3
「おーい、おい。おーい、おい」
誰かの声が聞こえる。でも、それは大人のしゃがれた声じゃなくて、透き通った女の子の声だった。
◯
目を開けると、窓外の景色はもう真っ白になっていた。
「起きた? もうすぐだからね」
すごい雪だね、蒼介――
父の
年始恒例の帰省。高速道路が混むからと朝早くに出発するのが恒例で、退屈な窓外に飽きて毎年寝てしまうだけど、この雪景色を見た途端、蒼介はきまって目が覚めるのだ。そして、お母さんはこの雪の中で育ったんだな、と考えてしまう。
母の
「もうすぐだ。トイレは大丈夫か?」
「うん、平気」
車は白銀の中をひたすら進む。退廃的な冬の、真っ白な世界へ。
「静子叔母ちゃん、あけましておめでとう」「うん、あけましておめでとう」
茅葺き屋根の一軒家で向かえてくれたのは、蒼介の叔母で紀子の姉である静子だ。
築100年を越えたこの家は、絵にかいたような古民家だ。教科書やテレビでもよく見るような、三角屋根の木造平屋。内装は2年ほど前の大型リフォームで現代っぽくはなっているけれど、玄関はガラス張りの引戸で、開け閉めする度にガラガラと大きな音をたてた。
「三上くん、手伝おうか?」
「いえ、大丈夫です」
よいしょ、と父は母を玄関に置いてある車イスに乗せた。
「いい天気ですね」
「ええ、相変わらず雪は溶けてないけどね」
門から玄関まで続く気持ち程度の庭には、薄い雪が一面に積もっている。所々に伸びた緑の草が顔を出していた。
「ほら、着いたよお母さん」
「おかえりなさい、紀子」
眠ったままの母に、静子さんは優しく言った。
実は、蒼介には祖父も祖母もいない。母片の祖父母は彼が生まれる前に死に、父方に至っては会ったことも話したこともなかった。
今は、静子さん一家が暮らしているが、ここにも父という存在はいなかった。
「お、蒼介じゃん」
「
従姉の薫が家の奥から顔を出した。もうお昼近くなのに、モコモコのパジャマにオレンジ色の半纏を羽織ったまま、「さむいさむい」と、そのまま炬燵に滑り込んできた。寝起きだろうか、通年おかっぱ頭には、ぴょんとくせ毛がついている。
「あんた、また背が伸びたんじゃない?」
「うん、去年から7センチも高くなった」
「すごいじゃん。佐久間くんは抜かした?」
「ううん、でも山田くんは抜かしたよ!」
薫姉はそうかそうか、と頷いてくれた。
「大学はどんなの?」
「いい感じだよ。制服もないし、時間割も自由だからね」
薫姉は隣町の(といっても、ここからじゃ2時間くらいかかるのだが)大学に通っている。
「自由ってことは、全部体育とかでも良いの?」
「うーん。そういうコースに入ったら、全部体育でも良いと思うよ」
「へえ、良いなあ。僕だったら、ずっと体育にしちゃう」
あはは、と薫姉が笑う。1年に1回しか会わないけれど、蒼介にとっては良い姉のような存在だった。学校のことをなんでも聞いてくれるし、子ども扱いもしない。怒るときは怒るし、遊ぶときはめいいっぱい遊んでくれる。
「そういえば、薫姉って大学で中国の勉強をしているんだよね?」
「うん、中国文学史ね。中国の昔の小説とか神話とか専攻してるの」
「せんこう?」
「自分で選んで、専門的に勉強するってこと。あんたの時間割が体育ばかりなら、体育専攻ってなるわね」
「ふーん。ねえ、じゃあ僕も中国文学史を専攻したことになるかも!」
そう言って、蒼介は持ってきたリュックの中から、原稿用紙を取り出した。
「なに? それ」
「冬休みの宿題。今年の干支の字が入ったことわざを見つけて作文にするんだ。僕たち年男だから」
「年男って、あんた早生まれじゃないの?」
「うん。だから僕だけ『羊』のことわざを考えるんだ」
そこで薫姉は「なるほど」といった表情をみせた。
「羊が入ったことわざを教えて欲しいの?」
「ううん。ことわざは分かったんだけど、その意味を知りたいの」
「い、意味? なんてことわざ?」
「『こくさくのきよう』ってことわざ」
蒼介は原稿用紙に「告朔の餼羊」と、す、すら書いてみせる。「知ってる?」
「う、うん……あんた難しいの知ってるね」
「でしょ? へへへ」
すると、母を寝室まで運び終えた静子と父が居間に戻ってきた。
「おーい蒼介、仏様拝んだか?」
「まだ」
「ご飯の前に仏壇のチーンをしてきなさい」
はーい、と蒼介は元気よく炬燵から飛び出ると、仏間まで早足で向かった。
◯
「なんだこれ?」
蒼介の父・斗真が炬燵に起きっぱなしの原稿用紙を見つけた。
「なんて読むんだこれ? こくしゅ ?こくさか?」
「こくさくのきようだって」
薫が答えてやる。彼女はどこか不貞腐れたような顔をしていた。
「蒼介の冬休みの宿題だよ。今年が年男だから、学校から今年の干支の『馬』が入ったことわざを考える宿題なんだって」
「え? でも、蒼介は早生まれで羊年じゃないか」
「そうなの! だから蒼介だけ『馬』じゃなく『羊』が入ることわざらしいのよ」
薫の眉間のシワが深くなる。
へえ、と斗真が感心したように原稿用紙の文字を見つめていた。
「この漢字も蒼介が書いたの?」
「うん、さっきね。何も見ないですらすらと」
「あいつ、いつの間にこんな難しい字を覚えたんだ」
あーあ、と薫が両手を伸ばして、そのままばたりと仰向けに寝転がった。
「私も知らなかった。なんだか悔しい」
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