#6 恋路を歩く者
天気予報は大当たりだった。
朝から、寒い。
鉛色の雲が低く、そして厚く空を覆っている。雪がちらちらと舞って、凍てつく空気が顔を突き刺してくる。
マフラーに顔を埋めて、手袋をした手をさらにコートのポケットに突っ込む。包帯で顔を覆っていても寒いのは寒いのだ。別に包帯は防寒具ではないのだから。
まったく、朝から僕は何をしているのだろうね。
僕がいたのは、上等高校からそう遠くない住宅街の一角である。寒さをものともしない小学生の通学団を横目に見ながら、僕は来るべき人の登場を待った。
今日も今日とて学校はあるのだし、そう遅くはならないだろうと思っていたが予想通り。彼女は現れた。
記憶が確かなら彼女は朝に弱かったはずだけど、こんな時まで寝ぼけ眼というはずもなかったか。
「やあ」
「猫目石先輩?」
その彼女、扇さんは足元を見て歩いていたから僕の方から声をかけることにした。せっかく寒さに耐えて待ったのに、目の前を通り過ぎられては悲しいからな。
「なんでここに」
扇さんは怪訝そうにこっちを見る。
「雪垣のやつに会いに行くんだろう。だから来た」
「理屈が分からないんですけど」
彼女は僕を無視するように歩き出す。僕も横に並んでついていく。
「君が毎日お百度参りみたいに行っても雪垣のやつは顔を出さないんだろう?」
「今回は用件がありますから、その限りでもないです」
「どうだろうねえ」
用件ひとつで顔を出すくらいなら、今の今まで引きこもってはいないだろう。
「北風と太陽みたいなものだ。扇さんの呼び掛けで出てこないなら、逆のことをしてみるのも一興だ」
「それが先輩ですか」
「そういうこと」
僕にとってみれば身に覚えのないことだが、あいつは僕を恨んでいる節がある。扇さんの太陽で出てこないなら僕の北風である。案外、怒って出てくるかもな。
「時に怒りは強い原動力になる、らしい。僕はあんまり怒ったことはないから分かんないけど」
「だから怒るの下手なんですよ先輩」
じろっと睨まれてしまう。
「激おこぷんぷん丸からの焼身ですからね。どんな怒り方ですか」
「激おこぷんぷん丸て」
どんな怒り方だそれ。
まあでも、なるほど、そういう見方もある。帳を襲った犯人に激怒して行動したのが『堕ちる帳』事件での僕だから。あまり普段怒らないというのも精神衛生上悪いか。
いや帳を攻撃された怒りが激おこぷんぷん丸って表現おかしくないか?
「僕はもっとシリアスに怒っていたつもりだったんだけど」
「その結果起こす行動がちぐはぐなんですよ。傍目に見てシュールギャグの一種かと思いました」
そんなにひどかったのか。
「でも今思えば、そんな行動も先輩の計画の内でしたか」
思い出すように扇さんが言う。
「結果的にあの事件、私も紫崎先輩も、犯人まで猫目石先輩の手の平で踊らされていたような気がします」
「さすがにそこまでではないよ。未来のビジョンが見えただけだ」
多分僕の、探偵としての絶頂があそこだったんだろうと思う。
「じゃあ今も、見えているんですか?」
「何が?」
「今回の、『毒入りバレンタイン』事件です」
あ、そういうネーミングなのか、今回の事件。普通にチョコ入れ替え事件とかじゃ駄目なのか。
「さすが上等高校のワトソン」
「馬鹿にしてません?」
「まさかあ。でも毒は入ってなかったよね」
「長尾さんにとっては毒でしたから。それにチョコって昔は薬としても使われたんですよね。薬と毒は紙一重です」
「そんなもんかね」
そんなものかもしれない。
相談役と探偵が紙一重であるように、薬と毒も紙一重なのだ。健康にいいとすら謳われるチョコレートも、ある人にとってはただの毒。
「先輩は事件の犯人が分かっているんじゃないですか? 分かっていて、それでも自分の出番じゃないと思って黙っているとか」
疑惑の目を向けながら、扇さんはそう言った。
「まさか。買いかぶり過ぎだよ」
実際、買いかぶり過ぎだ。
