第三回 儲位を正して太子を奪わんと謀り、寢宮に侍りて宣華に調戲す

儲位ちょいを正して太子たいしを奪わんとはか

寢宮しんきゅうはべりて宣華せんか調戲ちょうぎ





時は三月の初旬、花咲き乱れる晩春ばんしゅんの頃でございました。

▼陰暦ですので一月から三月が春です。


百官ひゃっかん打ちそろっての朝賀ちょうがが終わり、みなが退こうとするところに宮官が駆けよって越國公えつこくこう楊素ようそを引き留めます。


聞けば、文帝と獨孤どっこ皇后こうごうよりともに楊梅ようばいを愛でんとの思召おぼしめし。楊素は宮官に連れられて宮城きゅうじょうの北の御苑ぎょえんに向かいます。


御苑の花はいずれも盛りにありますが、なかでも楊梅は他と異なってこずえは高く花は多く、芳香は他を圧してひときわ春らしく咲き誇っておりました。





楊素は晋王しんおうの計略を行う好機こうき到来とうらいとほくそ笑み、はる爛漫らんまんの御苑で文帝を待ちます。


楊素は弘農郡こうのうぐん華陰縣かいんけんの人で文帝とは同郷、幼い頃からの馴染なじみで皇后とも昵懇じっこんの間柄でございます。

▼文帝楊堅は弘農郡華陰縣の名門である楊氏の出身と自称していましたので、楊素と同族ということになります。


文帝の即位よりもっとも厚遇されて折々に酒宴をたまわることも多く、その際も皇后が同席しておりました。


時ならず文帝と皇后が宮官のく車に乗って現れました。





この時も文帝と皇后が上座かみざに着いて楊素は傍らにはべり、花をでながらの酒宴とあいなります。


楊素が晋王の計略を行う機をうかがうところ、文帝はかわやに行こうと席を起ちました。


文帝のいぬ間に楊素は皇后に申し上げます。


「今や朝廷の内外では晋王の仁孝じんこうを称賛しており、まさしく当代の賢王と申せましょう。もしも皇太子がこのようであれば、天下の幸い、社稷しゃしょくの福というものでございます」

▼社稷は国家の意です。


皇后はその言葉を聞くと目に涙を浮かべて言います。


「晋王は幼い頃から学問を好んで倹約を旨とする孝行息子、妻の蕭氏しょうしともなかむつまじくめかけを囲うこともありません。それなのに、皇太子は密かに元氏げんしを害して妾の雲氏うんし寵愛ちょうあいし、あろうことか晋王をも害さんと謀っています」


皇后の心中を知った楊素は、文帝が席に戻ると申し上げます。


「今や天下泰平となって将来の憂いはございません。しかし、皇太子は仁孝に欠けるところがあり、天下の主は荷が重うございましょう」


「皇太子にあやまちちがあるとは聞いておらぬ。唐突に何を言うのか」


文帝が驚いて言うと、楊素が畳みかけます。


「陛下はご存知ないのでございます。近頃の太子は酒色しゅしょくふけるのみならず、密かに私兵を集めておられます。その意味をお察し下され」


文帝が呻吟しんぎんしていると、皇后も言います。


「皇太子は元妃を害して妾を寵愛し、酒色に耽って父母への礼を忘れております。妾はこのことを常々憂えておりましたが、楊素は骨肉こつにくじょうはばからず直言ちょくげんしたのです。真の忠臣と申せましょう」


皇后にまでそう言われると、文帝も疑いを生じずにはおられません。宮官に命じて玄武門げんぶもんから至徳門しとくもんまで腹心の者を十人ずつ遣わして皇太子の動静を窺うよう命じます。


楊素は心中に計略の成功を喜び、数杯の酒をすと恩を謝して退きました


首尾を聞いた晋王は大いに喜び、段達だんたつに諮って門に遣わされた宮官と皇太子の官属にまいないを遣ります。


買収された者たちはただ皇太子の過失を伝えて善行を隠し、文帝の耳には皇太子の悪評のみが届くようになったのでございます。





ある日、皇太子に謀反のきざしがあり、その始めに刺客しかくを雇って晋王を殺害せんと企てているとの報告があり、文帝は怒って皇太子の府に詰める軍士をことごとく捕らえて官属を取り調べるよう命じました。


