▶︎▶︎ ▶︎06.露見

 そう、平穏な日々なんてものは一日あればあっという間にひっくり返る。

 春、雪の日に有奈華ありなかさんと会ったように。

 連休も過ぎた五月の半ばの朝に、それはおじさん二人の形をしてやってきた。

 だけれど全ての災難がそうであるように、その二人がぼくにとって破滅の使者であったことなどその時は知る由もなかったし、為す術なくその日の終わりを迎えることになった。


 午前の十時台の便。

 バス停に学生さんの他に、おじさん二人組が混じって煙草を吸っていた。

 一人はスーツに眼鏡をかけて髪を七三に分けた役所の係長といった感じ。

 もう一人はでっぷりと太って禿げ上がった、村の顔役って印象。

 顔役は曇り空で少し肌寒い位なのに、おでこに大量の汗をかいている。

 初めてみる方達だな。

 教職員証明書や、当然学生証の提示もなし。


「すみません、車内禁煙なので……」

 煙草を吸いながら乗り込もうとしたので、お声掛けする。

「んっ、そうなのねっ」

 驚いたような顔をする。

 まあ、だよな。禁煙のバスは珍しいから。

「はい。音大生さんがお乗りになるので、喉の保護のためにそうさせてもらってますので。申し訳ないですが」

 二人は素直に停留所の看板に備え付けてある缶からで作った灰皿に捨て、車内へと入ってゆく。


 ロータリーから車道への誘導をして車内に戻ってみると、二人揃って後部座席に座っていた。

 音楽を学ぶ学生さん達の中で、いかにも地元の人って感じでなんとなく浮いて見える。

 まあ、街中で見ると、音大生さんの方がこの土地からは浮いて見えるけど。

 バスを出発させてから、学生さんの間を縫って後部座席に切符を売りに行く。


「どちらまで参りますか」

「んっ、じゃ、終点の大学までお願いできるかねっ」

 顔役がと答えながら汗を拭く。

 30円の料金に対して係長はきっちり小銭で、顔役は千円札で支払いをした。

 切符の駅と大学の所に鋏で穴を開け、お釣りと一緒に渡す。

 顔役は無造作に服のポケットに小銭を突っ込んだ。


 出入り口横にある車掌台に戻ると、何とはなしに二人を見る。

 係長は顔役に何かをぼそぼそと相談しているようだった。

 顔役は「んっ、しかし大ごとですからな!」とか「んっ、うまく行くといいですな」とか「んっ、まあ上手く行くでしょう!」とか「がはは!」とか「がはは!」とか「がはは!」とか兎に角声が大きかった。

 何だろう。大学に何か相談しに行くのかな。

 結構大雑把な性格なんだろうな。

 なんか切符無くしそうなタイプ。

 

 いけない、おじさん達の観察をしている場合じゃない。

 顔役の声が割と早口だから案内はいつもよりゆっくりにしてみるか。

 あとはちょっとだけ声高めにしておく?

