2
家に帰ると、蒼介はさっそくリビングにある共用のノートパソコンと炬燵の炬燵を入れた。
「あら、お帰りなさい」
キッチンから声をかけてくれたのは、家政婦の北野さんだ。赤木先生とは違い、背が高くスラっとした綺麗な人だ。ちょうど休憩中だったのか、いつも後ろでひとつに纏めているうっすら茶色の髪はおろしてあった。
「ただいまです。お母さんは?」
「相変わらず。さっき点滴を代えたところよ」
蒼介は炬燵に入る前に、母が眠る寝室へと向かった。蒼介の母・紀子は、彼が産まれてすぐに意識を失った。それからずっと目を覚ますことはなく、自宅で数本の管に繋がれて、今でも眠ったままなのだ。
北野さんの言葉通り、点滴が新しくなっていた。涎も吹いてくれたのか、口回りも綺麗だ。
産まれてから話したことのない母。
(ねえ、お母さん。羊が入ることわざって知ってる?)
しかし、返事はない。蒼介にとっては母というより、人形に近かった。
リビングに戻ると、炬燵はすっかり暖まっていた。朝は快晴だったけれど、今の空は灰色で、雪が降るかもしれないくらい風も冷たく、部屋の中も寒かった。
「はい、どうぞ」
パソコンが立ち上がり、いざキーボードを叩こうとした時、北野さんがホットココアを持ってきてくれた。
「ありがとう……ございます」
「いいえ。私もちょうど休憩なの」
入って良いかしら? と聞きながら、北野さんも炬燵に足を入れてきた。彼女も自分用の湯気のたつカップを持っている。
「そっか、今日は終業式だから早いのね」
「そうなんです」
「この時間はいつも休憩なの」
いつもサボってる訳じゃないのよ、と北野さんは笑った。
妙な沈黙だ。窓を締め切っているせいか、時計の針の音が大きく聞こえる。
「ねぇ、北野さんってことわざに詳しい?」
「ことわざ? どうして?」
蒼介はホームルームでの出来事を簡単に説明した。
北野さんは「そう、そう……」と優しく頷き、頬に落ちた髪をサラリと耳にかけてみせた。
「羊のことわざね……ごめんなさい。私にはぱっと思い付かないわ」
「ううん、やっぱり難しいよね」
蒼介はとりあえず『羊 ことわざ』と検索してみる。
「あった?」
「うん」
画面には、羊を使ったことわざや慣用句がずらりと並ぶ。自分が知らないだけでこんなにもあるのかと驚くほどだ。どれも聞いたことがないもので、とりあえず一番上のことわざをクリックする。
「こくさくのきよう?」
「どういう意味かしら?」
「
蒼介は画面を北野さんに向ける。
「はいし。
ありがとう、と蒼介は言うと、
「廃止すべきじゃないこと、だって」
と読み上げた。
「難しいわね。初めて聞いた。
「僕も」
「蒼介くん物覚えが良いから、これでまたひとつ賢くなれたわね」
そういって、北野さんはコーヒーカップに口を着けた。北野さんに誉められるとなんだか特別な感じがした。蒼介も見習って、淹れてくれたホッとココアをひとくち。砂糖がふたつ入っているのか、甘くて美味しかった。
蒼介は昔から記憶力が良かった。子ども特有なのかもしれないが、一度みたアニメのセリフや、読んだことのある絵本のページ数まで間違えず覚えているのだ。
「あと、これもなんて読むの?」
「
「ふーん」
――
むやみやたらと廃止するべきではない。
意味はわかった。けれど、小学五年生の蒼介にとってはいまいちピンとこない。問題はこれをどうやって作文にするのか、だ。はたして原稿用紙一枚にまとまるのか。
「そういえば、蒼介くんたちは今年もお母さんのご実家に帰るの?」
「え? そうだよ」
毎年の年始、蒼介たちは母の実家に帰るのが恒例だった。もちろん眠ったままの母も連れて。この街とは違って母の実家は絵にかいたような田舎町なのだ。蒼介にとって毎年の帰省は、密かな楽しみでもあった。
「たしか、従姉のお姉ちゃんが、こっちの方に詳しいっていってなかった? 去年大学生になった、あの……」
「
「そうそう、薫ちゃん。やっぱり蒼介くんは記憶力が良いのね」
北野さんがチャカしてきたから、蒼介はハニカミながら「やめてよ」とパソコンに向き直った。
でも、薫姉ちゃんならもっと詳しく教えてくれるかも。たしか中国のお勉強をしてたんだっけか。
なんだ、簡単じゃん――
とたんに、『告朔の餼洋』が簡単な言葉に見え始めた。
そして、ちょうど北野さんが夕飯の支度をはじめたところで、その日はパソコンを閉じたのだった。
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