第二章:舞台

▶︎▶︎ ▶︎05.舞台

 週明け月曜日。

 先輩達の機嫌がいい。

 有奈華ありなかさんがまた始発のバス停に現れたからだ。

 その一報は瞬く《またたく》間に寮中を駆け回り、見送りに非番の先輩達が押し寄せた。

 ひとしきり盛り上がった後でご機嫌でぼくが開けた扉から中に乗り込んだ。

 なんとなく土曜日の夜のことがあるから照れ臭い。

 有奈華ありなかさんは気にした風でもないけど。

 先輩達の視線が痛い。

 軽い足取りで淡い金色の束ねた髪を揺らしながら、てててっと後部座席まで行くとその中央にでんって感じで座る。

 そして扉を閉めると、有奈華ありなかさんは高らかにこう宣言したのだった。


「では、記念すべき第一回目の個人レッスンを始めまぁす!」

 わーぱちぱちぱち。

 一人はしゃいだ様子で拍手をしている。

 ご一緒にぃ? みたいな顔されてもしませんからね。

「発車オーライ」

 ぼくが合図を送るとスカさんががこんとクラッチを入れる。

 おんぼろが呆れたようにぶぶぶとエンジンを震わせながら坂道を下り始めた。


「えっと、いいですか」

「こらこら、レッスン中にボクに用がある時は先生と呼びなさい。まぁ、凍江こごえクンには特別に六音ろくねチャンと呼ぶことを許可しますが」

有奈華ありなかさん」

「チェッ」

 何不貞腐ふてくされているんですか。

「練習って、ここでやるんですか」

「そうだよぉ」

 滅茶苦茶バスの中じゃないですか。

「あの、練習を受けるとは言いましたけど、場所選んでもらえますか」

「? ここうってつけの場所じゃないかぁ」

「ここ、バスですよ」

「かもねぇ」

「かもって」

 他に何に見えるんだ。圧倒的に、具象的にバスなんですけど。

 有奈華ありなかさんは訝しがるぼくを見てくつくつと笑う。

「でもボクにはこう見えているんだよぉ」

 そして、目を閉じ深呼吸をしてから再び目を開き。

 両手を広げてこう高らかに宣言した。


「ここはさぁ、キミのために用意された舞台ホールです」


「ホール?」

「そう。ホール。有奈華ありなか凍江こごえ劇場」

「……今一意味がわからないんですけど」

「ここに乗って来るのはぁ?」

「……お客さんですけど」

「そう、みんな君の声を聞きにここに来ている」

 滅茶苦茶どや顔している。いやいや、さすがにそれは。

「皆さん移動のために乗って来ているんじゃないですか。別にぼくの声を聞きに

来ているわけじゃ」

「本当? 一昨日あんなにみんなを盛り上げたのにぃ?」

「あれは……あの一日だけのことじゃないですか。大体歌ったわけじゃないですし」


「でもさぁ、ここに乗ったら、キミの声を絶対に聞かなくちゃいけない。そのことは本当でしょ?」

「まあ、そうですけど。まさか……ここで歌うってことですか?」

 急に動悸が激しくなる。

「ここでは歌わないよぉ。そして、今日は練習というよりもこれからやる事の説明って感じかなぁ。よっと」

 有奈華ありなかさんはひょいと立ち上がると、てててっと木製の床をこっちに向かって歩いて来た。

「ちょっ、走行中は立ち歩かないでください!」

「わちゃちゃっ」

 ほら、言わんこっちゃない。

 バスが揺れ、転げそうになる有奈華ありなかさんの手を取り、ぼくの立つ入り口横の車掌台の手すりに捕まらせる。

「危ないから止めてくださいよ」

「ありがとぉ。優しいなぁ、凍江こごえクンは」

 にこっと笑う顔が近い。こういう時の顔がやたら可愛いからたちが悪い。

「し、仕事ですから」

「仕事でも、だよぉ。よっと」


 掛け声と共に車掌台の横の窓を押し上げる。

 山側の日陰の風が車内に入ってくる。

 有奈華ありなかさんは窓を開けると、そのまますとんと座席に小さなおしりを下ろす。そして、そのまま壁伝いにすすすっと車体後部まで座りながら移動した。

 まあ、確かに立ち歩いてはないけど……


 車体左側の後ろの席で足をぱたぱたさせながら、こっちに向かって話しかけてくる。

「ボクの声、さっきと比べてどうかなぁ?」

 ぼくと有奈華ありなかさんの間には空いた窓があって、そこからは春の風と共に風切り音が入ってくる。

「そりゃ、ちょっとは聞こえづらいですけど」

「だよねぇ。それじゃ」

 今度は後部座席を伝って、右側の後部座席に座る。


「どぉ? 凍江こごえクン愛してるよぉ」

「すみません全然聞こえないです」

「なんでだよぉ! そんな訳ないだろぉ!」

「いや聞こえてますよ言っている内容が意味わかんないだけで」

 距離はさっきよりも離れている。けど。

「でしょお? 音の通り道に空気の流れが無いからねぇ。音は空気の振動だからさぁ。じゃあ、これが夏になったらどうかなぁ」

