第六回 同に魚を釣りて越公は志を恣にし、宮人を撻して煬帝は嗔りを生ず

ともさかなを釣りて越公えつこうは志をほしいままにし

宮人きゅうじんちて煬帝ようだいいかりを生ず





宣華せんか夫人ふじん仙都宮せんときゅうから後宮こうきゅうに戻り、嬉しくてならない煬帝ようだいは花見のあしたに月見の夕べとただ酒宴しゅえんもっぱらにして贅沢ぜいたくはいよいよ度を越えて参ります。


にしきの衣を地味だと嫌い、珠玉しゅぎょくも輝きが弱いと気に入らず、先代の文帝ぶんていが建てた数多あまた桂殿けいでん蘭宮らんきゅうさえことごとくかないません。

▼桂は香木、蘭は香草、いずれも見目も香りもよいので、桂で造った高殿と蘭を飾った宮の意から転じて美しい宮殿を意味します。


ある日、煬帝は蕭皇后しょうこうごうと宣華夫人を伴って太液池たいえきちに避暑に出かけ、酒宴を楽しんでおりました。

▼『史記しき封禅書ほうぜんしょによると太液池は前漢ぜんかん武帝ぶてい甘泉宮かんせんきゅうに造った園池、その中には蓬萊ほうらい方丈ほうじょう瀛洲えいしゅう壺梁こりょうの島々がありました。


避暑地とは言え正午ともなれば暑気しょきを感じずにはいられません。


ちんの思うに、天子たる者は四海しかいの富を所有するのであるから天下はあまねく天子の遊楽ゆうらくの地に他ならぬ。しかるに、朕は宮殿より外に遊ぶ地を持たぬ。これは一体どうしたことか」


「ここより他に宮殿を造られたいとの思召おぼしめしであれば何も難しいことはございませんのに。どうしてそのようにおおせられますの」


蕭皇后が言うと煬帝は憤然ふんぜんとします。


「宮殿を造ろうにも、朝廷の百官ひゃっかんどもが水を差すではないか」


「百官は富貴ふうきむさぼりながらも名を求めるもの、彼らを酒宴に招いて楽しみを共になされば、誰が反対いたしましょうか」


「まったく皇后の言う通り百官など意に介するに及ばぬ。だた楊素ようそめが朕のやることなすことに口を挟みおる。明日には召し出してどういうつもりが探ってみねばならぬ」


三人は杯を重ねて楽しみ、日暮れとともに宮城に帰ったのでございました。





翌日、煬帝は朝早くからふたたび太液池に向かい、みことのりして楊素を召し出しました。


ほどなく楊素が到着すると煬帝は高殿たかどのを下りて出迎え、ともに上がって座を勧めます。


楊素は即位の大功臣、辞退もせずにただ一拝いっぱいして座に着きます。


「この頃久しく卿の顔を見ておらなんだが、決して忘れてはおらぬ。この池で魚を釣る楽しみを共にしようと呼んだのだ」


「『きんを放てばすさみ、じゅうを放てば滅びる』と申します。春秋しゅんじゅうの頃、隠公いんこうとうの地で漁を観覧かんらんし、聖人の孔子こうしはそれを非難いたしました。一方、聖帝のしゅん南風なんぷうの詩を歌って後代まで徳をたたえられております。陛下は新たに帝位にかれたのですから、舜を模範とすべきであって隠公にならわれてはなりません」

▼「禽を放てば荒み、獣を放てば滅びる」は原文では「禽に従うときは荒み、獣に従うときは滅びる」とし、原著は「縱禽則荒、縱獸則亡」としますが、意味が通りません。「縱禽」は狩猟や娯楽のために柵の中に禽獣を放つ意でよく遣われるため、「放つ」と判断しました。文意は「禽獣を柵の中で飼うような行いは民のためになるはずもないので、そんなことにうつつを抜かしていては国が荒んで滅ぶ」ということです。

▼魯の隠公は漁を観覧して楽しんだため、『春秋』で「礼にのっとっていない」と批判されています。舜が歌った「南風の詩」は「南風が時節の通りに吹くと民の心が穏やかになってみな豊かになる」という詩であり、民の平安と繁栄を謡う歌詞です。つまり、「隠公は自らの楽しみのために礼さえ破り、舜は独り歌うにも民を思いやっていた。いずれを見倣みならううのがよいかは分かりきっていますよね」が楊素の発言の意味です。