 その方が顔役の低めの声との分離が良さそうだし。

 有奈華ありなかさんの指導もあって、最近は周りの状況に合わせて声をどう出すか頭の中で組み立てるのが習慣になりつつあった。


 大学に着くと案の定、顔役は切符をどこに仕舞ったかなと探し始める。

 散々探した挙句に、小銭を突っ込んだポケットの奥の方から見つかった。

 見つかってよかった。

 切符と売上に差異があると、色々と面倒だから。

 頭の中に、営業所の事務所で足を組むジャケットスーツの女性ひとが頭に浮んだ。


                  ▶︎▶︎


「では、脱いで頂けますか?」

 黒川さんが煙草の煙と共に静かにぼくに命令をする。

 籐でできた椅子に座る黒いジャケットを着たその姿は、大人の女性の色気を感じさせる。

「はい」

 ぼくに拒否権はない。

 もちろん、断るつもりもない。


 午前の業務が終わった後、事務所裏の共同浴場。

 妙にしんとした脱衣所で黒川さんと二人きり。

 制服代わりの学ランを脱いで、脱衣籠に入れる。

 それからシャツのボタンを一つ一つ外してゆき、ぼくの薄っぺらい体が露わになってゆく。

 靴下を脱ぎ、ベルトに手をかけファスナーを下ろすと、ズボンを脱ぎ去った。

 ぼくの体が黒川さんの視線を受け止める。


「回って?」

 言われるがままにその場でゆっくり一回転。

 黒川さんは足を組んだままじいっとぼくをみていたけれど、ふうっと大義そうに紫煙と共にため息をついた。

凍江こごえ君、椅子を持って着て座ってもらっていい?」

「な、何か疑わしいこととか……」

「いいから、持ってきて?」

 なんだろな。

 いつもの検査とちょっと違う。


 ぼくら車掌は乗車勤務の後に、経理の黒川さんに必ず身体検査を受けていた。

 理由は、売上金の着服防止のため。

 街の方の路線では、乗客の数が多いからどさくさに紛れて切符切るときに細工して売り上げをくすねる車掌がいたそうだ。

 だから、バスの営業所にはどこもお風呂が併設されていてそこで乗車後に身体検査を受けることになっていた。


 去年の春は、黒川さんの前でパンツ一枚になることが恥ずかしくてたまらなかった。

 けれど一月もすれば慣れてしまい、黒川さんの前で服を脱ぐことに抵抗を感じることもなくなった。

 それは視線が良い意味で冷めていて、ぼくの体を物として見ているからかもしれない。

 この人と一緒だったらバスの中に二人きりで閉じ込められて、なぜかぼくがパン一だったとしても、何も起きない自信がある。

 ごめんなさい言い過ぎました自信なんて一ミリもありません。


 ところで、いつもはくるっと回って服を確認してそれでおしまい。

 黒川さんは出て行って、ぼくは体の汗をざっと流してすぐ出るという流れだった。

 それが座って話とは、どういうことだろう。

 黒川さんの向かいに部屋の隅から椅子を持ってきて座る。

 すると、すっと手が伸びてきてぼくの腿に手を置いた。


「ちょっ、な、何をするんですか!」

 思わず後ろに椅子ごとちょっと飛び退く。

「失礼、ちょっと気になることがあったので確認させてもらいましたね?」

 すぐに手はすっと引っ込んで腕を組み、難しい顔でぼくを見る。

 何がなんだか訳がわからない。

 そんなぼくの疑問にはお構いなしに、咥えていた細身の煙草の灰を隣の椅子に置いた灰皿に叩き落とすと、ゆっくりと口を開く。


凍江こごえ君、厄介ごとの種を抱え込んでいますね?」

「厄介ごとの種?」

「身に覚えがないですか?」

「よくわらかないですけど」

「では、何故急に体力作りを始めたのですか?」

「……体力作り」

 何のことかわからない。そういう顔をしたつもりだった。

「私に隠せると思っているんですか? 毎日君の裸を見ているんですよ」


 あ、そうか。

 さっき手をぼくの足に置いたのは確認をしていたんだ。

 筋肉の締まり具合とか、きっとそういうことに違いない。

「君が何を抱え込んでいるのか、私にいう必要はないです。ですが、君は人に黙って体力作りをこの一月内に始めた。そのことを周りの人は気がついていないと思いますか?」

「え、気がついているんですか?」

「認めましたね?」

 あっ、と思った時は既に遅かった。


「……誘導尋問じゃないですか」

「ごめんね? でも、他の人も気づいているというのは本当。最近京子ちゃんがあなたの昼食に親子丼とか、よだれ鳥とか、棒々鶏とか、揚げ物ではない鳥料理ばかり勧めてきていませんか? あるいは豆腐や納豆などの大豆製品を勧められますよね?」

 確かに……

 前はずうっとカレーでも何も言わなかったし、体調気をつけてくださいねと言って野菜を勧められるくらいだった。

 でも、最近得に昼に言われるがままに勧められた鳥料理ばかり食べている。


「君が運動をしているのは昼終わった後です。最近昼の勤務後のお風呂に入る時間が、この身体検査の後から夕方の勤務前に変わったのでわかりました。京子さんがどこであなたが運動を始めたのに気がついたのかはわかりません。概ね朝食を運ぶ時の君の体幹を見てかと思いますよ?」

「体幹?」

「おにぎりの入った桶を持って京子さんと一緒に朝食を運びますよね? おそらく桶を持って歩くときの体がぶれなくなったとか、そういうところで気がつくかと。運動している時間は、そうですね、あなたの生活リズムから推測したとか。朝は仕事の準備で忙しいですし、夜は終バスですからね? 空いている時間は昼食から夕方の勤務の間が一番かと。だから筋肉をつけてもらうために、タンパク質を取るようにしてくれているのだと思います。タンパク質は運動前、もしくは後の三十分に摂るのが効率的ですからね?」