 扇風機は天井に付いているけど、稼働させても全体が冷えることはない。

「窓は全て解放、ですね」

「そ。条件は今のよりずぅっと厳しくなるよねぇ」


「じゃあ次。目を瞑って見てくれるかなぁ?」

 運転席をちらっと見る。

 バックミラーでスカさんと目が合ったけど、無言で前を向いた。

 カーブもきつくないし、視界は良い区間だ。

「少しだけですよ」

 そう言って目を瞑る。

 すると、ちょっとだけ音の聞こえ方が変わった。


 窓を開けた時にも感じたけど、もっと音の種類が多くなる。

 木々が風で擦れる音。

 路面をタイヤが擦る音。

 川のせせらぎ。

 地面の凹凸が床板を軋ませ、ガラスが揺れる。

 つり革が揺れ、ゴムがぱたぱたと音を立てる。

 スカさんが運転席でシフトを変える。 

 どこかで、鳥が鳴いている。


「きこえる? これがキミがいつも無意識にきこえないことにしているおと」

 これ、ぜんぶ。

「キミにはあたまえすぎて、認識するかちがないんだよねぇ。それと」

 それと?

「すこしボクがなにを言っているのか、わかりづらいでしょ?」

 確かに。

「ちょっとは予想、ついているよねぇ」

 多分あれかな。

「口の動き、ですか」

「め、あけて」

 囁くような声に促され瞼を開けると、目の前に息が掛かりそうな距離に有奈華ありなかさんの顔。

 思わず車掌台の後ろの壁に半歩後ずさる。

 有奈華ありなかさんはしししっとしてやったりみたいな顔。


「半分は正解。あとは目。目を見た方が伝わるでしょ」

 なんとなく週末、バスでの即興のことを思い出す。

 目が合った時に、確かに何かが伝わってきた感覚。

「声は音だけどさぁ、意味を伝えようと思ったら視覚もその手助けがでる。そして伝えにくい場所にいる人にもどう伝えるか」

 くるっと身を翻すと、ぼくの隣の席にすとんと腰を下ろした。

 そして、ちらりと目を前に向ける。

 つられて、ぼくも目を動かすと、もうすぐ駅の近くという所まで来ていた。

「ねっ!」

 目は前を向いたままだけど、有奈華ありなかさんは笑顔なんだろうなとわかる。


 バスは駅のロータリーに入り、停留所に留まる。

 お客様の学生証を確認しながら、さっき車内で有奈華ありなかさんに言われたことを頭の中で反芻はんすうしていた。


  キミがどう思おうと やっぱりここはキミのホールさぁ

  みんなが乗って来て キミの声を聞き そして出てゆく

  だとして キミはどう声を届かせたい?

  お客さんに ここを出て行く時 どう思ってほしい?


  キミにここでして欲しいこと

  一つは 声をみんなに届かせる方法を身に付けること

  一つは キミのお客さんに気持ちよく降りてもらう案内をすること

  そして 声を出すことが 気持ちいいって キミが思うこと

  それを まいにち この舞台で


 成る程、と思った。

 確かに歌わないけど、人に声をどう届かせるか、毎日の業務の中で色々試せる。

 自分の声を聞くために来てくれているって訳じゃないけど、ぼくの案内で気持ちよくこのバスを降りて行くことができるなら。

 悪くない。

 悪くないと思う。

 旗を振ってロータリーからおんぼろを外へ誘導。

 運転席のスカさんと目が合う。

 おんぼろがのんびりエンジンをぶるんと言わせる。

 中に戻ると、朝だからそんなにお客さんはいない。

 車体前方にはスカさんのファンの女生徒さん達。

 後部座席には、職員の方と男子生徒さん。

 一人でコントラバスを持って乗り込んだ勅使河原さんは、後部座席で有奈華ありなかさんの隣に座っていた。

 目が合ったので会釈をする。

 車掌台に立つと、出発の案内をする。

 こうして、ぼくの舞台が始まった。


                  ▶︎▶︎


 行き帰りのバスの中で、ぼくへの指導が有奈華ありなかさんから入る。

 指導は発声の方法などの技術的なことと、どう声を受け取ってもらうかという感覚的なこと。

 朝、行きの営業所から駅までの間にその日の課題が発表される。

 大体一日一つ。

 出された課題を意識しながら仕事をする。


 案内をする時は車両全体を見回すように。

 その時に目が合ったら、大体降りる人だからさぁ。

(確かに、手を挙げる確率は高かった)

 人が密集して後部座席が見えない時は、声を天井に声を当てて。

 ただ、声は届かせるんだけど大声には聞こえないようにねぇ。

(無茶言わないでくださいよ)

 今日は雨が降っているねぇ。

 ちょっと面白そうだから、話すテンポをワイパーに合わせてみる?

