第14話 新聞コラムの執筆復活へ
幸子に付き添われて家に帰ると、築30年の木造2階家が2割方明るく見えた。
愛情込めて育ててきた庭では、
「一陣の風」というが、ひとかたまりの群れではないことに初めて気がついた。
思いきって手術を受けて、ほんとうによかった。
浩一郎は心からの幸福を感じた。
キッチンに立つ妻の気配を背後に楽しみながら、久しぶりにパソコンを開く。
まずメールボックスを開けると、会計事務所やサーバーからの連絡、ネット通販会社のDMなどに混じり、1.5の視力を取りもどした目にまった期待していなかった名前が飛びこんできた。例のコラム担当の新聞記者だった。
*
すっかりご無沙汰しておりまして申し訳ありません。
実は、仕事中に脳梗塞で倒れ、緊急手術を受けて入院しておりました。
職場の仲間の適切な処置や医療スタッフのおかげで、このたび無事に生還(笑)を果たしましたことを、まことに遅ればせながらご報告させていただきます。
ご送信賜りましたメールのご返信が遅れたご無礼を、どうかお許しください。
思えばこれまでのわたしは、夜討ち朝駆けが当たり前の業界にひそかに蔓延する職業病の源泉ともいえそうな無謀な生活を見直す機会もその意思もなく、いたずらに歳を重ねてまいりました。このたびの病気を天啓(天罰)と受け留め、残りの人生は天からの授かりものとして、新たな気持ちで精進してまいりたく存じますので、今後ともご指導ご鞭撻のほどを、何卒よろしくお願い申し上げます。
ところで、青黴が生えそうな退屈を持て余し(汗)、入院中に考えておいた企画を昨日の編集会議に諮りましたところ「ゴー!」が出ました。なかでも全編集部員のイチオシが、畑中浩一郎先生の新連載『手編み男子』(仮称)でございます。
私見ですが、16年間にわたりご連載いただきました『ピース・オブ・クロス』の「布」とは視点を変え、新たなテーマを「糸」とされては如何かと存じます。
不器用なわたしの目から見れば、精緻な指先マジックとしか思えない極めて高度な技術を駆使して、1本の糸を、編み物という作品に仕上げていく過程は、国籍、人種、言葉、文化の壁を越え、世界共通の普遍的な営みと考えます。
贈る人の肌を温め、ときには心の傷まで癒すことをひそかに念じながら、ひと針ひと針に籠める想いには、デジタルにはとうてい及ばない価値があると思います。門外漢が生意気を申すようですが、編み物は、ことに手編み作品は、編み手の魂魄そのものであると……。
ご専門のお立場から、汲めども尽きぬ糸の泉を深く掘り下げていただき、従前どおり、いえ、失礼ながら、このたびの転変によってより磨きをかけられたであろう可笑しくて少し哀しい「畑中ワールド」を存分に展開していただきたく存じます。
いまさらですが、畑中先生のお書きになるコラムには熱心な読者がついておられます。そういうことが苦手でいらっしゃるので、敢えて「たくさんの」とは申し上げませんが(笑)、100人近い弊社の執筆陣のうちでも、取材先で話題にのぼるのは決まって畑中先生の文章でした。
閉業に伴い『ピース・オブ・クロス』にもピリオドを打たれたとき、読者の投稿欄『今日のツイート』に1日も早い復活を期待する声が寄せられました。言わせていただければ、畑中先生には、江湖の声にお応えになる責任がおありと存じます。
解散の後処理も一段落された頃かとご拝察申し上げ、勝手にわたしの一存で進めさせていただきましたが、どうかご無理のない程度に、けれども、多少のご無理はしていただきまして(笑)、ぜひともご快諾をお待ち申し上げております。
*
息を詰めるように読み終えた浩一郎は、自分の瞼が濡れているのに気づいた。
なんと温かな心遣いに満ちたメールだろう。
非人情を疑った自分の浅慮が恥ずかしい。
せっかくの厚意にはきちんと応えねばならないが、格好をつけた言い方をすれば筆を折って久しい自分に、果たして、読者のメガネに適う文章が書けるだろうか。
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