 話を聞きながら唖然とした。

 みんなぼくのことなんて注意を払っていないと思っていた。

 けれど、日常そんなところまで観察して、それから色々分かったりするってことか。


「どうです? 当たっていますか?」

「なんか、名探偵の推理を聞いているみたいな気持ちです」

 細く繊細な指で煙草を灰皿でもみ消す。

「誤解して欲しくないのは、私が君の秘密を暴きたいわけではないということです。君は人に言わずにひっそりと運動をしている。そして、何故そうしているのかということを伝えるつもりはない。そうですね?」

 問いに対して、こくりと頭を縦に動かす。

 ぼくが運動をしている理由。

 それは、歌へと繋がる。

 ぼくが歌の練習を有奈華ありなかさんから受けていると知られたら、みんな変にぼくに期待してくるかもしれない。

 今は些細なことでも人に知られたくなかった。


 黒川さんはその様子をじいっと見ていたけれど、ふうと小さく息を吐く。

「私が懸念しているのは、君が隠したいことがあり、その一端が皆に気づかれ始めているという点です。老婆心ながら助言を一ついいですか?」

「是非」

 黒川さんは、急に顔をふにゃっと緩める。

「? どうしたんですか」

「君は本当に可愛いですね」


 突然脈絡のないことを言われて、意味がわからない。

 ちょっと後から頭に理解が達して、耳が赤くなるのがわかる。

「な、なんですか急に……」

 黒川さんはそんなぼくのことを見て目を細めると、顔を仕事用のものに戻して先を続けた。

「人は全てを完璧に隠蔽しようと思ってもなかなか難しいです。伝えていいことは伝えて、その上で嘘にならない程度の適当な情報を混ぜてみてください。いいですね?」

「嘘にならない程度の適当な情報、ですか」

「練習してみましょうか? 質問しますね? 何で運動を始めたのですか?」

「えーっと……」

 いきなり問われるとなかなか頭に適当な理由が思いつかない。

「ちょっとマッチョに憧れてまして……」

「成る程。では筋肉バカの大口に、だったら私と筋トレしようぜって言ってきたらどうしますか?」

「あー……なら、休んでいる時に何もすることがなかったので、ちょっと運動でもしてみようかというのはどうですか」

「それですと、暇なら俺に付き合えよと橋本達の花札に付き合わせることになりますね?」

「成る程……」

 なんだろう、嘘にならない程度の情報って。

うまくいかないな。


「そうですね。中学時代に運動は好きでしたか?」

「いえ全く」

「でしたら、車掌の仕事は立っているのがこんなに重労働だと思わなかったから、体力作るために運動を始めたというのとか。業務に関わることですから橋本達も花札に誘おうと思わないでしょうし、大口が過剰な筋トレに誘ってきても疲れると仕事に支障があるからと断れます。何より、君の中でも嘘にはならないですよね?」

「成る程」


「運動のことは何となく皆に気づかれ始めています。君がそこまでして隠したいことが何かは私にはわかりません。一番の問題は、全てを完璧に隠蔽しようとしすぎると、あなたが一番隠したいことに余計に注目が集まることがあります。そうすると、あなたにとって厄介な事態になりますから。その点はよく考えておいてくださいね?」


