#5 恋々と、かつての面影

 木野悲哀という名前は、一種の偽名である。

 その点については、僕も了承していた。悲哀というのは僕と出会った当初、彼女が名乗っていた名前だ。木野という苗字も、愛人関係を続ける最中に婚姻関係を結ぶことがあり、何度か変わった苗字の中の最後のひとつだったという。

 僕の生家は岐阜県なので、今の愛知県には引っ越してきたわけだが、そこで悲哀は旧知の牙城さんと再会し、そこで牙城さんに「名前をころころ変えるな」という至極真っ当な指摘を受けて名前を木野悲哀と定めて戸籍に登録したわけである。

 ちなみに僕がその時木野家に入らなかったのは、単に手続きを面倒がったわけである。ともかくこういう人間なので、実の娘の哀歌の苦労たるや並大抵ではない。

 ではここで問題となるのが、悲哀の実名である。

 あるいは実名なんてものはもはや意味を持たないのかもしれないが、ともかく、彼女がかつて名乗っていた名前の内、最も実名に近い意味を持つ幼少期の名前こそ、だったわけである。

「いやあ、しかしこんなところで会うなんて驚いたよ」

「………………まったくね」

 とにかく腹が減ったので、いい加減どこかに落ち着くべきだと定めた僕たちは、手近なファミレスに席を占めた。

 悲哀はカルボナーラ、僕はカレーを適当に頼んだ。悲哀の知り合いらしいその男性はとんかつ御前、女の子はミックスグリルをチョイスしている。個性が出ている、かは知らない。

「三十年ぶりだよね。昔はあんなに小さかったのに、成長するともう一端の大人だね」

「そりゃそうでしょ」

 悲哀は苦笑する。

も変わらないというかなんというか……」

 あっくん……。この男性の愛称か。悲哀が他人を愛称で呼ぶとはな。牙城さんにさえそんな呼び方しないのに。それだけ近しい関係だったのだろう。三十年ぶりくらいに会って、お互い人違いの可能性を考えもせずすぐに当人だと分かったくらいだし。

「髪、黒くしたんだね。虹色に染めてたのに」

「あれけっこう手間だし。それに今のあたしは七色じゃないもんで」

「へえ?」

 大人二人の会話の横で、子どもの僕は黙々とカレーを消費するだけだ。女の子の方も話には興味を持っておらず、ミックスグリルにがっついている。

「叔父さんは元気?」

「それが数年前に亡くなってね」

「そうだったの…………」

「君叔父さんに懐いてたもんねえ。叔父さんの作る料理も大好きだったし」

「ああ懐かしい。あの頃に戻れないかなあ」

 その発言に少なからず僕は驚かされた。悲哀はあまり懐古的なことは言わないタイプなのだが……。なにせ男を騙して生きてきた過去もあっけらかんと語れるやつだ。こいつは常に現在から未来にかけて生きていると思っていた。

「あの頃は確かに懐かしいし、楽しかったよね」

 男性の方も懐古的に呟く。

「みんなで一緒に探偵ごっこみたいなことをして、気づいたら犯罪組織を片っ端から潰してたりとか」

 どんな少年時代だ。僕よりひどいじゃないか。

「ああ、そんなこともあったね」

「あったねじゃなくて」

 いい加減口を挟まないと置き去り感が強いな。

「つまり悲哀、お前が名探偵+αだったんだろう?」

「あ、はは…………」

「笑ってごまかすな」

 何か隠しているとは思っていたが、当人だったとはな。

「木野悲哀とお前が呼ばれる前に、七色七って呼ばれていたんだな。で、この人はお前が七色だった頃の知り合いってわけだ」

「そうなるねえ」

「まったく。僕はいいが、これ以上哀歌の苦労を増やすなよ」

 母親の黒歴史とか知りたくもないな。

「紹介が遅れたね」

 男性の方が箸を置く。

「僕は北川証。君の母親が七色七と名乗っていた頃に一緒に活動していてね。名探偵+α。確かに、懐かしい呼ばれ方だ」

 悲哀は僕の母親じゃないが、訂正するのも今は面倒だな。

「で、こっちは七宝」

 と、北川さん――証さんは隣の女の子を紹介する。七宝と呼ばれたその子は、ちらりと証さんの方をちょっとだけ見てから、また食事に戻る。

「へえ、この子、朱雀の子なのよね」

 悲哀が指摘する。ファミレスに入ってコートを脱ぐと、やはり彼女が着ていたのは朱雀女学院の赤いセーラー服だった。

「うちの娘も朱雀にいるのよ」

「そうなのかい?」

「今何年生?」

「中等部の三年生だよ。でも、高等部には進学しない予定でね」

 言って、証さんは僕の方を見た。正確には、こちらもコートを脱いでさらした上等高校の制服を見たのかもしれないが。

「君と同じ、上等高校に進学する予定になっているんだ」

「なんでまた」

 思わず、別にどうでもいいことのはずだが口を突いて出てしまった。帳や笹原もそうだったが、エスカレーター式に進学できる朱雀女学院で、どうしてわざわざ偏差値の低い上等高校へ移るのか分からない。哀歌が言うには、中高一貫と言っても朱雀は中等部と高等部で入れ替わりが激しいらしいけど。

