第9話 面接に待ち受けていた罠
電話で指定された日時、浩一郎にとって、いまや縋れるただ1本の藁となった「宮下ソリューション」へ出かけて行った。
小さな飲食店が立て込む一画に、古壁に雨垂れが目立つ雑居ビルがあった。
なんとかいうセレクトショップの裏、赤錆の目立つ鉄板階段を、階下の中華料理店から流れ出す豚骨スープの匂いに噎せながら上って行くと、踊り場の扉のプラスチック板に、滑稽なほど場違い感たっぷりの横文字の社名が張り付けられていた。
ささくれた合板を軋ませながら手前に引くと、いきなり狭い靴脱ぎ場だった。
「ごめんください。面接にうかがった畑中です」
声をかけると、書類や物が乱雑に積み重なった机の向こうから、猪のように首のない女が嵩のある顔を覗かせた。
一見したところ、浩一郎と同年輩か。
真っ黄色のジャケットに紫のスカート、赤い縁のメガネ。
西瓜のような胸には、ビー玉大の青い石がジャラジャラと連らなっている。
女子プロレスラーのような威圧感に思わず後退ったが、
「そんなところに突っ立てないで、さあ、上がって上がって」
自ら社長と名乗る女に急かされ、いやいや闘牛場へ引き出される温和な牛の心境に同情しながら皮靴を脱いだ。
スルメのように潰れたスリッパに、苦労して爪先を突っ込む。
破れた箇所をガムテープで十文字に補強してある、人工皮革の茶色いソファに、ひとりがやっと座れるスペースが開けられている。とりあえずそこへ腰を沈めた。
「はい、ご苦労さま」
高飛車に告げて浩一郎の正面に座った女社長は、ムッチリしたタイトスカートの脚を組み上げると、慣れた手つきで煙草を出した。同席者に許可を求めないのはいまどきのマナーに反しているが、まさかのことに、たしなめるわけにもいくまい。
「拝見しましたよ、履歴書」
妙に引っかかる体言止めをした女社長は、いやな感じの目を下からすくい上げてくる。こういうのを三白眼というのだろうか。持ち前だとしたら気の毒に。本人の意思とは関係なく、総じて相手に陰険な印象を与えてしまう、残念な目である。
「いや、お恥ずかしい限りです。なんとかやってきたんですが、去年、ついに店を閉じることになりまして。すべてはわたしの力不足で、まことに不甲斐なく……」
同じ経営者仲間という甘えもあり、社交辞令のつもりで首に手をやった。
経験から推しはかると、こういう場合、返ってくる言葉は決まっていた。
無難に「時世が時世ですから」とか「時代ですかねえ」とか。もう少し丁寧に「手作り一辺倒だった時代とちがい、既製品が豊富に出回るようになった昨今は、自分で衣類を縫うなどという奇特な女性は見かけなくなりましたからね」とか。
だが、いま風にソリューションを名乗る、ビル清掃請負会社の女社長は、
「それはそうだよ、あんた。社長でなくて、だれに責任があるというのさ」
いきなりのタメ口でバッサリ斬りつけて来た。
呆気にとられた浩一郎の全身を、新幹線並みの猛スピードで血液が駆け巡った。
いくら経営者同士とはいえ(とこちらが勝手に思っているだけだが)、繊維業界の事情も知らない人間に、そこまでキッパリ断言される筋合いは、断じてない。
まさか面接の初っ端にこんな場面が待ち受けていようとは思いもよらなかった。
――冗談じゃない、早々にケツをまくろう。
「おっしゃるとおりです。では、今回の話はなかったことに……」
怒りを封じ込めて立ち上がった。
見苦しく脂がのった贅肉に覆われ、鎖骨の在り処さえ定かではないデコルテは、テラテラ粘っこく光り、小鼻にも額にも、動物系の脂がコッテリと溜まっている。
どこからどこまでも品のない女だ。
こんな社長の下で働くなど、いくらアルバイトでもまっぴらごめんこうむる。
巣にかかった獲物を見るような眼差しで、浩一郎を観察していた女社長は、
「あのねぇ、畑中さん。宮下の名前に覚えはない?」
ネットリしたイントネーションで言い被せてきた。
自然界の悪辣の権化のような女郎蜘蛛の、黄色と黒の縞々の、ぷっくり太った腹が思い浮かぶ。肌がゾワッと粟立った。
宮下などという平凡な苗字は掃いて捨てるほどある。それがどうした。
憮然としている浩一郎に、女社長は涼しい顔で、ド直球を投げつけた。
「わたしの甥っ子がおたくに雇われていたことがあってさ。支店長までやって、おたくにはずいぶん尽くしたんだけどね、とつぜんクビを申し渡されちまってさ」
記憶の底に埋もれていた古い事件が、立体絵本のように立ち上がってくる。
――宮下楠雄。
かげ日向のない真面目な子だと信頼して支店経営を任せていたが、いつの間にか裏帳簿をつくり、自分の母親や姉にアルバイト代を支払っていたことが発覚した。
月にすれば、せいぜい5万か6万円。企業にとっては大した金額ではなかった。
だが、社長の浩一郎や専務の幸子まで、率先して事務仕事から店内の掃除までのいっさいをこなし、一向に歯止めがかからない売上減少に匹敵する支出削減を図ろうと、日々奮闘していたときがときだっただけに、裏切られた衝撃は大きかった。
「おたく、男のくせにネチネチ嫉妬深い性質なんだってね。あの子が描いた油絵が美術展に入選したことを妬み、やってもいないことをでっちあげたんですって?」
――なんだと?
