手編み男子――ビフォーアフターの風景

上月くるを

第1話 プロローグ





 

 ランニングマシンのスイッチを入れたとき、なんとなく予感がしたのだ。

 首をめぐらせてみると、果たして。


 階段の下から大人可愛い系のボブヘアが現われた。

 次いで、中国は敦煌とんこう莫高窟ばっこうくつの仏さまを思わせる菩薩顔、他の男の目には曝したくない剥き出しの肩、熟した果実のようにミッシリと実が入った胸、逆に、キュッと小気味よく引き締まったウェストが順に姿を見せると、68歳の畑中浩一郎の胸は、年甲斐もなくドキンと脈打った。


 ――マドンナ登場!


 ミルク色の肌を引き立てる、パステルカラーの幾何学オプティカル模様のレオタード。

 ムッチリした股の襞に惜しげもなく食い込む、純白のショートパンツ。

 長い脚が前へ運ばれるたび、スリムな全身からキラキラの星屑がこぼれ落ちる。

 

 ――ああ、あのフロアになりたい。

   木目になって、マリンブルーのスニーカーで思いきり踏んづけられたい。


 「R3Nフィットネス」に在籍する千数百人の女性メンバー全員が束になっても及ばない超ド級のフェロモンに、そこだけは若いままの浩一郎の交感神経が素直に官能……もとい感応したらしく、走ってもいないのにアドレナリンが全開になる。 

 ――盛りのついた雄犬状態になってはいないか。


 身体のパーツの反応を気にしながらランニングマシンを離れた浩一郎は、ポットに給水器の水を補給するついでを装い、ブラブラとマドンナに近づいて行った。


「いよっ、久しぶり」

「あら、やだ。昨日もお会いしませんでしたっけ?」

「そうだった? いかんなあ、物忘れが激しくて。やっぱあ歳かねぇ」


 他愛もない会話に、ますます胸が弾む。

 デレデレとヤニさがっていないか、チラリと横目で確認する。

 どこからどの角度で、だれに見られているかわからないのが、四方八方鏡だらけのジムの功罪である。


 年齢不詳の美魔女&ちょいワルオヤジ、これぞ超似合いのカップル!

 大いに自画自賛したいところだが、どっこい現実はそれほど甘くない。

 絵に描いたような美女と野獣、というより凡夫中の凡夫の一対、恋の相手の格差は残酷なまでに明らかだった。


 いまさらながらガックリ来ているところへ、

「お待たせぇ! って、あれぇ、オレを待っていてくれたんじゃないの?」

 無遠慮な訛声だみごえの持ち主は、この場にもっとも登場してほしくないやつだった。


 貧しい幼少期を送った団塊男子にありがちなズングリムックリに対し、サーカスのブランコ乗りのような細マッチョ。印象の薄い目鼻がチマチマと点在する典型的なジャガイモ顔に対し、警察の裏組織で活躍するドラマの主人公のようにあま~い翳のある超イケメン。浩一郎とはことごとく対照的な野々宮裕也である。


「そうよ」

「まさか」

 マドンナこと夏川モナミと浩一郎は、ほぼ同時に真逆の返答をした。


「なんだ、どっちだよ」

 ヘラで削いだような頬を皮肉っぽく凹ませた裕也は、見詰められたら、たいていの女はイチコロになりそうな眸を揺らめかせて、ふたりの顔を交互に見やった。


「裕也さん、そろそろ現われるころかなって、思ってたところ」

「だからぁ、なんでおまえを待っていなきゃなんねえっつうの」

 再び同時に別のことを口にする。


 浩一郎が気色ばんだところへ、苦労人のチーフトレーナーの山田くんが、

「みなさん、仲がよくてよろしいですね。いわゆるジム友ってやつですか?」

 いずれ劣らぬ個性的な会員に鍛えあげられた接客術で巧みに割って入ってくれたので、虫の居どころが悪かった浩一郎は、本気で癇癪玉を爆発させずに済んだ。


 ことごとく秘密主義の裕也は知らないが、少なくとも浩一郎に限っては、モナミと付き合った経験はおろか、お茶を飲んだことも食事をしたこともないのだから、三角関係と位置づけるのが滑稽なほど幼稚な鍔迫り合いである。