 助言ありがとうございますと頭を下げると、黒川さんは長々失礼しましと言って立ち上がった。

 ぼくは風呂には入らずに、そのまま服を着て営業所向かいの蕎麦の峻厳しゅんげんにお昼を食べに行く。

 入り口入って京子さんに勧められたのは、鶏胸肉とブロッコリーのクリームスパゲティー。

 店の中の先輩達を見て、黒川さんの助言が頭をよぎる。

 ハシモさんに自分が山を走っていることを話すところを想像してみる。


 ……


 やっぱり自分から運動をしているって言うのは難しい気がする。

 うん、部屋の中で練習してからにしよう。


                  ▶︎▶︎


 正直、山道を舐めていた。

 歩けば子供でも難しくない裏の山道も、走るとなると足元も凸凹しているし少しの高低差も歩く時の倍くらいの負担を感じる。

 しかも、有奈華ありなかさんからは息は口でしないようにと厳命されていた。


 昼食の後一旦部屋に戻ってから、気づかれないように営業所裏の山の中へ。

 軽く準備運動をした後、獣道を伝ってハイキングコースへと入る。

 始めはほんの小走り。それから徐々に速度を速める。

 そして、すぐに息が上がる。

 時々苦しくて鼻から鼻水噴くのを、ジャージの袖で拭う。

 走るには気温も気候も丁度良い季節な筈だけど、汗が流れ出て止まらない。

 周りから見たら小走り、ひどい時は単にぜえぜえ言いながら歩いていると行った有様。


 こんなので走っているなんて言ったら、あのおんぼろバスが怒るかもな。

 何だかんだ言って、山間の坂道を音大生さんを何十人も乗せて登れるもの。

 今度ちょっと気合い入れて掃除してやろうと気持ちになる。

 もちろん車掌だって、基本体力勝負の仕事だ。

 勤務の間はずうっと立っているし、すれ違い誘導などで外に出ることも多い。

 だから、走るってことを舐めていた。

「別に競争をしようってわけじゃないんだから無理はしないで。まぁ、どうせここで走るとなると坂ばっかりの道路かハイキングコースになるからさぁ。結構キツイと思うよぉ?」