そんなこととは夢にも思わぬ皇太子は姫妾きしょうを侍らせて酒宴を張り、して楽しんでいる真っ最中、そこに勅命を受けた官人たちが踏み込んで軍士を追い出します。


皇太子も愚かではありません。讒言ざんげんを構えた者があると見抜くと、自ら文帝に弁明するべく数人の供を連れて正宮に向かい、朝堂ちょうどうの前を過ぎようとしておりました。


そこに居合わせたのが他ならぬ楊素でございます。


「このまま皇太子が文帝に会って弁明すれば、我が身に禍が降りかかろう。ここはあざむいてでも引き返させるよりない」


楊素はわざと驚いたふりをすると、皇太子の前に平伏しました。


「老臣より殿下にお伺いいたします。本日、殿下の軍士が捕らえられることをご存知でしたか」


「我はまさにそのゆえを陛下に伺うべく参ったのだ」


「聞くところ、本日早朝、殿下に謀反むほんの疑いありとの讒言を聞いて陛下はお怒りになり、兵を遣わして殿下の府を包囲するようお命じになったのです。老臣がお諫めしてようやく怒りを鎮められましたものの、疑いはいまだ晴れておりません。殿下の軍士が捕らえられたことはその証。ご存知のとおり、陛下は性急せいきゅうなお方でございます。今すぐ陛下にまみえてお怒りに触れれば何があるか分かりませぬ。ここは府に帰ってお待ちになり、老臣が陛下に弁明を終えた後に謁見されるのが上策でございます」


楊素にたばかられた皇太子はしばらくの呻吟しんぎんの後、涙を流して言いました。


「今すぐ陛下に見えて弁明したいところであるが、逆鱗げきりんに触れればもはや口を開くことも許されまい。賢卿けんけいに我が身の冤罪えんざいすすいでもらうよりない」


「老臣が必ずや疑いを晴らして御覧に入れましょう。殿下は心を安んじて府にお戻り下さい」


皇太子が府に引き返していくと、楊素は御史台ぎょしだいの官吏を集めて上表文をしたためさせます。

▼御史台は官吏の不正を監察する役所です。


その文には、軍士を捕らえられた皇太子は大いに怨みを言って不孝の罪は明らかであること、また、これは皇太子に従う官属たちが皇太子が早く帝位にくことを望んで謀反を勧めた証であるとし、すみやかに糾問きゅうもんせねばならぬ旨が記されておりました。





「皇太子の罪悪はすでに明らか、この罪により廃嫡はいちゃくせんと思うも父子の情に忍びぬものがある。どうすべきか」


上表を読んだ文帝はますます怒り、皇后に問いかけました。


「父子の情と社稷のいずれが大事でございましょう」


「皇后の言に理がある。朕の意は決した」


皇后の言葉にうなづくと文帝は詔を下します。


皇太子を廃して庶人しょじんおとし、内史ないしの建物に幽閉することと定め、皇太子に従っていた官属の取り調べを楊素に命じたのでございます。


この期に及んで皇太子は楊素に謀られたと覚ったものの、今となっては如何いかんともしようがありません。


涙を呑んで幽閉されるよりなく、百官の多くはその冤罪えんざいなるを知っても楊素の権勢を畏れて声を上げません。


文帝は皇后の勧めに従い、日ならず晋王を皇太子と定めたのでございました。


晋王はしてやったりと心中に喜び、上表して恩を謝するとともに礼物を揃えて楊素をねぎらいます。吉日を選んで皇太子の冊立さくりつが行われると、晋王は東宮とうぐうに入って正式に皇太子となりました。

▼東宮は皇太子の居所を指します。そのため、皇太子も東宮と呼ばれる場合があります。


それより二、三日に一度は文帝と皇后に謁見して孝養を尽くし、百官には丁寧に応対して礼を尽くしたがため、みな晋王の皇太子冊立を喜ぶようになったのでございます。





獨孤皇后は晋王を皇太子としたことを喜んでおりましたが、時の過ぎるは無情なもの、人の命数には限りがあります。


ある日、病の床に就くとそれより数日のうちに世を去ってしまいました。


文帝の悲哀は限りなく、礼官に命じて葬儀を行わせると霊柩れいきゅう白虎殿びゃっこでんに停めおかせ、二十七日のもがりが終わると泰陵たいりょうに葬ったのでございました。


