12

「お母さんの容態が悪化したのよ」


 地元の総合病院へ向かうタクシーの車内で、薫は早口でそうまくし立てた。


 帰り間際のあの時、母・紀子を車に乗せよるため、父と静子さん、そして薫が車イスを持って部屋に向かうと、その異変に気づいたらしい。


「まるで、誰かに頭を揺らされているみたいだった……」


 薫はその時の母の様子をそう例えた。いつもは力なく垂れているこうべが、激しく痙攣していたのだとか。そうして、父は慌てて車イスも放り投げ、母を担いで車に乗せて病院に向かったのだ。静子さんも薫も同乗していたのだが、到着するころになってようやく車内に蒼介の姿がないことに気がつき、薫がタクシーを使って迎えに来たのだ。


「あんた、なにやってたのよ?」


 タクシーが大きく揺れて、もうすぐで天上に頭をぶつけそうになった。しかし、蒼介はじっと窓の外を見つめるばかりで、何も掴もうとはしなかった。出来なかった。


「かくれんぼ」

「かくれんぼ? 誰とよ?」


 そうだ。僕は女の子と一緒にかくれんぼしていた。あの子はどこだろう。そういえば名前も聞いてなかった。そして、僕は――


「わかんない」


 少年の心は、不透明な濃い水で満タンだった。小さな器。そこに、『あの声』『謎の少女』そして『母の容態』という謎が混じりあい、破裂寸前。何を、どこから考えたら良いのかわからない。注意深く観察しても、器の中は濁っていて何も見えなかった。


 はぁ、と薫がため息をつくと、タクシーはちょうど病院に到着した。さっきまでとは違い、外は元の世界に戻ったかのように、細雪がちらついていた。


「とにかく、病院でお母さんが待ってるから」



 母は病室で、いつものように静かに眠っていた。違うとすれば、いつもより点滴の管が多く、ピコンピコンと鳴る電子機器が胸元にくっついていることだ。


「蒼介、どこにいたんだ?」


 ベッドの脇で母の手を握る父さんと目が合った。その目は涙で濡れていた。後ろにいる静子さんも、暗い顔をしている。


「お母さん?」


 近くで母の顔を見ても、やはりいつもと同じ寝顔。だけど、


 忘れたくても忘れられない蒼介。それはある種の障がいなのかもしれない。人間の脳は神秘だ。人は脳に操られている人形だ。蒼介の場合、一度見たこと聞いたことを忘れられない記憶力を持っている。でも、一緒にかくれんぼした少女の顔をみた時、蒼介ははじめて「どこかで見たことがある」を体験した。


 少女の顔と、母の寝顔が重なる。頭の中どっと流れ込む少女のあのニコリと笑った顔。不思議そうに首を傾げる顔。得意気に凧上げについて教えてくれた顔。


「お母さん……」


 蒼介は生まれてから母の声を聞いたことがない。だから、分かるはずもない。だけとあの声は、静子さんでも、薫姉ちゃんでも、リス先生でも、北野さんでもない、だった。


 あの時一緒に遊んでくれた女の子は、お母さんだったの? 

 「おーい、おい」と夜中に僕を呼んだのも、お母さんだったの?


 心の声が届いたのか、寝むったままの母の目から、涙がゆっくりと溢れおちた。


 きっとそうだ。僕はタイムスリップしたんだ。そうしてお母さんに遊んでもらったんだ。


 病院の、まわりの声が遠ざかっていく――母の涙を見て大慌てで医者を呼ぶ父。廊下を走るスリッパの音。大声で泣く静子さん。そして、どうすれば良いのかとアワアワしている薫。そのどれもがスローモーションに見えた。ただひとつ、眠ったままの母だけはいつもの通り。


 そういえば、僕が最後に見つかったきりだね。炬燵はもう隠れたことがあったから、きっと簡単だったでしょ? 今はお母さんがだね。得意だって言ってただけあって、やっと見つけたよ。


「おーい、おい。おーい、おい」


 蒼介が密かに呟く。自分でも不思議だった。声が震えていたから。

 蒼介にとってはついさっき。しかし、母は30年隠れてきた。大人になって、結婚して、蒼介が産まれるまで、ずっとだったんだ。


「みーつけた」


 細雪がちらつく年始のある日。

 蒼介の母、三上紀子は静かに息をひきとった。その顔はどこか笑っているように見えた。

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