第10話 スポーツジムのライバル
帰路、気分転換に「R3Nフィットネス」へ寄った。
平日の午後3時という中途半端な時間帯なのに、意外に大勢の老若男女が思い思いのウェアで歩いたり走ったり、伸びたり縮んだりせっせと身体を動かしている。
――まったく結構なご身分だ。世間は生産活動の真っ最中だというのに。
浩一郎自身が言われそうなことに、胸の中で逸早く先手を打っておいた。
閉業後、フリーパスで利用できる正会員から1ランク安い平日会員に切り替えたとき、贅肉ひとつないスリムなボディラインに疲労の翳を滲ませた中年のインストラクターに、「いいですねえ、悠々自適で」半分以上、本気の口調でうらやましがられたことがある。
ありがちな社交辞令として聞き流しておけばいいものを、
「見損なってもらっては困るよ。毎日、閉業の後始末に苦労しているんだ」
ムキになって否定したのは、まことに大人げなかった。
面倒を避ける接客業の習癖で、即座に詫びてくれた目を瞬時よぎった、哀れみとも侮蔑ともつかない揺らぎを思い返すたび、いまでも尻のあたりがムズムズする。
主婦ならばともかく、ウィークデーにスポーツジムへ通う男には、自分を支えるプライドや言い訳が必要だ。
実際、「現役引退から間もない族」に特有のツッパリを、あの背中にもこの背中にも容易に見つけることができる。
現役時代には相応の役職にあったこのオレさまは、特別な存在なのだと、有名なスポーツ用品メーカーのロゴ入りのウェアが、それぞれ声高に主張している。
そういう輩に限って専門家の指導を拒否し、我流トレーニングでアキレス腱を傷めたり、脳梗塞や動脈瘤など血管系の症状で倒れ、救急車を呼ばれたりするのだ。
そこへ行くと「創業会員」の証しであるゴールドカード保持者のオレはちがう。
なにしろ、オープン前の予約申し込みは、トップから3番目だったし、ジョーク混じりにMっ気を問われるほど「注意されるの大好き」人間ときている。
そのうえ、筋トレを初め、スタジオレッスンのエアロ、ヒップホップ、ラテン、ズンバ、ベリーダンス、太極拳、ヨガ……ひととおりのジャンルを難なくこなし、なかでもムエタイは、全日本アマチュアの元チャンピオンだったインストラクターのお墨付きときているから、ジム内のトレーナーたちの評価も相当に高いはずだ。
昨日や今日入会したビギナーとは比較にもならないキャリアのオーラを全身から発した浩一郎が、マシンの王者たるスミスマシンにいましも仰向けになったとき、
「よう!」
男の目から見ても惚れぼれするような渋いナイスガイに真上から見下ろされた。
気障な口髭をたくわえた野々宮裕也である。
「お天道さまはまだ高いところに鎮座ましましていらっしゃるんだぜ。世の労働者諸君は身を粉にして働いている時間に遊び人風情がこんなところに寝っ転がって、余裕のベンチプレス三昧ってか。おまえ、よほどの暇人と見えるな」
さっきの屈辱のいまである。
浩一郎はカッとなった。
「お互いさまだろう。ってか、おまえの方がよっぽど暇歴は長いだろうが」
「それがどうした。オレはきっちり定年まで勤めあげてだな、可愛い後輩たちに『野々宮先輩、お疲れさまでした』と花束で送ってもらい、天下晴れて、天晴れな無罪放免だよ。てめえのせいで店を潰し、苦労を担ってくれた従業員をほっぽり出した無責任野郎なんかと一緒くたにされたらたまったもんじゃあねえよ」
「なにを! 気楽なサラリーマンなんかに、商売のなにがわかるってんだ」
全身を忿怒に射抜かれた浩一郎は、場所柄も弁えずウォーッとばかりに吠えた。
「朝晩、とりあえずタイムカードさえ押しておけば、適当に遊んでいても給料をもらえるやつと、その給料をてめえの力で稼ぎ出し、毎月決まった日に支給してやらねばならない者とではなあ、やっている仕事の質がちがうんだよ、質が」
仕事を人間と言い換えたかったが、さすがに思い留まった。
「なんだと? おい、サラリーマンを舐めんなよ。ガリガリ亡者の悪徳社長が!」
「なにを! このオレのどこが悪徳だ。この機に乗じた言いがかりは許さんぞ!」
裕也の分も自分の分も、仰向けの顔に、大量のツバが雨霰と降りかかってくる。
これは堪らん。
不利な体勢を変えようとして、引っくり返された昆虫さながら脚をバタつかせて足掻いているところへ、苦労人の山田チーフトレーナーが駆けつけて来た。
かたわらに立っている夏川モナミは、相変わらず超ド級の露出度である。
――おい、なんとかならんのか? その格好。
思わず口走りかけたが(いやいや、自分の女でもあるまいし)と思い直した。
(それこそ余計なお世話というものだろうよ)可笑しくなったら、いかなる心理の綾か、にわかに冷静になった。
だれにともなく、「すまんすまん」と詫びながら、腹筋を遣って仰向けの上体を起こし、マシンの外へ出ようとしたとき、スニーカーの先がどこかに引っかかったものと見える。次の瞬間、ズングリムックリの浩一郎の肉体は、派手な音を立てて床に転がっていた。
弾みで横のウェイトが崩れ、取り巻いていた人垣から悲鳴があがった。
怪我人は出なかったが、一歩間違えれば大惨事になりかねないところだった。
「おいおい、どこに目をつけてんだよ。日頃のトレーニングが形無しじゃねえか」
周囲の批難の視線を交わそうと、裕也が面白くもないジョークで取り成してくれたが、しこたま腰を打った浩一郎に気の利いたレスポンスは返せそうもなかった。
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