第4話 浩一郎、ハローワークへ行く
かつての「職安」のイメージのまま、弱い立場の求職者が身を縮めて仕事を斡旋してもらう役所とばかり思い込んでいたが、いっさいの仕切りを取り払ったフロアには、意外にもホテルのロビー風の、明るくやわらかな雰囲気が流れていた。
オレンジ色のソファで談笑している人、奥まったスペースに並ぶパソコンで希望する職場を検索している人。人が群れている状態なので「老若男女」と呼びたいところだが、集まっている求職者はせいぜいが中年止まりで、浩一郎のような年輩者はほとんど見当たらない。迂闊にもこういう状況はまったく予想していなかった。
場違い感に気後れしながら求職カードに記入する。
次いでパソコンのスペースに行き、自分の条件に合いそうな求人先(年齢制限がないのは、数千社のうちでわずか10社足らず!)からやっと検索した3社の求人カードをプリントアウトする。それだけで早くもコテンパンに打ちのめされた。
所在なくソファに座っていると、電光掲示ボードに番号が表示された。
指定された窓口の担当者は、赤銅色に焼けた額を後退させた、初老の男だった。
印象を残さない表情や地味で目立たない物腰から、この道数十年の独特な匂い、あるいは習性のようなものが見て取れる。
「畑中さん、近ごろ新聞でお見かけしませんね」
地味な口が開口一番に言うので、面食らった。
長いこと顔写真入りのコラムを連載してきたおかげで、カフェやファミレス、スーパーなどで「あら、畑中先生」「コラム、読みましたよ」など声をかけられることが珍しくなかったが、とっくに過去のものとして整理をつけたつもりでいた。
なのに、こちらの思惑とは別に、世間ではそう簡単には忘れてくれないのだ。
厄介なのは、そのことを面倒に思う一方に、喜ぶ自分がまだいることだった。
「閉業に伴い、すべてを降板しました」
「ほう。それはまた、どうしてですか?」
「前半生に区切りをつけたかったのです」
――いよっ、日本一!
大向こうから声がかかりそうな潔さもまんざら嘘ではなかったし、守ってやれなかった店への贖罪もあるが、それはあくまでタテマエであり、だれにも覗かせない心の奥には浅ましい見栄が根を張っていることを、浩一郎自身が承知していた。
引き際を弁えず、かげで後進から老害を嘲笑されていた先輩の轍だけは踏みたくない。第一、共に闘ってきた仲間を見捨て、白旗を掲げて命乞いまでした人間が、新聞で偉そうな
社会から「お引き取りください」と引導を渡される前にいさぎよく身を引こう。
「惜しまれながら勇退」と賞賛されたいがゆえの、蚤のように臆病な虚栄心……。
いきなり素気なく雑談を打ちきった担当者は、乾いた口調で訊いて来る。
「で、今日は求職のご相談ですか?」
「過去に訣別し、新しい道に進みたいと思いまして。あの、年金でやっていかれないこともないんですが、自分で言うのもなんですがご覧のとおりまだ若いですし、ジム通いのおかげで体力も十分にありますし、もう少し老いるまで、社会のお役に立てればと……」
弁解がましく述べながら、気づけば相手の顔色をうかがっている。
提出した求職カードに目を落とした担当者がムッツリ押し黙っているので、いきおい、饒舌にならざるを得ないが、ダラダラと長いセンテンスの語尾はどうしても曖昧になる。「簡潔さが小気味いい」と評された新聞コラムの真逆をいっている。
ずらっと並んだ窓口を見わたせば、おそらくは生まれついてのパソコン世代で、地元紙など読んだこともない、したがって「コラムニスト畑中浩一郎」の顔も名前も知らないであろう若い職員が大半なのに、なぜ少数派の年輩者に割り当てられたのだろう。ひょっとして、面倒な求職者はベテランに割り振る、暗黙の申し合わせがなされているとか? つい疑心暗鬼に駆られてしまう。
「あの、一応、該当しそうな応募先を検索してみたのですが……」
沈黙の重苦しさに堪えきれず、3社のプリントアウトを出してみる。
有効求人倍率が上向いている就職状況は売り手市場と聞いているし、正社員ならともかく、たかがアルバイトだ。職種にこだわりさえしなければ、おれが働く場はいくらでもあるだろうと高を括っていたのが大誤算だった。
そのアルバイトにも、大方の企業が60から65の年齢制限を設けており、68歳の条件を辛うじてクリアできるのは、ビルの警備か交通整理、掃除くらい。時給が安いの、危険だの、汚れ仕事だのと、贅沢を言っていられる場合ではなかった。
「同時に3社に応募するのはルール違反でしょうか?」
情けないが、またしても下手に出てしまう。
「いえ、そんなことはありませんよ」
真一文字の口がやっと開いてくれた。
地黒なのか、アウトドアや週末農業焼けしたのか定かでない渋茶色の顔に、意外なほど人懐こそうな笑みが広がっている。気づかぬうちに働いた無礼を怒っているのかと思ったのは、近ごろ嵩じ気味の被害妄想の産物だったらしい。柔和な笑顔に安堵した浩一郎は、パソコン検索時からの懸念を率直に訊いてみることにした。
「あの、つかぬことをお伺いしますが、3社とも、求人カードには『年齢不問』と書かれていますが、どこの企業でも本音の部分では、少しでも年齢の若い人を採りたいのではないでしょうか?」
果たして、鬼胡桃のような皺が刻まれた頬が、ペコンと済まなそうに凹んだ。
「そう思っていただければ、当たらずといえども遠からずというところで……」
言いにくい語尾は、やはり濁したくなるものらしい。
「ええ、ええ、よくわかります。そうでしょうとも、そうでしょうとも。採る側にすれば無理もありません。少し前までわたしも逆の立場で『いい人が来るまで採らない』と威張っておりましたんで。あ、でも、財産もない零細企業にとっては人材が宝なので、人ひとり雇用するのも、商売に匹敵する真剣勝負なんですけどね」
贔屓の顧客に対するようなリップサービスを、浩一郎は言うそばから後悔した。
気の毒そうに目を逸らした担当者がボソッと呟いた。
「現役時代の伝手で、なにか仕事はないんですか?」
「伝手といっても、繊維業界は推して知るべしですし……」
オズオズ答えて驚いた。
薄赤く潤んだ糸のような係官の目に、ポチッと水滴が光っている。
条件に合う求人が皆無に等しかったことよりも、高度経済成長の終焉からバブル崩壊へ、さらに長びく低迷期へと、現代史の波に翻弄される求職者と対峙して来たベテラン職員を泣かせるほど哀れに映っている……厳粛な事実の方が衝撃だった。
追い詰められたときの、いつもの癖が顔を出す。
勝手に肉体から遊離した浩一郎の心は、特大の
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