第7話 メインバンクの小娘行員
翌朝、銀行へ出かけて行った。
まだなにがあるかわからないという会計事務所の指導で、「はたなか布店」名義の口座を残しておいたが、再就職を機に、前職関連はきれいにしておきたかった。
半年ぶりの南部支店は、午前9時の開店早々から活気に満ちていた。
いやに年配者が多いと思ったら2か月に一度の年金支給日で、機械や書類に不慣れな高齢者のために、若い男女の行員がフロントの案内係として配置されている。
自動発券機で「法人」を選択すると間髪を入れず指定番号がアナウンスされた。
番号案内に従い奥まった法人窓口に進むと、初見の若い女性行員が待っていた。
古い時代の女優のように、ツンと冷たく整ってはいるが愛想の欠片もなさそうな顔で、しかも棒立ちのまま「で、ご用件は?」と来た。まるで切り口上である。
半世紀の付き合いがあるメインバンクでこんな非礼な扱いを受けた記憶がない。
現役時代には、一般の窓口に出向いただけで、営業担当者がすっ飛んで来てくれたし、取引額によっては、最奥の席から支店長まで丁寧な挨拶に出て来てくれた。
――なのに、なんなんだ、この無礼な対応は!
化粧崩れひとつないノッペリ顔から視線を逸らせると、支店長席と思しきあたりにも営業担当者席にも知らない顔が並んでおり、下を向いてそれぞれの仕事に没頭している。
「支店長さん、変わったんかね?」
勝手に口から言葉がこぼれ出た。
「はぁ? 支店長ですか。今日は東京へ出張していますけど」
それがどうした? と言わんばかりの小娘行員氏に、仕方なく用件を告げる。
「長いことお世話になった『はたなか布店』だがね、ようやく閉業処理が終わったんで、口座を解約したいんだが……」
果たして、迷惑げに眉根を寄せた小娘行員氏、奥の席に何事か囁きに行く。
しばらくすると、少し年上の女性行員が一緒に出て来て、
「ご解約ということですが、今後、口座から引き落とされるものはないですか? 解約の手続きをされてしまって、ほんとうに大丈夫なんですよね? もしそういうことがあると、当行が困るんですけど……」
経済に無知な個人客の非常識を咎めるように、しつこいほど念を押してくる。
――ここ何か月もまったく動きがないことは、通帳を見れば明らかだろうがっ!
怒鳴りつけたいのをグッとこらえた浩一郎は、最小限の深度で顎を上下させた。
かつては役職についている同級生がなにかと融通をきかせてくれたが、とっくに定年退職しているので、いまや頼りになる行員はひとりもいない。
ヒューヒューと風の吹き渡る荒野にポツンとひとり、裸で立たされているようなうそ寒い現実が、ことさら骨身に堪える。
いつだったか、同級生のひとりから聞かされた嘆きがよみがえる。
「何年か他支店に勤務してもどってみると、見たこともない若いやつらが平気で『ご本人確認のため免許証をお見せください』と来やがるんだぜ。オレたちの若いころは、先輩は下にも置かなかったもんだが、いまどきのやつらときたら……」
自行の支店長クラスにもその態度なんだから、看板を下ろした名もない零細企業の元社長が粗大ゴミ並みに扱われても当然か……。無理に自分を納得させる。
個人とちがって法人の解約は簡単にはいかないらしく、あくまでも頭の高い小娘行員氏、さんざん時間をかけて揃えてきた7、8枚の書類を示しながら女王のように傲然とノタマウ。「こことこことここへ署名し、社判を捺印してください」。
――ください、ねえ。父親のような歳のオッサンに命令口調かよ。
悪気はないのだろうが、形のいい唇から発せられる言葉のイチイチが癪に障る。
鋏を多用する職業病の慢性腱鞘炎で、小学生のような字しか書けないのもまた、よりによって超多忙な年金支給日の朝一番の混雑時にノコノコ解約なんぞに出かけて来やがった小汚い老人をチクチク
うっかり押印がズレたときは、
「チッ!」
舌打ちまで聞こえて来そうだった。
しばし、そこで待て。
さっきのお返しのように顎の先で示された椅子に控えているが、待てど暮らせど呼び出しがかからない。スマホにも、持参した文庫本にもまったく集中できない。
――おのれ、わざと待たせているのか!