「昨日も言ったけれど、今回は僕の出番じゃない。生徒会の相談役を引き継いだ君が請け負ったイベントで起きた事件なら、解決するのは君なんだ。僕が解決したら、尻拭いをしたみたいな印象が強くなるだろう?」
それじゃあ、扇さんの立場がなくなる。
「僕の出番じゃないのだから、推理すらしていない。事件の犯人なんてさっぱりだ」
「そうですか。先輩にも人の面子とか、計算できるんですね」
心底意外そうに呟かれてしまった。そんなに意外か。
「紫崎先輩の面子を潰すのが生きがいみたいな人だと思ってましたけど」
「それ、僕の性格が悪すぎるだろう」
どんだけあいつのこと嫌いなんだよ。嫌いだけどさ。
「もしそう見えたのなら、僕はあいつの尻拭いを結構な回数やったからかもしれないな」
「『殺人恋文』事件ですか?」
「それもある」
上等高校の実行委員会から加害者と被害者を出した事件。雪垣のやつは犯人を自首させて一件落着なんて面をしていたが、その後のごたごたを始末したのは僕だ。僕というより悲哀のNPOだったりもするが。
「『奈落村』事件のこともある」
『奈落村』事件。中学一年生の時、僕とあいつが所属する額縁中学剣道部は拉致されて新興宗教が牛耳る村に連れて行かれた。その村は最後には大炎上をしたわけだが、村を燃やしたのがあいつで、しかも当の本人はそのことをすっかり忘れている。そのせいで、新興宗教団体の恨みを一心に買ったのは僕なのだ。
「だから」
僅かに、扇さんの声が震える。
「だから、あの時は見捨てたんですか?」
あの時。
『堕ちる帳』事件の時。
「伊利亜さんが死ぬって。次に犯人に狙われるって先輩は推理できてたんですよね? でも、先輩は伊利亜さんを救ってくれなかった」
「ああ」
僕は、葡萄ヶ崎伊利亜が死ぬのは推理できていた。
「尻拭いが嫌だから、見捨てたんですか?」
「それは違う」
僕は歩みを早める。少し扇さんを追い越した。
「タイミングが悪かった。あの時、僕は雪垣にまるで信用されていない状態だったからな。仮に僕が忠告してもあいつは一笑に付しただろう。で? もし仮に一笑に付して馬鹿にしたことが現実になったらどうなる? あいつは今以上にショックを受けただろうな」
なにせ自分でその可能性はないと思ったら恋人が襲われて死ぬのだ。自分を責めるに決まっている。
「そうなるのが目に見えていたから、僕は警告すらできなかった。尻拭いはしなかったんじゃなくて、した結果がこれだ」
「じゃあ!」
扇さんが叫ぶ。
「守ればよかったじゃないですか! 紫崎先輩には相談せず! それはできたんじゃないんですか!?」
「それこそ無理だったな。あの時、僕は自分の体に火をつけてたからな。ぶっ倒れて動けなかった。そして、そこまでして気を引かないといけなくなった原因も、
村に火をつけるだけじゃ気が済まないのかあの馬鹿は。
「詰んでたんだよ。あいつが、僕には事件を引き寄せる性質があるとか何とか馬鹿なことを言い始めた時点でな。あいつは自分で大事な人を守る手段を放棄したんだ」
その決定の責任まで僕は負うつもりなどない。
「だから伊利亜さんが死んだのは、あいつのせいだ。あいつ以外の、誰のせいでもない」
「犯人が…………」
絞り出すように扇さんが言う。
「犯人が悪いんです」
「だろうね。それでやつが納得するならいつまでも引きこもっていないさ」
犯人が悪いで済むなら、自責の念なんて言葉は辞書から消えている。
「しかし意外と君は気にするよね、伊利亜さんが死んだこと」
「どういう、意味ですか?」
「いやさ。考えてみれば君と伊利亜さんは雪垣を巡る恋敵だったわけだろう。僕もそういう三角関係に覚えがないわけじゃないが、こうなると誰もかれもどうしようもなくなるんだよ。自分の気持ちには嘘がつけないし、かといって相手を呪うわけにも行かないからな。君からすれは伊利亜さんは憎いくらいでも、自分の大好きな雪垣からすれば恋しい相手のわけだから」
「………………………………」
「そんなところに今回の事件だ。まったく不運によって伊利亜さんは死んだ。これはチャンスだろう。大手を振って雪垣のやつを独占できるんだからな。あいつが落ち込んで出てこないって問題もあるが、それはそれ。むしろ落ち込んだ時を支え続けた君にいずれ惹かれるかも――――」
