第九回 文皇は死して奸雄に報い、煬帝は大いに土木を窮む

文皇ぶんこうは死して奸雄に報い

煬帝ようだいは大いに土木をきわ





煬帝は楡林ゆりんより西京たる長安ちょうあん近郊に戻り、文武百官は城外まで、楊素ようそ皇城門こうじょうもんまでその帰還を出迎えたのでございました。


一行が宮城に入ると王侯百官もそれぞれに引き取ります。


翌日の朝賀が終わると、楊素が進み出て申し上げます。


「陛下は北方を巡狩じゅんしゅされてお疲れと存じますが、かの地の風景はいかがでございましたか?」


賢卿けんけいらがこれまで勤めてきた国防が容易たやすいことではないとよく分かった。先に段文振だんぶんしんは朕に戦陣の経験がないとわらいおったが、朕の行く先々に風に吹かれた草のように大隋の威風になびかぬ者なく、秦の始皇帝や漢の武帝であっても朕を過ぎるものではあるまい。この威をもって戦陣に臨めばどのような敵でも降らざるを得ぬ。腐儒くされじゅしゃどもは口を開けば戦陣を知らぬなどと申して朕を脅しよるが、もはや笑い話に過ぎぬ」


巡狩を終えた煬帝には大事を成し遂げた驕りがあり、かつてのような楊素への遜辞そんじはございません。


「陛下は誤解しておられますな。異国の者どもがなびくのは先帝の余徳というもの、どうして陛下の威光でありましょう」


楊素の言葉に煬帝は面に朱を注いで言い募ります。


「朕は天子の身であればもとより勲功の有無を問われるものではない。賢卿は先帝の功臣と言うが、その勲功はどこにあるのか」


「臣には申し上げるべき大功などございません。されば、何ゆえに陛下が晋王しんおうであられた際にたびたび臣を召されたのやら。臣は先帝に申し上げるべき勲功はございませんが、陛下に大功なしとは申せますまい。もしやお忘れになりましたか」


楊素は冷ややかに嗤って言い捨てると昂然こうぜんと殿を下り、玉座にある煬帝は目の当たりに辱められて言葉を失ったのでございました。


楊素が独り朝議を棄てて宮殿の広場に出ますと一迅のなまぐさい風が吹きつけ、その先に一両の逍遥車しょうようしゃが姿を現します。

▼逍遥車はてぐるまの中でも四方に壁がない簡素な物を言います。


車上には頭上に龍冠りゅうかんを戴いて身に袞服こんふくをまとった男が金斧を振り上げ、大音声を上げました。

▼龍冠と袞服は皇帝の装束です。


「君をしいした老賊ろうぞくめ、どこに行くつもりか!」


驚いて見れば車上にあるのは亡き文帝ぶんていに他ならず、そうと知っては抗う気魄きはくも消し飛んでしまい、さすがの楊素も広場を逃げ惑うばかりです。


「老賊楊素、楊廣ようこうとともに朕を弑したことを忘れてはおるまい。朕の怨みを思い知れ」

▼楊廣は煬帝です。


文帝はそう言うと腰を抜かした楊素の頭に斧を振り下ろし、楊素はたちまち口と鼻より血を流し、広場に倒れ伏しました。


広場に余人がいないわけではありませんでしたが、文帝の亡霊は楊素にしか見えず、楊素がにわかな病に倒れたと急ぎ報告されます。


煬帝は大いに喜んだものの衛士に命じて楊素を私邸に送り帰らせました。


楊素は家に帰っても正気に戻らず、その子の楊玄感ようげんかんの介抱を受けたところで、もはやかつての姿はありません。


「陛下、臣をお許し下さい、お許し下さい」


狂人のようにそう叫びながら、一代の奸雄は世を去ったのでございました。





楊素の訃報ふほうを聞くと、煬帝はもはや畏れる者はないと大いに喜びました。


さっそく宇文愷うぶんがい封徳懿ふうとくいの二人を呼ぶと、洛陽らくよう東京とうけいとしてそこに顕仁宮けんじんきゅうという宮殿の造営を命じます。


高熲こうけいはそれを知って賀若弼がじゃくひつに言います。


「今や楊素はなく、先朝にお仕えした老臣はもはや我ら数人のみとなった。我らが諫言せねば百官は誰も口を開くまい。明日には死を決して諫めるよりない」


翌日の朝議の場で二人は進み出て申し上げます。


「かつて先帝が楊素に仁壽宮じんじゅきゅうの造営を命じられた折、その仕上がりが華美であるとお怒りになって以降は倹約に努められ、それゆえに天朝てんちょうの富強がございます。陛下は先帝の志を受け継がれるべくであり、民を労して財を費やし、宮殿を造られてはなりません」


