第四回 喪を発せずして楊素は権を弄び、三たび位を正して阿摩は登極す

そうはっせずして楊素ようそけんもてあそび、

三たびくらいを正して阿摩あま登極とうきょく





文帝ぶんていが病の床に就くより、百官は参内さんだいすると文帝の安否を問うのが通例となっておりました。


そこに文帝の詔があり、楊素ようそは急ぎ寝宮に向かいます。


大興殿たいこうでんの前を通ると、皇太子が待ち受けておりました。


「陛下は病が重く混乱されていよう。我が身に変事があらば如何いかがすべきか」


殿下でんかはすでに皇太子の身、今さらどのような変事がございましょうや」


賢卿けんけいが我の即位を動かぬものとしてくれるならば、その恩を生涯忘れるまい」


老臣ろうしんに一計がございます。ご心配召されるな」


そう言うと、楊素は寝宮に入りました。





病身の上に怒りを発した文帝の顔色は悪く危篤きとくかと見えましたが、楊素を見ると叫びます。


「卿は我が大事を誤ったぞ」


「陛下はお加減がよろしくございません。お気を平らかに。老臣が何を誤ったとおっしゃられますか」


「卿と皇后はちん楊勇ようゆうを廃してかの畜生を皇太子とするよう勧めたが、今朝がたに宣華せんかに手を出そうとしおった。あの畜生めでは天下を治められぬ。朕の病は重く、再びえることはあるまい。卿は朕の腹心、朕の死後は必ず楊勇を帝位にけよ。さすれば、朕は黄泉よみに下っても卿の忠心をよみするであろう」

▼「黄泉」は原文では「九泉」としますが、同じく「死後の世界」の意です。


「皇太子は国のもといであり、軽々しく替えられません。臣はこの詔をお受けいたしかねます」


楊素が拒むと、文帝は怒って言いつのります。


「この老賊ろうぞくめが、朕の詔を拒むというのか。朕は死後に鬼神となってもこのあだを捨ておかぬぞ」

▼老賊は年長男性への罵倒語、「クソジジイ」くらいの意味です。


かつての文帝であれば無言で楊素を退けたところですが、病の身では如何いかんともできません。


「早く楊勇を呼べ、早く」


文帝が切れ切れに命じても、それを聞く者はありません。


文帝の余命がいくばくもないと知った楊素は寝宮を厳に人払いすると、自らも外に出たのでございました。





今や新皇帝を定める権柄けんぺいは楊素の手にあります。


楊素は病身の文帝を顧みることなく、寝宮を出ると聞えよがしにひとちました。


「さて、皇帝の位は誰のものとなるか」


当然、寝宮の脇には心配でならぬ皇太子が隠れておりました。楊素の言葉を聞くと、驚き慌てて声をかけます。


「賢卿には苦労ばかりかけておるが、事態は如何いかがか」


「若君はしくじられましたな。我には関わりのないことです」


楊素は先ほどとは打って変わった冷然れいぜんたる目で皇太子を見ると、殿下とたっとばず老臣とへりくだらず、突き放して立ち去ろうといたします。


皇太子としては楊素を行かせるわけに参りません。その前をさえぎって食い下がります。


「この楊廣ようこうは賢卿の力で今日の地位を得た。今になって見捨てられてはこれまでの苦労が水の泡になる。頼むから我を見捨てるな」


「我が若君のために骨を折ってようやく皇太子の位を得られたというに、事を誤られるとは。先ほど詔があって兄上(楊勇)をお召しになられました。詔を違えることは許されますまい」


「我は確かに賢卿の期待を裏切った。しかし、亡き皇后陛下は我を賢卿に託されたではないか。我のためのみならず母后のためにも我を帝位に即けてくれ。さすればこの楊廣が終生その恩を忘れぬばかりか、黄泉の母后も必ずお喜びになるであろう。頼む」


