第2話 「はたなか布店」閉業の顛末





 

 創業45年を迎える「はたなか布店」の閉業を決めたのは昨秋のことだった。


 同時に、商工会議所の機関誌に掲載したエッセイで文才を認められ、4半世紀に渡って連載してきた地元2紙のコラム『ハギレ物語』『ピース・オブ・クロス』、それに伴う講演依頼、地元テレビ局の番組審議委員、行政の名誉職などもいっさい降板し、借金もないが預金もない、つましい年金生活に入った。


 高校卒業後、上京して就職したのが、繊維のまち日暮里の中堅の布問屋だった。

 真面目に勤めあげ、ひととおりの知識を身に着けたときに父親が亡くなった。


 婚約していた姉が嫁げばひとり暮らしになる母親のために帰郷し、小さいながらも自分の店を持ったのが23歳のとき。見合いで近郷の農家から幸子を妻に迎え、ほどなくして母親も他界した。生まれ変りのようにひとり娘の百合香が誕生した。


 働き者の幸子と二人三脚で切り盛りした「はたなか布店」は繁盛し、市内外に3か所の支店を出すまでになったが、家族の衣類を縫うのは主婦の役目だった時代が去り、量産の既製品が幅を利かせる時代に入ると、経営は急激にに苦しくなった。


 あの手この手の経営努力も間に合わず、やむなく支店を閉鎖し、本店の支出も極限まで削減して家族経営でやっていく道を模索したが、経済の常識を根底から覆す「百均」に象徴される安売り時代の到来には、ついに抗することが適わなかった。


 なにしろ、決して廉価ではない材料を購入したうえ、相当な労力と技術を要する裁縫や手編みの方が、手軽に買える量産品よりはるかに高くついてしまうのだ。

 いまどき優雅な手作りを楽しめるのは、生活にゆとりがある金持ちマダムだけという皮肉な状況が出現した。


 そんな時代なんだから仕方がない。斜陽産業にさっさと見切りをつけた同業他社は難破船から逃げ出す鼠のようにバタバタと店を閉じ、とっくの昔に商売替えをしている。最盛期には10数軒あった市内の手芸店の最後になったうちなんか、まだがんばった方だろう。浩一郎は思い出したように自分に言い訳してみる。


 だが、実際は、最後まで灯を守ったからといって、どうということはなかった。

 繊維業界以外に生きる道を知らず、タイムリーな転身に乗り遅れたというだけ。


 一応老舗の「はたなか布店」の閉業時に地元のマスコミが報じてくれた「惜しまれつつ勇退」の美談は、おのれの非力を知る浩一郎にとって面映ゆいだけだった。


 ゼロから生み育てた店への愛着は人一倍だったが、最後はセンチメンタルな感情など入り込む余地がないほど窮地に追い込まれた。


 このままいけば遠くない将来の倒産は避けられない。それを覚悟でイチかバチかの奮闘をつづけるか、それとも潔く幕を引くか、究極の二者択一を迫られた。


「御社は負債ゼロの強みがありますから、社長がその気になれば、それこそ引く手数多ですよ。そう言ってはなんですが、いまどきのベンチャー企業の若手経営者の感覚は、われわれの世代には見当もつきません。彼らに言わせれば、どんな商品でもネット通販やら国外販売やら、いくらでも売れ筋の秘策があるようなんですよ」


 メインバンクからは何度もM&A(他企業への身売り)を勧められた。

 だが、この期に及んでなんだが、わが子も同然の店を、経営哲学も判然としない新興企業に、自分の身の保全と引き換えに売るような真似だけはしたくなかった。


 年金の受給年齢に入っていることも浩一郎の決断に拍車をかけ、清水の舞台から飛び降りる覚悟で閉業を決めた。同時にすべての社外活動にもケリをつけたのは、守ってやれなかった店への贖罪の気持ちからだった……ということにしておこう。

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