「さあ、それは分からないな」

 証さんは父親にしては頼りないことを言う。

「内部進学の方が楽なはずだけどね。でも珍しく、彼女が上等高校に行くって言い出したんだ。何か理由があるのかは分からないけど」

 単に朱雀にいるのが飽きたのかもねと証さんは肩をすくめた。七宝さんはそんなアグレッシブなタイプには見えないが……。まあ、他人の決定に僕が口を挟む義理もない。

 その七宝さんは自分の話がなされているのも気に留めず、ミックスグリルを平らげてごくごくと水を飲んでいた。マイペースだな。何事も意に介していないだけかも。

「というか、僕も自己紹介がまだでしたね」

「いやいや」

 証さんが僕を制する。

「君のことは紹介されるまでもなく知っているよ。高校生探偵の猫目石瓦礫くん」

「……ご存知でしたか」

「七――悲哀の息子が探偵とは、血は争えないね」

 だから血は繋がってないのだが……。

「しかしよく知ってましたね。僕のこと、『タロット館』事件の折に週刊誌に一瞬だけすっぱ抜かれた程度だったと思うんですけど」

「そりゃあ、名探偵+αなんて活動をかつてしていれば、自然と探偵業界に対する感度は上がるよ。それに君も、上等高校の文化祭では随分暴れただろう。僕と七宝は見学に行っていたから、よく知っているよ」

「それはそれは……」

 学校見学ついでの文化祭巡りをされていたわけだ。そのときに大立ち回りのひとつでもすれば、さすがに目立つか。

「あとで知り合いの刑事に聞いたけど、大変だったんだってね。君の恋人さん、もう大丈夫なのかい?」

「そこまで聞き及んでましたか……」

 意外と馬鹿にならない情報網だ。元名探偵と言っても、もう大昔の話なのにまだ情報網が生きているとは。

「ええ。御心配には及びません。帳なら無事ですよ」

「なら良かったね」

「ええ」

 が、良かったのだ。帳が生きてさえいれば、僕の人生は万事がつつがない。

 水も飲み終わった七宝さんは、やることもないのかじっとこちらを見てくる。なんだなんだ。顔面包帯ぐるぐる男はそんなに珍しいか。

 いや、待てよ。

 この子、目線の動かし方が変だぞ?

 時計店にいたときは一点をただ見つけているだけのように感じたけれど、今こうして対峙してみると、彼女の目線は一点に絞られていない。あちこちを隙なく伺うように、ちらちらと視線が動いている。

 この目線の動かし方を、僕は知っている。

「……………………」

「……………………」

 僕と七宝さんは、しばし互いに探り合うように視線を交錯させた。

 なるほど。

 血は争えない、か。僕と悲哀は血が繋がっていないが、どうも七宝さんは蛙の子だったわけだ。

「ところであっくんは今何してんの?」

 悲哀があけすけに尋ねる。

「今は実は無職でさ」

 頭を掻きながら、やれやれといった感じで証さんが応える。

「去年までは、『プリズム園』っていう児童養護施設を営んでいたんだけど、いろいろ事情があって閉園しないといけなくて。貯蓄はそれなりにあるから困ってはいないんだけど、新しい仕事を始めようとは思っていて」

「あっくん料理上手だったし、どこかのお店でシェフとして雇ってもらったら? 調理師免許も持ってるでしょ?」

「そうだね。今はいい条件の店を探しているところで」

 無職か。大変だな。しかし無職でも娘の入学金や諸々を払えるとは、相当金持ちだなこの人。

「そういう七は何をしているんだい?」

「あたし? へへん」

 悲哀は自慢するように胸を張った。

「実はNPO法人の代表。『犯罪関係者を守る会』って言ってね」

 悲哀が代表を務めるNPO法人は、文字通り犯罪関係者の社会復帰支援を行っている。『殺人恋文』事件のとき、心に傷を負った生徒が愛知県を出てマスコミから追及されないよう取り計らったのもうちにそういうノウハウがあったからできたことだ。

「悲哀が、代表……それはそれは」

 あ、これ驚いているか信用してないかのどっちかだな。まあ無理もないか。悲哀は代表といっても折衝関係以外はザルだし。何なら哀歌の方がスタッフとしては信頼されているくらいだ。十四歳の娘に負ける四十二歳の母。もっと頑張れ。

「あ、信じてないな?」

「探偵業ならともかく、そういう繊細なことできないタイプだったよね七って」

「そうですーでもスタッフに任せれば安心なんですー」

 ザ、他力本願。こいつ名探偵+αの時もそうだったんじゃないのか?

