そんなに嫌われてるの?」

「そうですよ」

 否定してほしかった。

「でも笹原ちゃんは、半々というか、なんというか」

「つまり笹原を拒絶するのはやりすぎかもしれないって思ったわけだ、君は」

「私がというより、実行委員会がです」

 その代表が今や扇さんなのだから、彼女がそう思ったのと同義だ。

「結局、弁論部がいるといろいろ煩わしいってことで笹原ちゃんも排除しちゃったんですけど、考えてみたら彼女、『堕ちる帳』事件で私たちと同じくらい中心にいたんですよね」

「そうだな…………」

 それは、あの事件の中心をどこに置くかにもよるだろう。

 夜島帳という元部長を被害者とする中心円ならば、間違いなく事件の中心はグルメサイエンス部であり、関係者は籠目くんや市松さんもそうなのだ。ただ、彼らが思いのほか沈んでいないのは、事件を隠蔽しようとした実行委員会と言う明確な敵を持てたからというのが大きい。

 怒りは悲しみを飲み込んで、人を動かす原動力になる。

 夜島帳という僕の恋人をもし中心に据えるならば、その円が囲む人間は僕であり、家族ぐるみの付き合いをしていた哀歌でもあり悲哀でもある。そしてその円は、僕という探偵を中心に置いたときもほぼ同一だ。

 紫崎雪垣という生徒会の相談役を事件の中心に置くならば、その関係者は扇さんと、彼女を中心とする実行委員会の面々だと言えるだろう。

 一見すると、笹原は誰を事件の中心に据えてみても、その関係者には数えられない。ただ、それは彼女が事件から程遠かったことを意味しない。

 むしろ逆。

 笹原は僕の傍にいた。僕の傍で、すべてを見ていた。

「言ってみれば、あの子も今回のイベントで、一緒に元気になってもらうべき立場の子ですよね。どうもあの子、いつも元気いっぱいなので分からなくなるんですけど」

「僕もあいつのことはよく分からん」

 なんであいつが、なにも動じないのか。

 あいつは夜島帳を知っている。彼女が襲われ、一度は命を落としかけたという状況に動揺してもいい。

 あいつは僕を知っている。僕が恋人を失いかけて自暴自棄になり、暴走気味に灯油を被って自分の体に火をつけたという一件に驚愕してもいい。

 あいつは『堕ちる帳』事件の犯人を知っている。僕の友達で、彼女にとっても頼れる先輩だった人物が犯人だったという事実にショックを抱いていい。

 あいつは紫崎雪垣を知っている。雪垣が沈み引きこもっているという事実に心を暗くしてもいい。

 そのはずなのに、あいつはあっけらかんとして明るいのだ。

「分かんないんだよなあ。あいつ、なんであんなに元気なんだ?」

「それと同じことを、私は猫目石先輩にも思ってますからね」

 そんなものか。

「まさか私も、この世に猫目石先輩以外に何事にも動じない人間がいるとは思いませんでした。笹原ちゃん、ベクトルは少し違うんですけど」

「一応僕は動じたつもりなんだけどな」

 その結果の全身やけどだし。

「ともかく仲良くしてやってくれよ。あいつ、僕が卒業するとそれこそ一人でじゃかじゃかやってそうだし」

「そうですね。まあ、経過観察くらいは請け負いますよ」

 あいつは病気なのか。

 かもしれないな。

 動じないということは病的だ。僕もあいつも。

 そんな陰鬱な話を終えて、僕と扇さんも調理実習室に入っていった。

 部屋の中ではエプロン姿の生徒たちが、椅子に座って各々お喋りに興じていた。そのほとんどが女子である。

「もう固まったよ」

 市松さんが冷蔵庫を開けて音頭を取ると、みんながぞろぞろ自分の作ったチョコを取り出していく。笹原もその中になぜか混じっている。チョコを作った生徒の中に、友達でもいたのだろうか。

「………………ん?」

 その時だ。

 違和感が。

 いや。

 嫌な予感が。

 より強くなった。

 頭を必死に巡らせる。何が嫌な予感の原因なのか。調理実習室にいる今なら、はっきり分かるのではないかと思って。

「……待てよ」

「……どうかしたんですか?」

 隣にいた扇さんが聞いてくる。

「扇さんは、放課後からさっきまでここにいたよな?」

「そりゃあ、主催者ですから」

「じゃあ気づかなかったのか? 匂いに」

「匂い?」

 そうだ、匂いだ。

 チョコレートを溶かして固め直しているんだぞ、この部屋では。それなのに、この部屋の匂いはあまり

「まあ、確かに甘い匂いはあまりしないなあとは思いましたけど」

 扇さんもそこには気付いていたらしい。

「でも暖房がついてますから。匂いも換気されちゃったんじゃないですか?」

「そう、だといいが……」

 チョコを作った生徒たちは、各々自分が作ったらしいチョコを取り出して今まさに食べようとしていた。

「嫌な、予感が……」

「え?」

 心底嫌そうに扇さんがこっちを見る。

「今更何言ってるんですか。まさかチョコに毒でも入ってるんじゃないかとか言い出しませんよね」

「それに近いことは言おうとしたかな」

「馬鹿げてます!」

 そうだな。馬鹿げている。

 だがこの不安は何だ?