 有奈華ありなかさんの声が頭の中で再生される。


 楽なのは、道路の方かなとは思う。

 けれど、それをするとなると駅の方に走ればバスが通ってみんなに見られる。

 坂の上に走ったとしても、行き帰りはみんなに目撃される。

 まだ山の中に入る方が目立たないかなと思って、山道を走ることにした。


 別にみんなに見られることが恥ずかしい訳じゃない。

 ただ、走っている理由の方が問題だった。

 有奈華ありなかさんに、肺活量と基礎体力を付けておくためという理由で「まずは一日三十分で良いからさぁ」と、走ることを課題として与えられた。

 別に十七の若者が体力作りとして走り始めること自体は珍しいことじゃない。

 黙っていれば有奈華ありなかさん云々は気づかれない、と思うかもしれない。

 けど、女性の勘とここの営業所の暇さ加減は侮れない。

 テレビの電波すらかなり微弱だから、まともに見られるのは峻厳さんの所と、営業所の事務所にある娯楽室の一台というお寒い状況。

 ラジオもAMしかまともに聴けない。

 営業所内の些細な変化でもみんなの興味を引く。

 何か質問された時に上手く切り返せる自身が正直なかったので、人目につかないように山の中を走ることにしていた。


 体育会系の車掌、大口先輩と山を走っている時に最悪鉢合わせってことも考えられる。

 けど、シフトは基本被らないから大丈夫なはずだ。

 男の先輩たちはみんな花札か麻雀に夢中だし、みんな山には飽き飽きしているのでこっちにくればまず見つかることはないと思う。


 走りながら腕時計を見ると一時四十五分くらい。

 寮を出たのが一時半だから、もう折り返してもいい時間。

 でも、戻っても部屋で仮眠するだけ。

 ならもう少し、先まで。

 歩くには易く、走るにはきつい緩めの坂道が終わって、ちょっと岩場っぽくなっている一番の難所へ。

 ここはもう走ることはできなくて、ぜえぜえ言いながら体を持ち上げる。

 そうやって登り切ると、この前来た時よりもさらに背が高くなった茂みに分け入り、奥へ。


 そうしてたどり着いたのが、見晴らしの良いちょっとした踊り場。

 有奈華ありなかさんとの賭けの期日前に来たのと同じところ。

 ここは、ジョギングを課題の中に取り入れる前から知っていた。

 半年ぐらい前に見つけた、ぼくだけの秘密の場所。

 今までも、たまにここに来ては歌っていた。

 有奈華ありなかさんと会うようになってから、ちょっと遠ざかっていた。

 最近走るようになってから、また顔を出すようになった。


 地面に腰をかけると、ぼんやりと箱庭のような光景を見る。

 道路、バス、駅、大学、街。

 背中に括り付けた鞄から小さな水筒と都こんぶの赤い箱を取り出す。

 一口飲んでから、箱から一枚引き抜き口の中に放り込む。

 桜はとうに散り、明るい黄緑が山々を彩っている。

 空は雲が垂れ込めているけど、まだ降り始めるってわけじゃない。


 そうやって気持ちが高まるのを待つ。

 蝶々が二匹のんびりとぼくの周りを飛んでいる。

 よし、やるか。

 腰をあげ、お腹に手を当てる。

 かいた汗が体を冷やすけど、呼吸は落ち着いている。

 何度か深呼吸をして、体いっぱいに空気を溜めこむ。

 そして、心の弁を開ける。


 発せられた歌声に、鳥が驚いて逃げていく。

 歌う曲は何でもいい。

 合唱部で習った曲、テレビから流れていた歌謡曲、ドラマやアニメの主題歌。

 そういうのを適当に選んでもういい、って思えるまで歌う。

 それは一曲の時もあれば、三十分くらい歌い続けることもあった。


 三曲くらい歌ったところで、今日はやめにした。

 ここには誰もいない。

 自分のためだけに歌え、誰の目を気にすることもない。 

 ぼくは日常の中に歌を取り戻しつつある。

 ここを去る時は心の中の靄は声と共に吐き出され、すっきりと晴れている。

 そうなるまで、立ち去らないと決めているから。


 けれど帰り道、有奈華ありなかさんの笑顔が心に浮かんで胸が少しだけちりりと痛むのを止めることができなかった。


                  ▶︎▶︎


 午後の勤務開始の頃に雨はぱらぱらと来ていた。

 だけど、それも止んで路面だけがしっとりと濡れた大学発二十時の終バス。

 停留所にはちらほら人が並んでいる。

 その中に有奈華ありなかさんの姿もいつものようにある。

 そして、午前の勤務に乗っていたあのおじさん二人組もいた。


 村役場っぽいおじさんは、メガネがちょっと下にずれ、ネクタイはちょっと緩んで首との間に微妙な隙間ができていた。

 ハイライトのフィルターを口の端で噛みながら苛立たしげに吸っている。

 前頭葉がつるっとした村の顔役っぽいおじさんは、十五ラウンドを戦ったボクサー並みのよれ具合。

 チェリーの箱を、中から煙草を取り出すでもなく弄んでいる。

 来ているシャツはよれよれで、頭の両脇に残った髪も思い思いの方向を向いていて今すぐおじさんの頭から逃げ出したそうだった。


 二人は停留所の先頭に立っていて、扉を開けると来た時と同じように真ん中の席に腰を下ろした。

 何人か続いた後で入って来た有奈華ありなかさんは、後ろの席が埋まっていたので入り口横、ぼくの立つ車掌台の横に腰を下ろす。

 出発の合図をスカさんに送ると、おんぼろがゆるゆると重い腰を上げて駅へと向かう。


 切符を売ろうと近づくと、二人の会話が嫌が応にも聞こえて来る。

「んっ、それにしてもいやいやいや、弱りましたなぁ」

「会長さん、他にツテありますか」

「いやー、んっ。どうですかね。これ、ちょっと棚ぼたで入ったラッキーパンチ的な幸運なんで、他にツテらしいツテもないのですよ、いやはや」

「そうですか……」

 どうやら大学に行って何か頼んだのかな。

 誰かの出演依頼?

 でもどう見ても大学で学ぶようなアカデミックな音楽とは随分距離がありそうな二人組だ。

 それにしてもこんな遅くまで音大で何してたんだろ。

 どこまで行くのか聞いてみれば、当然駅まで。

 切符を売ったら係長はまたきっちり三十円小銭で払ってくれて、顔役は万札でのお支払いだった。

 あれ、さっきの小銭は……


 入り口横の車掌台に戻っても、朝とは違い車内が空いているから、二人の会話がはっきりと聞こえる。

「いやしかし、どうですかねっ。金なしツテなし前座のアテなし。おまけに音大さんの協力も無し。ホープはすってんてんのてんですな。がははははははは!」

 顔役がやけくそ気味に笑う。

「よく笑えますね、会長さん。僕はこのままこのバスで終点まで行って山に入ろうかと思ってますよ」

「んっ? 何、若いのに下向いちゃ駄目ですよ。もっとアップを見てフォアードに前進っ。笑う角には福が来たりて笛を吹くから実際ラッキーですな! がははははは!」

「痛っ。痛いですから」

 背中をばんばんと叩かれた顔役は顔をしかめた。


 係長と顔役は二人して音大に何か相談をしに行ったのか。

 何を頼んだんだろ?