腕を引っ張られる。右腕を、こう、ぐいっと。
その勢いで振り返った。すると。
ずばしんと。
強烈な痛みが左の頬を貫いた。
チカチカする視界の中、ぼんやりだが扇さんが右手を振り抜いているのが見えた。
「…………………………!」
扇さんは声にならないという感じで。
歯をギリギリと軋ませて、こっちを睨みつけている。
目の中には涙も溜まっていた。
「それ以上………………!」
周りには誰もいない。いたらさながら痴話喧嘩と思われたかもしれない。
「それ以上言ったら………………殺す」
「…………………………殺してみろよ」
どうするのが正解か、少し悩んで、ここは喧嘩を買うことにした。
やっぱり、怒りは人を動かすから。
「やれるものならな。探偵すら自称できない生徒会の相談役とやらのクソ馬鹿野郎の、その自称助手が天下の高校生探偵様を殺せると本気で思うのなら、いくらでもかかってこい」
「…………このっ!」
「いいんだぜ、こっちはな。憎み合いの殺し合いぐらい慣れっこだ。そうとも、僕には事件を引き寄せる性質でもあるんだろうな。だからいくらでも殺し合いは見てきたしやって来た。おちゃらけた相談役なんかと違ってな」
「調子に乗るなっ! なにが探偵だ! なにが高校生探偵だっ! 人ひとり守れない、自分の恋人ひとり守れないくせに!」
「守るのは、探偵の領分じゃないからな」
「屁理屈を言うな!」
扇さんが拳を握って突っ込んでくる。そうなる未来は見えていたので、僕は少し横に動いて躱した。
「どうした? 君の愛ってのはこんなものか? 盲目するくらいもう雪垣のやつに参ってんだろう? だったら僕があいつを馬鹿にするのをこれ以上許していいのか? 僕を黙らせないとこれから十秒に一回のペースであいつを馬鹿にするぜ」
「この………………!」
扇さんがこっちを睨んでくるが、突っ込んできたりはしない。
「君も災難だな。雪垣なんて能無しのマザコン男を好きになってさ。いや仕方ないさ。好きって気持ちが止められないのは僕をよく分かっている。でも雪垣はないよなあ。たかが自分の母親が自殺したくらいでショック受けて、伊利亜さんを母親に見立てているような真正マザコンクソ野郎だ。僕が女だったらそれだけでもう嫌悪の対象だろうな。いや男でもきついわあれは」
「誰だって…………」
扇さんが声をしぼり出す。
「誰だって、大事な家族を失えばそうなるんだよ! あんたには分からないだろうけど! わたしと、先輩は家族を失ってるから分かるんだよ」
「そうかい。言ってなかったっけ。僕も両親は死んでるよ」
「不幸自慢でマウント取ってんじゃねえ!」
「始めたの君だろ」
完全に怒らせたと見えて、突っ込んでくる。僕は扇さんの肩を掴んでそれを止める。
軽い、そして弱い。
男の中でも非力な方の僕が、簡単に押しとどめられるくらい彼女は弱くて脆い。
あのクソ馬鹿野郎は、そんな彼女にいろいろ背負わせているわけで。
だから嫌いなんだ。
「いいだろ? 別に伊利亜さんが死んだって扇さんが悲しむことはない。むしろチャンスだ。さっきも言ったけど、三角関係ってのは存外厄介だからさ。それが運よく解除されたと思って真摯に雪垣のやつにアタックすればいいんだよ。それを誰も不謹慎とは言わないさ」
「う、うううううぅぅぅ…………」
俯く扇さん。
ボロボロと、コンクリートの地面に涙が落ちていく。
ここいらが限界か。少し追い詰めすぎたかもしれん。
「分からない。分からないんだよ!」
叫ぶ。
「伊利亜さんが死んで悲しいのに……。悲しいのにっ! どこか安心してる私がいるのが分からない! なんで、こんなに悲しいのに、ちょっと安心してるのか分からなくて」
「……………………」
「紫崎先輩……。横浜の専門学校に行くって」
何の話か分からないが、彼女の喋るに任せた。
「それで……伊利亜さんに、結婚してくださいって言って、夫婦で喫茶店やるって……」
「……そうか」
