▶︎▶︎ ▶︎01_b.春雪

 あぁ、今日から始まる、色んなことが。

 蛍光灯に付いた豆電球の、赤い薄ぼんやりとした光に照らされた六畳間。

 ボクは布団の中で一人にやにやしていた。


 まず、一つ目。

 見上げれば、ピアノがある。

 部屋の主のような顔をしてででんと置かれたグランドピアノ。

 山の中に小さいけど一軒家を借りられたのは運が良かった。

 かなり年季の入った平家の文化住宅だし、学校からは結構離れているけれど。

 でも、山の中ならどれだけピアノを弾いても文句は来ない。

 好きな時に好きなだけ弾くことができる。

 部屋が狭いからピアノの下に布団を敷くことになっちゃったけど、些細な事さぁ。


 そして、二つ目。

 頭に乗る、水で濡らした辛子色のハンカチに手を当てる。

 これを貸してくれた素敵な声の車掌さん。

 犬吠埼いぬぼうざき凍江こごえクン。

 骨董品みたいなボンネットバスが駅と大学を繋いでいることに驚いて。

 車掌さんがまだいることに驚いて。


 そして、あの歌声。


 バスが雪降って、立ち往生して。

 キミが外に出ていた時に聞こえてきた歌声。

 かすかだったけれど、それは特別な声だってすぐに気がついた。

 決して大きくはないし、厳密にはそれは歌ですらなかったのかもしれない。

 でも、あれは何かに抗おうとする者の声だ。

 自分を鼓舞するために、自らの魂に火を入れる者から溢れ出て来た旋律。

 微かだけれど、確かにボクの心にそれは届いた。


 そう、あの声は間違いなく聞いた人の心に火を入れる。

 彼の声は心を照らす優しい光じゃない。

 燃やしのたうつ激しい炎だ。

 今まであのバスに乗っていた音大生はそれに気づいていなかったのか。

 あの声の力を知らないで見過ごすならそれは仕方ない。

 だけど気がついていて、世に送り出す努力をしないのなら、そいつは罪人だ。

 モーツァルトの未発表曲の楽譜で尻を拭く位愚かな行いだ。

 そして生憎、ボクは人類の罪人になるつもりはない。

 どんな手段を使ってでも、キミの声を世に送り出す。

 キミの声が人々の心に火を付ける様を、人々の熱狂を、両の耳で聞き届ける。


「えへへぇ、その時が楽しみだなぁ」

 ありゃりゃ、声出ちゃった。

 まぁいっか。誰に聞かれるでもなし。

 今日から楽しい一人暮らしな訳だし。

「楽しそうだな」

「うん。四月からねぇ、バスで毎日あの声が聞けるからさぁ」

凍江こごえのことか」

「よく判ったねぇ」

「判らない訳ないだろ」

「もしかしてぇ、キミも凍江クンの歌の魅力に気づいているのかい?」

「あの凡人のどこに魅力が?」

 ぶぅ。異論あり。

「キミこそ凡人じゃないかぁ。凍江クンの魅力がわからないなんて。あのコ顔だって結構可愛いんだよぉ」

「……本気か?」

「本気本気ド本気ィ。ボクがあのコに歌を教えて、天下取るからさぁ」

「重症だな。久しぶりに会ったと思ったらこんな大掛かりな仕込みまでして」

「ところでさぁ」

「何だ」

「キミ、誰かなぁ」


 おでこに当てたハンカチを手で押さえ、首を隣の部屋、食卓が置かれた台所へと向けた。

 豆電球の薄暗い明かり一つしか付いていなかったから、声がした隣の部屋の様子は暗くてよく見えない。

 やっぱり誰もいないのか。

 熱で頭がおかしくなったのかなぁ?


 そう思い始めた時、は暗がりからぼうっと浮かびあがってきた。

 目が慣れて来たのか、闇の中にぼおっと白いシルエットが浮かび上がる。

 ロングドレス?

 というよりは、花嫁衣装か。

 食卓机に備え付けられた椅子に座ったそいつは、すうっと立ち上がるとこっちに衣摺れと共に歩み寄ってくる。

 枕元まで近寄ると、そいつはしゃがみ込んでボクの顔を覗き込んできた。

 けど、そいつは花嫁衣装ばかり白く浮き出て見えて、肝心の顔が闇と同化して認識できない。

「やっと見つけた。背も胸もずいぶん小さくなったな」

 失礼な奴だなぁ。

 全体的に可愛らしいって言ってくれ。


 それにしても顔の見えない花嫁衣装とは。

 う〜ん、これはあれだな。

「はぁー、幽霊屋敷かぁ」

 まぁ、屋敷って感じじゃないけど。

 頭が熱でやられて幻覚でも見てるのかなぁ。

「寝ぼけているだろ、お前」

 幽霊が聞いてくる。

「いやぁ、心配してくれてありがとぉ。結構熱があるみたいでねぇ」

「肉体酔いか?」

 闇と同じ色の手が伸びて来て、ハンカチを退けておでこに触れる。

「ひゃっ、つめたぁ!」

「お前が熱すぎるんだ。ひどいな、これは。随分と細菌にやられている。感染場所は……」

 おでこに当てられた手に自分の手を重ねる。

 うん、触れる。触れるぞぉ。決めの細かい触り心地の良い手。

 ってことは……


「オマエ、幽霊じゃないじゃないかぁ!」

「どういうキレ方だ」

「誰だ一体ボクの家に勝手に上がり込んで来てぇ!」

うるさいな。検査も兼ねてちょっと黙らせるか」

「何だぁ、黙らせるってぇどうするつもりだぁ!」

「こうするつもりさ」

 おでこに当てられた手が動いてすうっとボクの顎に当てられる。

 と思うと顔が近づいて来て湿ったもので口を塞がれた。

 突然のことに何が起こったのかわならない。

 けど遅れて自分がコイツに口付けをされたのだと脳に達する。

 あぁファーストキッスは凍江クンみたいな可愛い男の子に捧げたかったなぁ。

 じゃないおいふざけんなコイツ舌まで入れて来やがって無礼な奴め。

 抵抗しようと手を振り上げたところで頭のnakあが、sいろく光ってaa意識がfrgtひゅじこlp;@:「」! ……


「記憶に蓋か。自主的なものか、それとも魂の残量の影響か」

 ……

「感染症の原因だった雑菌供の魂は回収しておいた。明日には体調も回復しているだろう」

 ……

「今日はこれで失礼するぞ。体調が悪そうだから、記憶の鍵を開けられそうに……なんだあの音は」

 玄関の戸を叩く音。

 ドレスの女はしばらく無視を決め込んでいたけれど、その音は断続的にしばらく続く。

 男の声がする。

 女は観念したように立ち上がり、玄関のある台所へと消えてゆく。

 鼓膜は揺れ、網膜は女の姿を受光し続けるが、脳にその信号は届かない。

 やがて瞼は落ち、虚無が訪れる。


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