 ふと下を見たら有奈華ありなかさんが滅茶苦茶二人の会話に興味津々といった感じで見ていた。

 あまりにあからさますぎて、二人に気付かれるんじゃないとひやひやする。

 ってか何立ち上がっているんですか。

 何かわかんないけど、ものすごく嫌な予感がする。


「移動中の立歩きはご遠慮ください」

 せめてもの抵抗で注意をすると、人を避けてまた座り、おじさんたちの座る後部座席まですすすっと滑りながら移動して行った。

 くそ、失敗か。


 案の定有奈華ありなかさんは顔役の横に座り、興味津々といった感じで話しかける。

「あのぉ」

「ん? 何だね君は」

「ボクは佐江津音大の学生の有奈華ありなか六音ろくねと言います」

有奈華ありなかくん、なかなか可愛らしい学生さんですなっ!」

「はい、実際結構可愛いんですよぉ」

「んっ、いいですな! 自信があるというのは素晴らしい! 君ももう少し有奈華ありなか君を見習った方がいいんじゃないのかね? がはははははは!」

「お上手ですねぇ、褒めても何も出ませんよぉ。あはははははは!」

 ばんばん叩かれる係長を横目に、天然馬鹿二人組は高笑いを続けていた。


「ところでぇ、何かお悩みがあるような……」

「んっ、悩みというかね、ちと困ったことがあってだね」

「もし良ければ、ボクにそのお話聞かせてもらえますかぁ?」

「んっ? 話聞きたいかい?」

「ぜひぜひぃ」

「じゃあお嬢さんだけに特別に教えちゃうかな」

「ちょっと二本松さん、あの話は内密にと……」

 係長がたしなめるも、顔役はすっかり有奈華ありなかさんが気に入ったようだ。

「大丈夫大丈夫どうせ何もしなかったら駄目なんだから大丈夫駄目なんだから」

 大丈夫なんだか駄目なんだかよくわからない。

 くそ、やっぱり嫌な予感がする。

 何か止める手段。


「次は坂乃下、坂乃下、お降りの方はいらっしゃいますか」

 停留所の案内をわざと有奈華ありなかさんにぶつけてみるも、がん無視された。

 我ながら悲しい位非力な抵抗だ。

 手も上がらず、停留所にも誰もいなかったのでバスはそのまま駅へと進む。


「私はねえ、この辺の町内会長をやっている二本松って者なのだがね」

「会長さん! すごいですねぇ!」

「いやいやいやいや。んっ、まあ、大した役職じゃあないんだがねいやいや。まあちょっと人より土地があるってだけだがねがははははは!」

 地主か。この辺で土地持っていれば正直最強だろうな。

 学生向けのアパートで儲けることができるし、大学がまだ拡張中だから今度駅前を再開発しようなんて話もある。

 土地売ったり貸したりすれば濡れ手にあわだろう。

「でもそんなすごい会長さんが悩みだなんて、想像できないなぁ」

「んっ、実は想像できないような幸運が舞い込んで来てラッキーであってだね」

「笑う角にはぁ?」

「福来たる」

 がはははあははは笑い合う二人。

 横で係長が渋い顔して頭を抱えている。

 天然相手に振り回されるときついですよね。

 なんかこの人に急に親近感が湧いてきた。


「で、真面目な話貫通祭かんつうさいってご存知かね」

 え、今まで真面目じゃないって自覚あたっのか……

 てか貫通祭の話?

 町内会長って言っていたしどんどん嫌な予感が加速してゆく。

「すみません、不勉強でぇ」

「いやいやいや学生さんならこの土地のことは知らなくても当然ですよ知らなくても」

「お祭りですかぁ?」

「駅前から山に道が伸びているのは知っているかね?」

「あぁ、バスの営業所がある方ですね」

「そう。この町はあのトンネルが掘られるまでは今よりずっと寂れていてだねえ。あれが掘られてから奥多摩に抜ける道ができて、ちょいちょい観光客が来るようになったのだよ」

 そう、土日は営業所の前の道は平日よりも少し多い。

 家族連れの行楽客がトンネルの向こうにある湖に行ったりするのだ。

「トンネルを掘るのに建設関係で町が潤ったのでねトンネルが貫通したのを記念して毎年七月に貫通祭という祭りを、市民広場でやっておるってわけだ」

「へぇ。結構大きな祭りなんですかぁ」

「毎年規模は大きくなっていてだねえ。町に産業が来るようになって町内会にもそこそこお金が入るようになったのだよ」

 駅の周辺の学生向けのアパートや、学生向けの店もそこそこある。人が来ればそこに産業が生まれるので、意外と街全体は潤っているのかもしれない。

 うちの営業所は相変わらずボロいけど。


「それで、今度の貫通祭で地元に所縁のあるスペシャルな方をお招きできることになったのだよ」

「へぇ、誰なんですか」

「内緒ですぞぉ」

 二本松さんは勿体つけてからこう言った。


嶋乃田しまのだきよし!」


 

 スカさんを除くバスの中のお客さんが全員町内会長のことを見ている。

 横の係長は頭抱えているしこの狭い町の中でこの話は明後日には幼稚園児から縁側でお茶をしばいているおじいちゃんまで知ることになるだろう。

「嶋乃田清が貫通祭に来てくれることになったのだよがははははははうぉげっほげほげほっ」

 爆笑したり咳き込んだり随分と忙しい人だな。

 しかし本当に嶋乃田清が来るのか。

 あの国民的演歌歌手が?