「朕は天子となって天下を有しておる。宮殿を一つ造ったところで費えは知れていよう。憂えるには及ばぬ」


「天下は賦役ふえきを省けば富み、民が疲弊すれば貧しくなります。先に裴矩はいくが西域諸国との交易を開き、その費えは千万に止まりません。さらに、薊北けいほくへの巡狩でも億万を費やしてございます。さらに洛陽に宮殿を造るとあれば、さらに億万を費やさねば成りますまい。天下がいかに広大であろうともそれらの費えを支えられようはずもございません。願わくば、三思して思いとどまられますよう」


度重なる諫言に煬帝は怒りを発します。


「お前たち二人は先に大抜斗谷だいばつとこくにあって朕をそしったであろう。朕はお前たちが先帝からの老臣であると思ってその罪を問わなかった。それにも関わらず、今また百官の前で朕に恥をかかせるつもりか!朕はお前たち二人を斬刑に処してこの怒りを晴らしてくれよう」


「臣らの一命など惜しむに足りませぬ。しかしながら、先帝のひらかれた泰平が一朝に滅びることを惜しむのでございます」


その言葉に煬帝はいよいよ怒りを募らせます。


「たとえ泰平を破ろうともお前たちのような君を謗る者たちは決して許さぬ。この二人の首をねよ」


煬帝がえると殿下に控える衛兵たちが二人に群がって衣冠をはぎ取り、午門ごもんに引っ立てていきます。

▼隋代の長安には午門はありませんが、紫禁城の南門にあたる午門の名をそのまま使っているだけで、宮城の南門を指します。


二人はそれでも叫びつづけます。


「臣らは死すれば龍逢りゅうほう比干ひかんに従って地下に向かうのみでございます。ただ、陛下は後日どのような顔で先帝に見えられるおつもりか!」

▼龍逢は関龍逢といい、夏の暴君とされる桀に仕えて殺されました。比干は殷の暴君とされる紂王の叔父でありながら心臓をえぐられたとされます。


「朕が先帝に見える顔がなければ、お前たち君を謗る者はどの面を下げて龍逢と比干に逢うつもりか!早く連れて行って首を斬れ!!」


煬帝は机を叩いてそう叫び、百官はその剣幕を恐れて声もなく、その中より尚書しょうしょ左僕射さぼくや蘇威そい刑部けいぶ尚書しょうしょ御史大夫ぎょしたいふを兼ねる梁毘りょうびの二人が進み出ました。


「高熲と賀若弼は朝廷の大臣として忠を尽くして陛下をお諫めしたのでございます。これは天下のため、たとえ罪があったとしても命を奪ってはなりません。この二人を害すれば、必ずや陛下は大臣を害したとの悪名を後世に与えられましょう」


「大臣は殺してはならず、天子は謗ってもよいと申すか!お前たちは常々あの二人とともに朕を謗っておったではないか。朕がお前たちを殺さぬのが大いなる幸いであろう。それにも関わらず、なおも言葉を飾ってあの二人を生かそうとするか!」


煬帝はついに蘇威と梁毘の官を免じて爵を削り、朝廷から追い出してしまいました。


百官には他に諫める者もなく、ついに二人の忠臣、高熲と賀若弼は斬に処せられてあえなく落命したのでございます。





この日より朝臣たちは震え上がって煬帝の命に違う者なく、宇文愷と封徳懿は四方に人を遣わして大木大石を洛陽に運ばせ、夜を日に継いで宮殿の造営を進めます。


宮殿は技巧を尽くして華麗を極めながらわずか数カ月で完成し、その威容は九天きゅうてん仙闕せんけつであってもこれを過ぎるものはないと目されるほどでございました。

▼九天は天のもっとも高いところ、仙闕は仙人の宮殿くらいの意味です。


顕仁宮の完成を知り、煬帝がにわかに東京洛陽に行幸して建物を検分してみれば、門戶は光り輝く瓊玉けいぎょくに飾られてきざはしには金箔と碧玉が敷きつめられ、天下の華麗を一カ所に集めたかのよう。


煬帝は大いに喜んで二人に金帛で賞し、それからは毎日のように封徳懿たちと酒宴を開き、そこで話すのは酒色驕奢のことよりございません。


そうこうするうち、揚州ようしゅう江都こうとの繁華は天下に及ぶものなく、蕃釐觀ばんりかん瓊花けいかは天下の名木であるとの噂が煬帝の耳に入り、数年のうちにはかの地に行幸してその風景を愛でたいと思い立ちました。

▼蕃釐觀は広陵にある道観ですが唐代に建立されたようですので、隋代には存在しません。


そこで、宇文愷と封徳懿の二人に命じ、東京洛陽から江都まで一千余里の間、三十里ごとに一宮、五十里ごとに一館、合計四十九の宮殿を造営するよう命じました。


二人は命を受けて出発し、江都一帯の郡縣に二百人の官吏を遣わして木材石材をかき集めさせ、さらに婦人女子に至るまでを人夫として徴発して土砂を運ばせます。


それより、郡縣の百姓たちはみな賦役に疲弊し、哭声なきごえが絶えぬことと相なったのでございました。

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