第12話 リバーシブルの巾着袋

  





 カップ麺を食べたあと、久しぶりに裁縫箱を取り出した。


 蓋は真紅の縮緬で、ピンクとオレンジの椿の花と図案化した葉が描かれている。

 娘の百合香が家庭科の授業で購入したものだが、日の入らない奥まった場所にしまってあるので、あれから4半世紀も経たとは思えないほど真新しいままだった。


 読書や映画鑑賞もわるくないが、嵐の森のように心がざわめく日は、布に触れているに限る。木綿や絹、ガーゼなどの繊維の素朴でやわらかな感触が指先から全身の細胞に伝播し、ささくれ立った気持ちを穏やかに慰めてくれるのだ。


 グレーに近い薄縹色の無地のコットン生地と、黄檗色の地に常磐緑色のボタニカル模様を描いた綿麻地を合わせて、リバーシブルの巾着袋をつくるつもりだった。


 閉店時、処分せず残しておいた端切れには、リネン、ハンプ、ニット、サテン、メッシュ、キルティング、デニム、コーデュロイなどの種類が揃っている。


 模様も、チェック、ドット、ストライプ、花、アニマル、コスミック(宇宙)、マーブル(大理石)、オプティカル(幾何学)、ボヘミアン(遊牧民の民族衣装風)、ノルディック(雪の結晶やトナカイ、樅の木)、唐草、迷彩柄など、色とりどりに。


 ほかに、桜、松、竹、梅、菊、紅葉、扇、千鳥、流水、雲、霞、青海波、麻の葉、亀甲、毘沙門亀甲、七宝、籠目、矢絣、鹿の子、市松などの日本伝統の柄も、ひととおり揃えてあった。


 その中から、ときどきの心情のままの布を選んで、バッグやランチョンマット、ブックカバー、栞などの小物をつくるのが、手編みと並ぶ浩一郎の楽しみだった。


 テレビもラジオも点けず、しんと静まり返った部屋でひたすらチクチクと指先を動かしていると、まとまらなかった考えが自然にひとつに収斂してくるところは、執筆の自浄作用に似ているように思う。


 そうしながらも。

 どうしても気になってならないのは連絡が絶えたままの新聞記者のことだった。


 プライベートまで打ち明けるようになった長年の交流につい気を許し、


 ――閉業へのせめてもの償いとして再就職先を斡旋し、退職金も再出発への餞の気持ちを込め、一般相場よりひとケタ上の額を支給したつもりなのですが、大方の従業員からは梨の礫なのが、養い親のつもりでいた身には少しばかり寂しいです。


 うっかり愚痴をこぼしたのが、あるいは気に障ったのかもしれない。

 理解し合っていたつもりでも、所詮、彼も新聞社の従業員なのだから。


 事情はどうあれ、従業員にとって経営者は絶対的な権威者である以上、すべての責めを甘んじて受けるべきなのだ。いまさらだが労働組合の専従をしていた時代があると語っていたことが思い出され、自分の軽率さ加減にホゾを噛む思いだった。



 グレーの無地に同色の糸を使ったから、縫い目が見えにくいのだろうと思っていたが、仕上げのアクセントとして臙脂の糸を用いようとしたとき、これは? 異変に気づいた。快晴の昼間の窓際で手許が暗いとは、どうしたって尋常ではない。


 縫いかけの布を膝に乗せた浩一郎は事実を受け入れる自分をじっと待っていた。


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