そう言うと、皇太子はついにひざまずいて楊素を拝そうとします。


楊素はそれを押しとどめて言いました。


「一計がないわけではございません。ただ、手を下せば千年の罪人となりましょう。まずはゆるゆるとご相談いたしましょう」


悠長ゆうちょうなことを言っておられぬ。陛下が兄上を召したと百官が知れば変事が起ころう」


それを聞くと、楊素がわらって言います。


「この場には我より他におりません。誰が変事をなせましょうや。しかし、若君がそのようにお急ぎであれば、すみやかに事をなさねばなりませんな」


楊素が皇太子に耳うちすると、皇太子はうなずいて張衡ちょうこうという腹心を呼び寄せました。


寝宮に入って文帝の容態を確かめるよう命じられると、張衡は心得顔こころえがおで急ぎ寝宮に向かったのでございます。





皇太子と楊素が寝宮の脇にある便殿べんでんで張衡の報告を待っていると、宮官が駆けこんで参ります。


「陛下がお亡くなりになりました。殿下は早く寝宮にお越し下さい」


皇太子と楊素は寝宮に入ると、文帝の病床に向かって亡骸なきがらまみえました。


皇太子が慟哭どうこくしようとすると、楊素が止めます。


「殿下、こくするより先に国家の大事を定めねばなりません」


それより、楊素は皇太子と謀って宮官や宮女に箝口令かんこうれいを布いて文帝のそうしたのでございます。


日が暮れかかる頃、皇太子が楊素を宮中に宿らせようとすると、楊素は言います。


「老臣が宮中に宿れば疑いを持つ者も現れましょう。ここは一度下がって百官を安心させてやるのが上策でございます」


「賢卿の言に理がある。しかし、賢卿が宮中を退いては我が心が休まらぬ」


不安げな皇太子に楊素は笑って言いました。


「老臣は前言をひるがえしたりはいたしませぬ。ただ、殿下が恩を忘れず、恩に報いて頂けることをのみ望んでおります」


「我とて木石ぼくせきではない。どうして賢卿の恩を忘れようか」


そう言うと、皇太子は楊素を送り出したのでございました。





楊素が宮城の午門ごもんを出ると、文武の百官が集まって問います。


「どのような詔がございましたか」


「陛下の病は快方かいほうに向かっておる。明朝には朝会に出られるとの仰せであった。諸公は吉服をまとって祝われよ」


百官はその言葉を聞くと、大いに喜んで散じていきました。


翌朝、百官はみな吉服をまとって賀表がひょうを揃え、朝堂に並んで皇帝の出御を待っております。

▼「賀表」は祝辞を伝える上表文を言います。


皇太子は宮内から様子を窺っておりましたが、百官の中に楊素がおりません。


よもや心を変じたかと焦るところ、楊素が藤で飾った大轎おおかごに乗って朝門に至り、宮中に入って参りました。


「賢卿を幾度もわずらわせて感謝にえぬ。しかし、何ゆえに百官が打ち揃っておるのか。意外の変など起こるまいな」


「老臣がおります。やすんじておられよ」


楊素はその他の大臣たちとともに皇太子を連れて殿上に上ります。





すでに殿上の珠簾しゅれんは巻き上げられており、そこに皇太子と大臣たちが進むと、儀礼を取りしきる鴻臚寺こうろじの官吏たちが命じて楽官がくかんは楽器を奏でて礼官れいかん朝儀ちょうぎを整え、百官は一斉に跪いて礼を行おうといたします。


大行たいこう皇帝こうていは昨夜に崩御ほうぎょなされた。皇太子の楊廣を皇帝の位に即けよとの詔である。詔に違える者があれば、立ちどころに斬られるものと心得よ」

▼「大行皇帝」はすでに世を去った皇帝への敬称、「崩御」は皇帝の死をそう呼びます。


殿外に駆けだした楊素はそう叫び、ふところから夜をてっして書き上げた偽詔を取り出しました。


翰林かんりんの士はその詔を受け取ると、朗々と読み上げます。


百官は色を失ってただ詔を聞くばかり、その周りはすでに数百の兵に囲まれております。


これは、宮城を守る羽林うりんが楊素の差し金で動員されていたのでございます。


そんなことと知らぬ百官は、ただ周囲を囲む剣戟けんげきを畏れて殿上からにらむ楊素を直視もできず、ただうつむくばかり。


「皇太子は久しく東宮とうぐうにあり、徳声とくせいは天下に知らぬ者とてございません。さらに先帝の遺詔もございます。臣らは速やかに天顔てんがんを拝することを望むばかり、どうして従わぬ者がおりましょう」

▼「天顔」は皇帝の顔の意です。


しばらくすると進み出てへつらう者が現れ、楊素が皇太子を顧みて申し上げます。


「すでに先帝の詔もあり、百官も推戴すいたいしております。天下には一日たりとも君がなくてはなりません。今日は即位にはうってつけの吉日、すみやかに大位に即かれませ」


皇帝の御服ぎょふくを捧げた宦官かんがんが呼ばれて冠服を整えると、皇太子は礼に則った三度の辞退もなく平天冠へいてんかん袞龍袍こんりゅうほうを身に着けて玉座に登ろうといたします。


そこに大音声の楽が奏でられると大いに驚き、つまずたおれそうになりました。


宮官たちが支えて事なきを得ましたものの、あろうことか再び玉座より倒れ落ちそうになります。


楊素は老いたりとはいえ大力たいりきで知られた武将、見かねて走り寄ると皇太子の体を持ち上げて軽々と玉座に座らせました。


百官は一斉に平伏して万歳を唱え、ここに隋の煬帝ようだいが即位したのでございます。


煬帝は百官をねぎらうと妃の蕭氏しょうしを立てて皇后とし、越国公えつこくこうの楊素の官を上柱国じょうちゅうこくに進め、虎賁こほん大将軍だいしょうぐん段達だんたつ中門使ちゅうもんしの官を加え、その他の百官はそれぞれの位を一級進めることとします。

▼「上柱国」は軍中での最高位、「中門使」は『新五代史』『旧五代史』によると機密に関わる官だったようです。隋のお話なのであまり意味はありませんけど。


さらに詔を下して文帝の崩御と新皇帝の即位を天下に知らしめ、吉礼きちれい喪礼そうれいの儀式をことごとく調えさせます。


百官が退いた後、煬帝はただ楊素だけを留めてその功労に謝し、さらにはかって先帝の遺詔いしょうと偽り、兄の楊勇に死を命じました。


楊素が意気いき揚々ようようと殿を下りると、煬帝も玉座を下りて見送り、自らも後宮に帰ったのでございました。

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