皇后を喪った文帝に近づいたのが陳氏ちんし蔡氏さいしという二人の美女、なかでも陳氏は南朝陳の宣帝せんていの娘、聡明にして容姿は秀で、世に並ぶ者がありません。


蔡氏も陳氏に劣らぬ美女、文帝はたちまち気に入って陳氏を宣華せんか夫人ふじん、蔡氏を容華ようか夫人ふじんと名づけて深く寵愛ちょうあいいたしました。


ある日、文帝が病の床に就くと宣華夫人と容華夫人の二人が心を尽くして介抱しておりました。


皇太子となった晋王も見舞いに訪れて外は父帝の病をうれえる憂容ゆうようを飾っておりますものの心中では密かに病を喜び、日々寝宮を訪れて安否を問うておりました。

▼憂容は憂えた表情の意です。


ある朝、皇太子が訪れると文帝の枕頭ちんとうにはかの宣華夫人が薬を整えております。


その美貌に皇太子の心は欲情の火にあぶられたかの如く、寝宮を出ると後宮に向かう廊下で宣華夫人を待ち構えます。


薬を飲んだ文帝が眠りにつき、宣華夫人は侍女に看病を命じて自らは身を休めるべく後宮に向かいました。


一人で後宮に向かう宣華夫人を見ると皇太子は喜んで走り寄り、その腕を掴んで引き留めたのでございます。


「宣華夫人、父帝の看病に身を労され、我は深く感謝しております。父帝は老齢になって夫人の美貌を愛され、自ら死を早めて夫人に空閨くうけいの苦しみを味わわせようとされており、我は心に愛惜あいせきしてやまぬのです」

▼空閨の苦しみは独り身の寂しさの意です。


宣華夫人はこのようなところで皇太子に出逢って驚いておりましたが、その無礼な言葉を聞くとおもてしゅそそぎ、衣を払って避けようとします。


皇太子はその前をさえぎって言いつのります。


「我は平生より美女を求めておりましたが、夫人に及ぶ美貌をついぞ目にいたしませんでした。今や幸いにも夫人にお会いできた。これは三生さんせい奇縁きえんというもの、夫人のような方に愛されれば死しても怨みはございません」


皇太子の言を聞いた宣華夫人は無礼に我を忘れ、身をひるがえすと文帝が休む寝宮に駆け戻ります。その姿は花柳かりゅうが風に舞うかの如く、見とれた皇太子は宣華夫人を見送ったのでございます。





我に返ってみれば、宣華夫人の美貌に迷って本心を漏らし、その夫人が文帝の休む寝宮に逃げ込んでいては気が気でありません。


皇太子は急いで外殿に出ると、腹心の宮官を寝宮に遣わして様子を探らせます。


皇太子から逃れた宣華夫人が寝宮に駆け込むと、図らずも金の髪飾りが珠簾にかかって床に落ちます。


硬い響きに目を覚ました文帝が眼を転じれば、宣華夫人の顔はくれないのよう、衣裳はかき乱れて荒い息をいています。


「どうしてそのように慌てているのか」


文帝が再三に問うても宣華夫人はこうべを垂れて答えません。


「答えぬとは不義でも行ったのであろう。それならばお前に死を与えねばならぬ」


文帝がいかめしくそう言うと、宣華夫人はひざまづいて申し上げます。


「妾は陛下の御恩をこうむっております。どうして不義など犯しましょう。陛下は病身でおられますゆえ、怒りを発されてはなりません。病のえるのを待って申し上げたく存じます」


宣華夫人がそう言うも、文帝は元来性急な人、聞かずには済ませられません。


「すぐに聞かねばかえって心を悩ませる。今ここで申せ」


それを聞いても宣華夫人はただ首を垂れるのみ、再三の催促を受けるとようやく口を開き、涙を流して皇太子の無礼を訴えます。


それを聞いた文帝は怒りと呆れで物も言えません。


みだりにお怒りになってはなりません。心を休めて龍体りゅうたいを苦しめられますな」

▼龍体は皇帝の身体の意です。


宣華夫人がそう言い終わる間もなく、文帝は一息を吐くと大呼たいこします。


「この畜生めにどうして大事を委ねられようか。獨孤どっこと楊素がちんを誤ったのだ」


そう言うと、楊素を寝宮に召し出すよう詔を下したのでございました。

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