第13話 白内障の手術を受ける





 

 1週間後、浩一郎は眼科医院の病室に横たわっていた。

 白内障と診断され、思いきって両眼同時手術を受けた。


 執刀した医師からは日帰りでもいいと言われたが、大事を取って1泊入院としたのは、急を聞いて娘の百合香宅から駆けつけて来た妻の幸子の強い要望だった。


「なぜもっと早く言ってくれなかったの? 生活だって不自由していたでしょう」

 責め口調に滲む温かいものに、内心で熟年離婚を恐れていた浩一郎は、ホッと胸を撫でおろした。


 娘と孫、となりの市に住む姉の見舞いは、簡単な手術だからと言って断った。

 娘と孫はともかく、むかしからズケズケものを言うのが苦手な姉に来られたら、快くなるものも後退するだろう。


 閉業騒動の渦中で苦しんでいるときも、陣中見舞いと称して押しかけてき来て、

「あんた、社長なんて呼ばれて、いままで結構いい思いをしてきたんじゃないの? 専務の幸子さんだって……。言っちゃあなんだけ、罰が当たったんだと思うよ」

 所帯やつれした老け頬に、底意地のわるい嘲笑を浮かべた。


 まあ、それも無理がないと言えば言えるかもしれない。

 社名入りのハイエースに饅頭や絵葉書、置き物などを積んで、観光地の土産品店をまわる営業マンだった義兄がご多分に漏れずバブル崩壊でリストラされたとき、「はたなか布店」に入れてくれと頼まれたが、浩一郎はよく考えた末に断った。


 真面目一辺倒な浩一郎とは反対に、言動や服装の端々に、どこかルーズで崩れたところがある義兄との衝突が、早晩、懸念されたからだったが、困ったときに身内が助けてくれるのは当たり前と思っている姉はいまもそのことを根に持っていて、ことあるごとに弟夫婦の非人情を責め立てて来る。


 たったひとりの肉親から受ける心ない仕打ちへの鬱憤晴らしに、連載していたコラムにさりげなく皮肉を織り込むこともあったが、口から先に生まれて来たような姉は、幸か不幸か新聞を読む習慣を持たないので、一度もバレずに済んでいた。


 薬くさいベッドに横たわり、飲み物にリンゴにと甲斐甲斐しく気を配ってくれる妻の看病を受けていると、あらためて68歳という年齢が身に迫る思いだった。


 ジム通いの成果で体力には自信があると思い上がっていたが、使い込んだマシンだって金属疲労は誤魔化せない。目や耳には、やはり老いの神が宿っていたのだ。


 まぎれもない老人がひとり、ここにいる。

 認めたくない事実を、浩一郎はようやく受け入れる気持ちになっていた。

 リンゴの1片を齧ったとき、枕元のラジオからリスナーの声が流れて来た。


 ――わたしは間もなく70歳になる老人ですが、3年ほど前から新聞配達をしています。早朝の空気の清々しさや、東の山から太陽が顔を出す瞬間は、なにものにも代えがたい喜びです。それに、たとえ100戸でも、わたしが配達する新聞を待っていてくれる人たちがいる。その張り合いが生き甲斐になっているのです。


 浩一郎はかたわらの幸子の顔を見た。


 ――それもいいかもしれないよね。


 糟糠の目が柔和な同意を示していた。

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