渭陽いようおきなは釣りに出て八百年続いた周王朝のもといを築いたと聞く。賢卿けんけいの功績はおさおさ劣るものではない。朕は賢卿の功績を忘れず、共に釣りをして楽しもうというのではないか。どうして隠公のような放縦ほうしょうをなそうか」

▼「渭陽の翁」は原文では「蟠渓ばんけいおきな」としますが、これは要するに太公望たいこうぼう呂尚りょしょう姜子牙きょうしがのことを指していますので、『史記』齊本紀せいほんぎに従って渭陽=渭水いすいの北岸に言い換えました。


楊素は太公望になぞらえて持ち上げられると大いに喜んで言いました。


「陛下がこの老臣ろうしんのことをお忘れでないとなれば、老臣もまた陛下のご厚意こういに従わねばなりませんな」


二人は並んで池の端、柳の木陰に腰を下ろして釣り糸を垂れ、宦官かんがんが二人の上に黄色い羅紗らしゃの日傘を差しかけたのでございます。





「先に魚を釣り上げた者を勝ちとし、負けた者は罰杯ばつはいを飲み干すこととしよう」


煬帝の言葉に楊素も異論なく、二人の勝負が始まりました。煬帝はすぐに三寸さんすんほどの魚を釣り上げると喜んで言います。


幸先さいさきよく釣り上げたぞ。まずは一杯じゃ」


楊素は魚を驚かさないように無言でうなずきましたが、しばらくするとまた煬帝が一匹を釣り上げます。


「朕は二匹目を釣り上げた。これで罰杯は二杯になったの」


周囲にある宮女と宦官たちは釣れる気配もない楊素を見ると口をおおって笑います。


燕雀えんじゃくいずくんぞ鴻鵠こうこくの志を知らんや。小魚二匹など王者の釣りとは言えませぬ。これより老臣の腕前を御覧ごらんじろ。金の鯉を釣り上げて陛下にお薦めして見せましょうぞ」


楊素は意地になってそう言うと煬帝には目もくれずに釣りに集中しました。


楊素の大言にきょうがれた煬帝は、竿を置いて後ろに退きます。後ろから楊素の姿を見れば、風を受けてたなびく白いひげが銀色に輝き、その容貌ようぼう凛凛りんりんとしてまるで帝王のよう。羅紗の傘の下に厳然としております。


煬帝はその姿を気に入らなく思いながら眺めておりましたが、しばらくすると楊素が一尺いっしゃく三寸さんずんはあろうかという大きな金色の鯉を釣り上げました。


「御覧になられましたか。志があれば成らぬことなどございません」


「賢卿のような臣があれば、朕には何のうれいもない」


楊素の放言ほうげんに煬帝も作り笑いで応じたのでございました。





二人はって高殿に上り、酒宴を開こうという頃合いに一人の宦官が駆けこんで参ります。


「ただ今、漁師が朝門ちょうもんに参って大きな鯉を献上したいと申しております」


煬帝が持ってくるように命じると、その鯉は六、七尺はあろうかという大きさ、全身の鱗が金色に輝いております。


「この鯉には神気しんきがございます。おそらくは尋常じんじょうの鯉ではこざいますまい。すみやかに殺して風雷ふうらいわざわいまぬがれられるのがよろしいでしょう」


「鯉が神龍しんりゅう化身けしんであるならば殺そうとも果たせまい。池に放ってやろう」


楊素の勧めを煬帝は拒み、朱筆しゅひつを持ってこさせると鯉の額に「解生」の二字を書きつけました。


「この鯉は間もなく死ぬであろう。朕は自然のままに死なせてやろう」


ついに左右の者に命じて池に放たせたのでございました。





煬帝と楊素は酒宴に戻り、数杯の酒を干したところで先ほど釣り上げた三匹の魚のなますが供されました。

▼膾は魚肉を細く刻んだ料理を言います。


煬帝は大きな杯に酒を注がせると、楊素に差し向けて言います。


「先ほど約束したとおり、朕が先に釣り上げたのだから賢卿はこの杯を干さねばならぬぞ」


楊素は大杯を飲み干すと、酒を注がせて煬帝に差し向けます。


「遅うはございましたが釣り上げたのは金色の大鯉おおごい、陛下はこの杯を干して老臣の功をお祝い下さい」


煬帝はその杯を受け取って飲み干すと言いました。


「朕は先に二匹の魚を釣り上げたのだから、賢卿はもう一杯飲まねばならぬ」


「陛下は二匹を釣り上げられたとは言え、大きさでは老臣に及びますまい。陛下が魚の多少で老臣に杯を薦められるならば、老臣もまた大きさで返杯せねばならず、この杯はお受けできませぬ」