(スカさん、何でワイパーのbpm変えられるようになってるんですか?)


 お客さんがキミの劇場から時に、どういう読後感を持ってもらうか。

(小説でもあるまいし)

 朝は少し明るめの声で。

 みんな寝起きで頭がすっきりしていないだろうし。

 夜は少し低めに、落ち着いた感じで。

 授業受けて、みんな疲れた後だろうしねぇ。

 その時乗り合わせたお客さんが全体的にどういうか、見極めてねぇ。


 夜の終バスに有奈華ありなかさんは乗って来た。

 授業だけでここまで遅くなることは、部活か何かやってるのか。

 勿論世間話などせず、大学と駅の間ぼくがお客さんに案内をするのを黙って後部座席で聞いている。

 そして川野辺駅で他のお客さん達が降りた後、営業所に戻るまでの区間で助言をもらう。


「ご乗車ありがとうございました」

「はい、ご褒美。それじゃあ、また明日ねぇ」

 たまにそう言って都こんぶを渡してくる。

 始めのうちは断っていたけど、ちょっと悲しそうな顔をされるので素直に貰うようにした。

 ちょっと餌付けされている犬の気分だ。

 そして、鼻歌を歌いながら山道へと消えてゆく有奈華ありなかさんを見送りながらバスの扉を閉めるのが日課になっていた。


 営業所の駐車場はこの規模のバス会社に比べ必要以上に広い。

 昔この先へと道を作りトンネルを掘るための工事基地だったらしい。

 だだっ広い駐車場の真ん中に、宵闇に煌々と照らされた給油機がある。

 そこにバスを横付けして、スカさんがガソリンをおんぼろに飲ませていた。

 その間、ぼくは車内に忘れ物がないか点検をする。


 ぼんやりとそこにさっきまでいたお客さんの姿を想像する。

 そして、後部座席に定位置が変わった有奈華ありなかさんの姿も。

 日常はゆっくりとその姿を変えてゆく。

 一年前は、仕事に慣れるのに精一杯だった。

 今は、音大生に案内の練習(?)をしてもらっている。

 一年後もこれをやっているのか。

 有奈華ありなかさんが卒業する四年後はどうなのか。

 その後は?

 想像しようとするけれど、上手くいかない。

 窓の外には営業所と寮、それに蕎麦そば峻厳しゅんげんさんの明かり。

 ここから見ると、何だかものすごく遠くの世界のように見える。


 出入り口から身を乗り出すと、スカさんはバスにガソリンを飲ませ終わったところだった。

 ぼくが分けた都こんぶを口に咥えてぐもぐさせている。

 給油中は火気厳禁だし、車内禁煙なので最近のお気に入りだ。

 かくいうぼくも口の中に一つ放り込んでいる。

「スカさん、車内点検終了です」

 スカさんは無言でゆっくりと頷く。

「あの」

「何だ」

「最近すみません。バスの中で、業務に関係ない事、してまして」

 ノズルを給油機に掛け電源を切ると、入り口に向かって歩いて来る。

「誰に迷惑かけているわけじゃない。気にするな」

 長身を屈めてバスに乗り込むと、ぼくの頭を帽子越しにわしゃわしゃ撫でる。

「案内の練習、だろ」

 運転席に身を屈めて座ったのを見て、ぼくも二つ折りの入り口の扉を閉め、車掌台へと戻る。

 エンジンを掛けると、おんぼろは満足そうな声を出しながら他のバスが停まる駐車場へと鼻を向けた。

 大した距離じゃないけど、ゆっくりと進む。


「機会があったら」

 不意にスカさんの声がした。

「機会があったら、それを逃すな。社会に出たら、褒められる事なんて滅多にない。額面通りに受け取って、ありがとうって言えばいい」

「……わかりました」

 おんぼろはバスの列の一番端に収まり、エンジンが止められる。

 スカさんと一緒に降りると、鍵の返却とぼくは車掌鞄の返却、それに身体検査を受けるために事務所へと足を向ける。

「スカさん」

「何だ」

「ありがとうございます」

 スカさんは一瞬闇に向かって顔を向けてからこっちに向き直り、わしゃわしゃとぼくの頭を撫でた。


 先のことがどうなるにしろ、有奈華ありなかさんの練習があるのが新たなぼくの日常。

 歌のことはどうなるか、自分にもわからない。

 だけど、まずは与えられた練習をきっちりして、その先のことはその時に考えよう。

 出会いは滅茶苦茶だったけど、有奈華ありなかさんとのやり取りは決して苦痛ではなかった。

 そう、ぼくは案外この穏やかな新しい日常が気に入り始めていたのだ。

 

                  ▶︎▶︎


 そんなふうに考えていた時期が、ぼくにもありました……

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