 最近やった大きな博覧会の主題歌を作ったりして、それこそ子供から大人まで誰しもが知っている。

 テレビの歌番組でも引っ張りだこだ。

 あ、やばい停留所近い。

 降りる方いないか車内アナウンスをするも、誰もこっちに注意を払わない。

 みんなの耳がこの二人の会話に集中している。

 無力感を感じるな……


「すごいですねぇ! 会長さんは顔が広いんですねぇ」

「んっ。まあねえ。色々ご縁があってだねえ。まあ、私の人徳がなせる技」

「人徳」

「そう、人徳。がはははは!」

 有奈華ありなかさんも併せて爆笑。

 すっかりご満悦になった町内会長だけど、急にしゅんとする。

「だが、それで困っておるのだよ」

「困っている」

「お金がですな」

「足らない?」

「いや嶋乃田先生を呼ぶのは大丈夫なんだがね」

「別の問題がぁ……」

「そう。先生呼ぶにしては町内会持っている機材が貧弱でですな。それなりの機材を借りようとするとですな、足らんのですわ。まあほんのちいとばかりなんですが、な」

「あぁなるほど。それで大学に」

「そうなのです。機材の借用、もしくは費用のご協力に関して大学として協力してくれまいかとですな、ご相談に伺ったわけなんだが……」

「断られてしまったとぉ」

「そうなのです。その代わり学生さんの発表の場にしても良いとご提案したのだが、クラシックとお祭りの親和性があまりないと言われてですな」

「なるほど」

「なんとか粘り強く交渉したんだがね……」

 粘り強くで午後一ぐらいから今まで?

 担当者に何となく同情してしまうな。


「なるほどわかりましたぁ。ボクにいい考えがあります」

「んっ? なんだね?」

「機材、ボクが揃えましょう」

 え?

 驚いて思わず顔を有奈華ありなかさんに向けると、おじさん二人組もぽかんとしている。

「ツテがあるので、機材を借りられないか交渉してみますよぉ。二週間以内には結果お伝えしますから」

「ツテっていうのはどこかね」

「大学の総務課に、演奏会とかの機材の手配に詳しい人がいてですねぇ。その人学校とは関係なく動いてくれると思うので、まずはその人に話をします」

「一応その総務課長に話をしてみたんだがね」

 不審げな表情で町内会長が有奈華ありなかさんを見るが、動揺した素振りはない。

「それは、大学もお役所体質だからですよぉ」

 横で係長がびくっとする。

 何か今華麗に地雷を踏み抜いた気がしますけど。

 当の本人は気にした風でもなく先を続ける。


「実際に現場を仕切っている人は別じゃないですかぁ。今年入った人なんですけど、特に優秀な方なんで。ボクもいつも良くしてもらっているので、まずは相談してみますねぇ」

「成る程」

「あと、前座の件も併せて任せてもらって良いですかぁ」

「そっちもかね」

 若干前のめりになり始める会長。

「若手でいい歌手を知っているんですよ」

「次は分かれ道! 分かれ道! お降りのお客様はいませんか!」

 必要以上に大きな声で案内をして、車内のみんながぎょっとする。

 有奈華ありなかさんはゆっくりこっちを見ると片目をつむって、メ・ン・ゴ、と声に出さずに口の形だけで伝えてきた。

 ああ、やっぱりだ……

 メンゴで済んだら警察いらないですからね……


 三人ほど手を挙げたので、分かれ道で止まって中扉を開け降車作業をする。

 その間どんな会話がされているのか気が気じゃない。

 戻って発車をすると、会長と有奈華ありなかさんは硬い握手を交わしていた。

 そして何故かおじさん二人の手の中には、都こんぶの赤い箱が。

「いややはり、笑う角には福来たるですな! 今日は有奈華ありなかさんにお会いできて本当によかった! んっ!」

 がはははあはははと笑い合う二人。

 係長だけが釈然としない顔をしながら、こんぶを食べていた。

 おいどうなったその話。


 その答えは二人組が降りるときにわかった。

 町内会長はまた散々切符を探し回った後、今度は襟から切符を出してきた。

 手品師か。

「それじゃね、貫通祭よろしく頼むよ! 期待していますからな! んっ!」

 ばんばんと肩を叩かれるぼく。

 ああ、やっぱりな……

 この人はそういう人だ。

 自分の目的のためには手段を選ばない悪魔なんだ。

 ぴこぴこ髪の毛を揺らしたりして一瞬高一かみたいな子供っぱい見た目に、ぼくは騙されたりしない。

 できれば釈然としないまま降りていった係長(推定)に、頑張ってもらうしかない。


 それにしても、無理やり歌わせたりしないという約束だったじゃないか。

 しかも、貫通祭で国民的人気歌手の嶋乃田さんの前座で?