「その調子だと名探偵+αってのも、どうせ証さんにおんぶにだったこだったんだろう?」

「いやいや」

 悲哀が否定する。

「名探偵+αっていうのはね、あたしが名探偵だったの。そこにあっくんが引っ付いて+α。一人でも名探偵、二人なら最強ってね」

「どうだかな……」

 怪しい。

「実のところ、七の言っていることは本当だよ」

 さすがに証さんから補足が入った。

「七は探偵としては優秀だったからなあ。それ以外がてんで駄目で、日常生活もろくに遅れなかったから僕がいろいろ手を焼いてね。そしたら名探偵+αなんて呼ばれるようになってたんだ」

「そんな名探偵の典型みたいなキャラ付けを」

「あんたも似たようなもんでしょ。カップ麺すら作れない癖に」

 そういえばそうだった。あれ、ひょっとして僕、日常生活も遅れない社会不適合者的な名探偵像を踏襲してたりする?

「でもやっぱり悲哀が名探偵だったなんて信用できないな」

「あんたの両親の殺人事件解決したのあたしなんだけど忘れてる?」

「そういうこともありました」

 確かに。今までの言動が言動で忘れていたが、こいつは結構暗躍する。僕の両親が殺された事件もこいつが解決したし、そういう暗躍能力が買われているからNPOなんてできるのだ。

「笹原ちゃんが探してるんでしょ名探偵+α。今度出てあげようかな」

「やめとけ。いややめろ」

 笹原には知らなかったと言い張ることにする。自分の保護者が名探偵とかぞっとしないからな。

 そんな会話を挟みつつ、食事は大方片付いていく。話題は昔話を飛び越えて、今の話、つまりバレンタインに移っていく。

「懐かしいわあ。バレンタインとか。あっくんにチョコあげようとしてついぞ渡せずじまいだったことが何度かあって」

「そのたびに一か月後のホワイトデーでようやく渡されてたっけ」

 悲哀、今じゃ考えられない奥手だな。

「そういえば七宝」

 唐突に、証さんが話題を振る。

「確か今日、チョコを持っていったよね。渡したい人には渡せたかい?」

「……………………」

 ここまではまるで会話に反応していなかったのでここでも反応しないのかと思いきや、七宝さんは顔を横に振った。

「あら、それは残念ねえ」

 悲哀は昔の自分を思い出したのだろう。溜息を吐いた。

「そうかい、それは残念だったな」

 七宝さんは殊更に表情を硬くして、生気を失った目で虚空を見つめた。どこか超然としているような気がしていたが、単にチョコを渡すのに失敗してそれが気にかかっていただけなのかもしれない。

「でも大丈夫」

 証さんは父親らしく、七宝さんの頭を撫でる。

「十四日を過ぎてもチョコが消えてなくなるわけじゃない。君が渡せると思ったタイミングで渡せばいいんだよ」

「……………………」

 頭を撫でられて、ようやく少しだけ、ふっと表情が和らぐ。どこか、肩の荷が下りたような表情。

 ……………………ん?

 その表情が、どこかで見たことある様な……。誰かと重なるような……。

 ぐっと、七宝さんは証さんの服の袖を引っ張る。そして、懐から懐中時計を取り出して見せた。僕の方からは裏面しか見えない銀色に光る懐中時計。裏面には『from K.A to K.S』と彫られている。

 北川証から北川七宝へ、か。父から娘への贈り物なのだろう。

 時計には、人の生きた時間を刻む役割がある。

 僕は自然と、胸ポケットのふくらみに手を当てた。

 壊れたら、また直せばいい。帳の時計がそうであったように、壊れた時計は直って、また僕たちの時を刻み始める。

 しかし。

 壊れてなくなって、別物になってしまったら?

 もう一本の、紫色の時計に思いをはせる。

 いや、はせなくていい。

 それは僕の役割じゃない。

「ああ、もうこんな時間か」

 証さんは席を立った。

「すまないね。明日は朝が早くて、これで失礼するよ」

「ん。またね。今度はもっとゆっくり話そう」

「ああ」

 証さんと七宝さんは立ち上がり、コートを羽織って出ていく。それを追う悲哀の目は、やはり、過去を想起する目をしていたような気がする。

「昔に戻りたいって、本気で思ったのか?」

 二人きりになったところで、水を飲みながら、僕はそんなことを聞いた。

「ううん? まあ思ったのは事実だけど、戻れないのも事実だからね」

 あっけらかんと、悲哀は言う。

 戻れない。

 そう、戻れないのだ。

 どんなにある一瞬が楽しくて幸せでも。

 どんなにある一時が怠惰で心地よくても。

 もう戻れない。

 過ぎた時は残酷に、僕たちを前に進ませる。時計の針が戻せないように、戻すことに意味がないように。

 それは『堕ちる帳』事件を経験した上等高校の全員がよく分かっていることで。

 それ以上に扇さんが知っていることで。

 さらにそれ以上に、雪垣のやつが痛感していることだ。

 あいつは腕時計なんかよりももっと大事なものを、あの事件で失ったのだから。

 という、自身の庇護者であり恋人を、失ったのだから。

 あの事件における唯一の死者。

 雪垣の無能の証明。

 愛すべき人一人すら守れないことを痛感したあいつに、明日、扇さんは相談に行くという。

 それは時計の針を戻すような行為だと思うのだけど、やっぱり、扇さんがそれをするのを僕は馬鹿にできないのだ。

 いつだって、恋する誰かの一挙手一投足を馬鹿にする権利は誰にもないのだから。

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