「あっ、いけない、エアロビクスのレッスンが始まっちゃう」

 モナミがスタジオのガラスドアに吸いこまれると、手持ち無沙汰になった男子は蟹とキリギリスのような肩を並べ、ぎこちなくマシンフロアへと歩いて行った。


「なにをイラついているんだよ」

 背筋鍛練用ラットプルダウンのバーにぶら下がった裕也が、正面を向いたままで訊いて来たので、となりで臀部と太腿、腸腰筋を同時に鍛えるマルチヒップの負荷を調整していた浩一郎もまた、下を向いたまま、ムゴムゴと答えることになった。


「わりい。ちょっといろいろあってさ」

「ふうん……。あれだな、ターニングポイントっていうの? 街道にたとえれば、まさに追分に立っているんだよな、いまのおまえは。まあ、焦らないことだな」


 説教じみた物言いに反発を覚えた浩一郎は、右の太腿に乗せた普段の倍の負荷を力任せに跳ね上げた。マンツーマン指導を売りにしているトレーナーに目撃されたら、「トレーニングは回数ではありませんから。負荷をかけている時間こそが重要なのです」即座に駄目出しを食らうだろうが、いまはそれどころではなかった。


「なんかこうさぁ、ここんところがザワザワして収まりがつかないんだよなぁ」

 打ち明ける気はなかったのに、なぜか勝手に口が動いている。

 マシンを操りながら片手を胸に当てた浩一郎をチラッと見やった裕也は、なにか言いたそうにしたが呑み込んだ。


「おまえの言いたいことはわかってるよ」

「まあな。人間、何事も経験だからな」

「ザマアミロと言いたいんだろ?」

「さあな。そこまで意地悪くはないつもりだが……」


 どこまでが本気かわからないが、とりあえず裕也の口調に、辛辣な棘は含まれていないようだ。

「喪失感っていうの? いままでのオレを支えていたものがゴソッと一気に消え、気づいたら素っ裸になっていてさ、もう身体中が寒いのなんのって」


 小学校から高校までの同級生。地味で野暮で、真面目なだけが取り柄の自分とは対照的に、チャラチャラと面白おかしい半生を歩んで来たであろうこんなやつに、ここまでの本心を吐露しようとは、自分で自分の気が知れない。


 だが、沈殿した鬱屈を、だれかに聞いてもらわずにはいられなかったのだろう。

 浩一郎はまたしてもいい歳をしたオッサンとは思えない泣き言を口走っていた。


「昨日、誕生日だったんだよ。なのに、ジムから帰ったら女房のやつ、飯の支度もせず娘のところへトンズラしていやがったんだ。だれだって、どんな境遇にあったって、この世に生まれた日を祝福してほしい。それがそんなに贅沢な望みか?」


 答える代わりに裕也は、「ムフッ!」と無言の気合いを入れ、背筋マシンのバーを一気に肩甲骨の下まで引き下げた。

 これまたトレーナーに見つかったらアウトだが、それどころではないのだろう。

 なんだかんだ言っても、以心伝心、互いの傷みを共有するのがジム友である。


 窓から見下ろす花壇では、初夏の陽光を燦々と浴びた薄紅色と白のハナミズキ(花言葉は「華やかな恋」「わたしの思いを受けて」)がいまを盛りと咲き誇り、一般道から駐車場に至るアプローチでは、両側のライラックが紫と白の花(同じく「思い出」「友情」)を凛然と清らかに咲かせている。

 

 1年でもっとも美しい季節が始まろうとしていた。


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