そう言われれば、たしかにそんなことがあったような気もする。
だが、家族同様に思ってきた従業員の果報を共に喜びこそすれ、妬み、そのうえ解雇するなど、自分に限って絶対にあり得ない。言いがかりもいいところだった。
「わたしも経営者のハシクレだから『絵なんか描いている暇があったら商売に精を出せ』と言いたくなるおたくの気持ち、わからないでもないよ。だけどさ、それでクビというのはいくらなんでもアレだよね。当時のことだから一方的な泣き寝入りで済ませたけどさぁ、いまなら、すぐに飛んで来るよね、おっかない労基署さん」
――ちょっと待て。どこでどう間違えたら、そういうことになるんだ?
それが本当なら、10年近い歳月、濡れ衣を着せられてきたことになる。
この調子では口の軽い女社長はあちこちの経営者の集まりで、あることないことしゃべってきたにちがいない。そこへ、たまたま浩一郎の履歴書が送られて来た。
――まさに、飛んで火にいる夏の虫……。
馬鹿馬鹿しすぎて、いまさら弁解する気も起こらなかった。
無言でソファから立ち上がった浩一郎は、女社長がさらになにか言いかけるのもかまわず、ちらかった床の物を蹴散らすようにして入り口へ突進した。
ペチャンコに潰れたスリッパから足を抜き、皮靴を履いて合板の扉を押す。
赤錆だらけの鉄板を踏み鳴らして外階段を駆け降り、階下の中華料理店の換気扇から洩れ出た動物性油で靴底がネチャネチャする裏通りに降り立った。
顔のないマネキンが不自然に身体を捻っているセレクトショップの前を通り過ぎ、駅前のスクランブル交差点付近の雑踏にまぎれ込むとやっと肩の力を抜いた。
不正の発覚で自ら退職した男が、逆恨みの苦し紛れについた嘘は、事あれ好きな世間の風に乗ってこの地域中を面白おかしくひとり歩きし、知らないのは浩一郎と幸子だけだったのだろう。眩い太陽の下にどす黒い悪意がはびこっている現実が、どうしても信じられない。
信号が変わり、目の不自由な人用に『とおりゃんせ』のメロディが始まる。
通行人が思い思いの目的地へと横断歩道を渡って行く。「行きはよいよい、帰りは怖い」のパートになると、人びとは足を速める。車という凶器が安全地帯に侵入してくる前触れである、緑信号の点滅が始まらないうちに、早く、早く……。
浩一郎も足を速めながら、屈辱まみれの自分を慰めた。
――今日の面接の成果が、少なくともひとつはある。
たとえアルバイト先が見つからなくても、ならば手っ取り早く自分で起業しようなどという野心は二度と起こさないと、骨身に染みて確認できたことだ。
宮下楠雄以外にも、45年の社歴を、癖のある従業員たちが通り過ぎていった。
表沙汰にはしなかったが、経理事務員に不正を働かれたり、支店長にレジの金を誤魔化されたり、わずかな労働条件の齟齬を盾に、パート主婦の夫から執拗な脅迫を受けたり、朝一番で憤然と辞表を叩きつけられ、訳がわからず当惑していたら、じつは同業他社からの引き抜きだったり……。そして、極めつけがこれである。
資金繰り以上に心を惑わされる人事の苦労は、金輪際、二度と味わいたくない。
気づけば喉がカラカラだった。
駐車場の横にスターバックスとタリーズコーヒーが小ぎれいな店舗を並べているが、浩一郎は両店の前を素通りし、次の交差点のコンビニまで行って、値段の割に美味い100円珈琲を注文した。
現役時代は店の近所のスタバの常連だったが、一食300円以内に抑えるようにしている年金生活者に、たかが珈琲に何百円もの消費はとうていできない。
それで惨めかといえばそんなことはなく、乏しい収入内の工夫がかえって日々の生活を輝かせているから不思議である。
バブル期に贅沢の蜜を知った連中は、なかなか意識を切り替えられないと聞く。
真面目一辺倒な性分も、これで案外わるくないかもしれない。
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