怒りが頂点に達するころ、やっと呼ばれた。
だが、ついでに、昨日郵送されて来た固定資産税の口座振替を、分割から一括に変更するように依頼したのが、沸点の低い小娘行員氏をいっそう刺激したらしい。
――そういうことは、一度に言ってください!
黒すぎて虹彩が読めない目玉が、宿敵を睨みつける闘鶏のように尖っている。
――なに、知ったことか。二度とおまえさんの世話にはならんのだからな。
開き直った浩一郎が、敢えて悠然と書類に記入していると、
「提出はしておきますけど、実行は何か月先になるかわかりませんよ」
あろうことか、最後の最後に、底意地の悪い駄目出しが降ってきた。
――なんだと? こっちは事前に市役所の税務課に電話して、来月末には実行の確認を取ってあるんだ。たかが窓口の銀行員がどの口で戯言を言う。その分では、となりの個人の窓口で列をつくっている年金受給者にも、ふだんから小馬鹿にした態度で接しているんだろう。年寄りを騙すオレオレ詐欺にも匹敵する性悪女め!
カッとなりかけた気持ちを、すんでのところで押しとどめ、
「ほう、そういうものですかねぇ」シレッと言っておいた。
最低限の挨拶で席を立つと、不当な辱めを張りつけた肩を怒らせ、大股で外へ。
透明な初夏の光が、秋には黄金に変わる街路樹の銀杏の若葉を煌めかせている。
一瞬、その清々しさに打たれはしたが、だからといって、おおらかな自然に比べて塵のようにちっぽけな自分の気持ちを、殊勝に反省などさせるわけがなかった。
――しょんべん臭い小娘め、いまのうちに、せいぜいわが世の春を謳っておくがいい。いずれおまえも同じ道をたどるのだ。心根の腐った女が歳を重ねると二目と見られぬ悪相になること、周囲の事例が証明しておるわ。あとで悔いても遅いわ。
経営者でなくなってから、日常的な場面で不当な扱いを受けるようになった。
勧められるまま、毎回、高価なヘッドスパを施してもらっていた理容院で、
「わりいね。年金生活者になったもんで、これからは贅沢できないんだわ」
前夜から練っておいた冗談口調で断ったとたんに接客が粗雑になった。
一度などは、前の客の毛髪が大量に付着したままのケープを掛けられたことまであり、いくら店主が留守中とはいえ、常連客にこの仕打ちはないだろうと悔しさを噛み締めたものである。
ほかにも、車の修理を依頼した自動車ディーラーの支店長、季節ごとにキャンペーンの折込チラシを発注していた印刷会社の営業担当者、そして、例のパッタリと連絡が途絶えた新聞コラムの担当記者……。
よくまあここまで、と感心するほどの非人情を相次いで見せつけられる一方、まったく変わらない態度で接してくれる人たちも少数ながら存在した。その筆頭が半年に一度の定期検診で40年来のお世話になっている同年輩の歯科医師だった。
「お忙しいところをお待たせしてすみません。畑中さんは人前に立たれるお立場の方ですから、今回の検診でもホワイトニングできれいに仕上げておきましょうね」
気のせいか、いつもに増してやさしく声をかけてもらったときは、うっかり涙ぐみそうになった。
社会保険から国民健康保険に切り替わったことは、カルテを見れば一目瞭然だ。
その前に、浩一郎の新聞コラムの熱心な読者でいてくださった先生は、講演依頼も断ったこれからは、人前で話す機会などなくなったことを、よくご存知のはず。
なのに、患者負担額1,000円にも満たない廉価なホワイトニングを従前どおり丁寧に施してくださるという。この高潔、この誠意に打たれずにいられようか。
閉めきっておいた車中は、ムッとするほど高温になっていた。
閉業時、3ナンバーの社長車から、身の丈に合った軽自動車に乗り替えた。
軽の運転席に初めて座ったときに感じた一種の敗北感と、逆に、本来の器なりの収まるべきところにおさまった安堵感とのせめぎ合いが、ほろ苦く思い出される。
いまは大切な相棒となったNボックスのエンジンを労わるようにしてかけた。
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