「だいたい、このチョコは私達が用意したもので――――」

 と、扇さんが言いかけたところで。

「うっ!」

 うめき声が。

 聞こえた。

「………………え?」

 さあっと、扇さんが青ざめる。

「うげえっ」

「げほっ」

「なに、これ…………」

 うめき声は、一人からじゃない。

 チョコを食べた全員から、発せられていく。

「ちょ、ちょっと、そんな…………」

 慌てたように、彼女はおろおろとし始めた。

「…………っ! 笹原!」

 思い出した。あいつも食べたんじゃないのか!

「せ、先輩…………」

「笹原、おい!」

 ふらふらと、こっちにやって来る笹原を支えた。

「しっかりしろ。なんだ? 何があった? 毒か? とにかく吐いて……」

「そ、そうじゃなくて……」

 笹原は喉から絞り出すような声で言った。

「に、苦くて…………」

「……苦い?」

 苦いって?

「毒物の苦みがあるってことか?」

「ち、違います。げほげほっ」

 苦みで喉をやられたらしいがそこは現役DJである。調子を整えるといつものはきはきした声量で、事態を告げる。

「チョコが、ものすごい苦いんです!」

「………………はあ?」

「これ、一度だけ食べたことあります。カカオ分が多いダークチョコレートってやつですよ。うへええ」

「よ、よかった。とりあえず毒物じゃないんだな?」

「それは間違いないです。毒物の苦みではなさそうで」

 笹原はその番組で以前、毒物について扱ったことがあると自慢していたことがある。その彼女が毒物の苦みではないと断言したし、何より苦み以外で苦しむ様子もないから、大丈夫なのだろう。

 周りを見ると、周囲のチョコを食べた生徒たちも苦味には苦しんでいるが、それ以上はないらしい。

 まあ、なら良かった……のか?

「何が起きたんだ?」

「分かりません。でも、誰かがいたずらで材料のミルクチョコレートをダークチョコレートに変えたんじゃ……」

「また地味な嫌がらせを……」

「いれかえ………………あっ!」

 扇さんが後ろで叫んだ。

「……しまった!」

 次いで、笹原。笹原は僕から離れて、すぐに辺りをきょろきょろと見渡す。

「長尾ちゃん!」

「どうした、笹原?」

「長尾ちゃんいますか?」

「その長尾ちゃんが僕には……」

「いたっ!」

 笹原の疑問には扇さんが応える。二人は急いで人の波をかき分ける様にして、一人の女子生徒のところへ向かう。

「長尾ちゃん、大丈夫? しっかり!」

 僕も急いで近づく。長尾ちゃんと呼ばれたその女子生徒は、ぐったりと床に突っ伏している。明らかに、チョコが苦くて苦しんでいるという程度を超えている。

「ど、どうしよう……。こんな、こんなことって……」

「ちょっとどいて」

 混乱する扇さんがいても邪魔になるだけだ。彼女を後ろに回して、僕が彼女に近づく。

「げほっ、げほっ、ぐうううっ!」

 長尾さんは苦しそうに咳を繰り返すだけで、笹原の声には答えない。僕は彼女の肩を掴んで支える様にして上体を起こした。

「おい笹原、これまさか」

「はい。長尾ちゃんはチョコアレルギーで」

 なんでそんな子がこんなイベントに?

 いや、今は……。

「アレルギー、しかも呼吸器系の……。これけっこう重症じゃないのか?」

「ですねっ。今何とかします」

 笹原は長尾さんのブレザーを探っていく。

「ああ、ない! こんな時に!」

か?」

「はい。でもこんな時に限って携帯してないみたいで」

「笹原、この子と知り合いなんだろ?」

「クラスメイトです」

「じゃあ教室に行け! どこに鞄を置いてあるかもお前なら分かるだろ。鞄の中にならあるはずだ」

「そ、そうですね。そうします」

 立ち上がり、素早く笹原は駆けていく。こういう時にあいつのフットワークの軽さは頼りになる。

「市松さん! 籠目くん!」

「は、はい!」

「いますよ!」

 二人はさっと顔を出してくれた。

「籠目くんは救急車を呼べ。市松さんは、えっと、長尾さんの食べたものを吐かせるから手伝ってくれ」

「了解っす」

「わ、分かりました」

 まったく…………とんだイベントになったものだ。

 しかし、何がどうなっている?

 いったい何がどうなったら、チョコアレルギーの生徒がチョコを食べるなんて事態に………………。

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