そう言うと、楊素は宦官が差し出した杯を退けようとします。


杯を差し出す者はよもや楊素が押し戻すとは思わず、杯を取り落としてしまいました。宴卓えんたくに杯が落ちると酒がはね、楊素に降りかかります。


先ほどの釣りで宮女や宦官に笑われた怨みも相まって、酒をひっかけられた楊素が叱りつけました。


「このものめが!天子の前で無礼を働いて大臣をあなどるか!!朝廷の法を何と心得こころえる」


そう言うと、左右の者に命じて粗相そそうをした宦官を殿下に引きずり下ろし、背を打たせます。


かたわらの煬帝も怒ろうとしましたが、その言葉を待たず楊素が宦官を打ちすえさせたため、怒るに怒れず、止めようにも止められず、ただ黙念もくねんとしておりました。


そうなると、宦官を打つ者も煬帝の顔色をうかがわざるを得ません。


二十回も打ちすえると楊素は身をひるがえして申し上げます。


「宦官や宮女といった者どもは帝王が寛容かんようであれば悪事を働いて国家を傾ける者どもでございます。今日、この老臣が厳しくらしめました。これで陛下が仁愛であられても老臣が厳しく法を行うと知り、身を慎みましょう」


「賢卿はちんを平らげるに止まらず、宮中をも粛然しゅくぜんとさせた。まことの功臣と言うべきであろう」


煬帝がそう言うと、二人は酒宴に戻ってさらに杯を重ねます。


ついに泥酔でいすいした楊素は恩を謝すると宦官たちに両脇を支えられて退いたのでございます。





煬帝は楊素を見送ると、急ぎ中宮ちゅうぐうに戻って蕭皇后に言いました。


「朕の前でみだりに宦官を打ちすえさせるとは、楊素めは朕をないがしろにしておる。必ずや九族きゅうぞく皆殺みなごろしにしてやる」


「楊素は陛下を擁立ようりつした功をたのみ、さらに兵権へいけんを握っているがゆえに陛下を軽んじているのです。志のおごる者は必ず敗れ、気の満ちた者は必ずくつがえると申します。楊素は放っておいても自らたおれましょう。平地へいちに乱を起こすには及びますまい」


「それでは朕の怒りのやり場がないではないか」


蕭皇后は酒宴の用意をさせると煬帝に杯を薦めます。


数杯を飲み干して怒りが解けると煬帝が気になるのは宣華夫人のことです。


「宣華はどうしてここに来ぬのか」


「夫人は体調が思わしくなく、本日は宮より一歩も出ておりませぬ。大液池で寒さにあたったのでございましょう」


それを聞くと煬帝は杯を放り出して後宮に向かいました。


宣華夫人の部屋に入ってにしきとばりげると、気づいた夫人が苦しげにとこから身を起こします。


わたくしめは不幸にもこのような病にかかり、おそらく長くはございません」


そう言い終わる前に夫人の目から涙があふれました。


「一時の病に過ぎぬ。しばらく身を休めればすぐに良くなろう。どうしてそのように不吉なことを言うのか。何か理由でもあるのか」


煬帝が再三に問うても夫人はただ涙を流すのみでしたが、しばらくすると涙をいて言います。


「昨夜、夢に一人の者が妾を迎えに参ったのでございます。陛下の御召おめしかと思ってついていけば、殿上に先帝せんていがおられたのです。『朕が世にある頃はお前を深く愛しておったにも関わらず、死んでしかばねが冷える前に我が子とみだらな行いをなすか』とお責めになられ、妾がおびえておりますと、『楊廣ようこうめも十二年の後にはここに来て朕にまみえることとなろう。しかし、お前の罪は許されぬ』とおおせになって香木の如意にょいで妾の頭を打たれ、そこで夢から覚めたのでございます。それより頭が割れるように痛み、久しからず陛下とお別れせねばならぬと覚ったのでございます。願わくば、陛下は龍体りゅうたいをお大事になさり、妾のことはお忘れ下さいまし」


「夢など信じるに及ばぬ。心を悩ませるでない」


煬帝は内心で文帝の霊を大いにおそれましたが、上辺うわべはさあらぬていで慰めます。


そこに蕭皇后も現れて二人で宣華夫人を慰めると中宮に帰っていきましたが、それより煬帝は心配で何事も手につきません。


これより夫人の病は日々に重く、数日の後に世を去ったのでございました。

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