まさか雪垣のやつが扇さんにそう話したわけではあるまい。もしそうなら一回殺してもいいくらい罪深いやつになってしまう。たぶん、偶然扇さんがどこかで聞きつけてしまったのだろう。
あるいは想像、推測、憶測。まあ、それができるくらい雪垣と伊利亜さんの仲ははっきりしていたし。
「調理の資格取って、一緒に働くって…………。もしかしたら、伊利亜さんも今のお店畳んで横浜に行っちゃうかもって。先輩が、どこか遠くに行って、もう戻ってこないかもって……」
しゃくりあげながら、扇さんはぽつぽつと話す。
「でも、伊利亜さん、死んで…………。全部、なかったことになって。だから、それで、あ、安心しちゃって…………」
「………………そうか」
「駄目、ですよね。そんな…………人が死んで、喜ぶなんて……。安心するなんて……。こんなの、駄目に、決まってるのに……」
その思いを抱えながら、彼女は、毎日雪垣のところを訪れていたわけで。
それは、拷問に近い。
「駄目じゃないさ」
だから僕は、そう言った。
「死人に口なしだ。死んだ人は恨み言のひとつだって言いやしない。化けて出るのはホラー映画の中だけで、現実には誰も化けて出やしない。何百って他殺体を見た僕がそれは保証する」
「そんな保証……」
目元をコートの袖で拭いながら、扇さんが顔を上げる。
「意味あるんですか」
「高校生探偵のお墨付きだ。意味はある」
僕はコートのポケットから、箱を取り出す。細長い、あの時計が入った箱を。
「これ、渡しておくよ」
「…………なんですか?」
「ホワイトデーのお返し。さすがに三月十四日まで学校にいるかは怪しいからね」
「いらないって言いませんでしたか?」
「さあ、覚えてないな」
すっとぼけて、押し付ける。
扇さんは僕から箱を受けとって、中を見る。
「これ…………! どこで」
「念のため言っとくけど、その腕時計はあの馬鹿が伊利亜さんからもらってつけてたやつじゃない」
「え?」
「あいつの腕時計を回収して修理してもらったわけじゃないんだ。それは新品だ。まだ誰の想いも籠ってない、まっさらなものだ」
「…………でも」
「ためらうな」
僕が彼女に言えるのは、それだけ。
「恋はためらったら負けなんだよ。大好きなあいつの隣は一人分のスペースしかないぞ? で、今そこには伊利亜さんの死体が転がってるわけだ。もし君がどうしても雪垣を好きだというのなら、伊利亜さんの死体を蹴っ飛ばしてでも横に収まれ。それが上等高校のワトソンが、生徒会の相談役の助手が、恋敵にしてやれる唯一の供養だ」
「…………………………」
ちらつく雪の中、箱から取り出した紫色の腕時計を手の中で扇さんが弄ぶ。
腕時計の思い出。伊利亜さんと雪垣を繋ぐ思い出を、自分の手で塗りつぶして塗り替える。その残酷さこそが、恋なのだ。
「というか」
はっと、冷静になった扇さんが言う。
「なんで私、猫目石先輩なんかに恋愛指南されてるんですか?」
「なんかに!?」
「だってそうでしょう! 夜島先輩と前世からの因縁で結ばれてるみたいな猫目石先輩から何を学ぶって言うんですか!」
「あのなあ。僕も帳と今の関係になるまではそりゃあいろいろあったわけで」
小学生時分、帳の隣にいた名探偵を蹴落として。
自分が探偵代理になってみたりして。
そしたらその名探偵、実は僕のことが好きで三角関係が発覚したりとかして。
いろいろ大変だったんだから。格好悪いから言わないけどさ。
「そういう紆余曲折を経験した人生の先輩からのアドバイスだよ」
「うざいです」
端的に言われてしまった。
「もういいです。行きましょう」
「そうだな」
そして僕たちは、再び歩き出した。喋り出すとまたぞろ喧嘩になりそうなので、お互い無言だった。でもそれでいいのだろう。
ポワロとワトソンの間に交わすべき会話などないように、相談役の助手と高校生探偵じゃ、かみ合わせが悪いのだ。
そして僕たちは、それでいい。
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