 正気の沙汰じゃない。

 嶋乃田さんにも失礼だし、大体本当に音響機器が手に入るのかも怪しいし、ぼくとの約束は破ってるしどこから突っ込んだら良いやら、だ。

 理不尽極まりないこの事態に、腹の奥から怒りがこみ上げてくる。

 とにかく、営業所までの間に有奈華ありなかさんに問いたださなくては。

 誘導のため外に出て扉を閉めようとする。

 その刹那、背中にばしんっという音と共にものすごい勢いで衝撃が走った。


凍江こごえ何閉めてんだ先輩のお帰りだぞ」

 振り返った瞬間、ああ、今日有奈華ありなかさんに問いただすことはできないなと悟る。

 振り返った先にいたのは、脳筋を絵に描いたような車掌の大口先輩と、普段の淑やかさが欠片もなくなった成瀬先輩の酔っ払い二人組だった。


                  ▶︎


 日焼けした肌が健康的な筋肉質な大口先輩が、成瀬先輩に肩を貸している。

 大口先輩、空いた方の手に一升瓶持つのは男前でかっこいいですけどお客様いるんでやめてください。

 成瀬先輩は休みだけど大口先輩朝から夕方までのシフトじゃなかったっけ?

 この二、三時間で飲んでこれだけ二人出来上がっているってことはどれだけピッチ早かったんだ。

「こごぇすぁんじゃあないですかぁ、きょぅもお勤め、ごくろうさまぁでふぅっ!」

 アルコールの匂いを口からぷんぷんさせながら、縦ロールを揺らして敬礼をする成瀬先輩。

「先輩、どうしちゃったんですか」

「うるせえ、綾にもいろいろあんだよ早く開けろ」

「らぃじょぉぶ乗ったらちゃぁんとするからちゃぁんと」

 この状態の二人を有奈華ありなかさんに接触させたくないんだけど……

「本当に注意してくださいよ」

 念押ししたけど、大丈夫と言いながらゲラゲラ笑って中に入っていく二人。

 外に出て車道へと誘導をするけど気が気じゃない。


 車内に戻ると入り口横、手すりに囲まれたぼくの定位置の車掌台のすぐ隣の席に三人が座っていた。

 酔っ払い二人に有奈華ありなかさんが挟まれている形になっている。

 状況は最悪だけど、近いから介入はしやすいか。

「でぇ、ろくねたんっていぅんだぁ」

「あれ、綾は初めてなのか」

「ボクも初めてお目にかかります」

「綾は昼からのシフトが多いから朝の時間合わないしな」

「だいたぃろくねたんはごごぇの便にしかこないっていぅじゃぁん。わたしのとこにものってよぉ」

「今度是非是非!」

「ほんとぉ、かわぃぃなぁろくねたんはぁ!」

 それ露骨に社交辞令でしょっていう返答にも上機嫌で、有奈華ありなかさんに抱きついて頬ずりしまくる。

 有奈華ありなかさんはなされるがままだけど、まんざらでもなさそうだ。


「こら綾、どさくさに紛れて客に抱きつくのはやめろ」

 大口先輩が一升瓶煽りながら腕を突き出す。

「いぃじゃんお人形さんみたぃでかわぃいんだもん」

「大口先輩も車内で酒飲むの止してくださいね。それと成瀬先輩も、お客さんが嫌がってますし」

 成瀬先輩は有奈華ありなかさんをすりすりする手を止めて、大口先輩は何故かやっちまったという顔をしている。

 そして、成瀬先輩が急にそのままの姿でぽろぽろと涙を流し始める。

「わっわだしぃやっぱり面倒ぐざぃぉんななのがなぁ!」

 そのままわんわんと泣き始めた。

 抱きつかれたままの有奈華ありなかさんが背中をさすって慰めている。

 あわわ、地雷踏み抜いてしまった……


「気にすんな凍江こごえ、お前のせいじゃないから」

 大口先輩が一升瓶で軽く突いてくる。

 ああ、片倉先輩と何かあったんだな。

「ろぐねだんはどうなのぉ、ごごえぐんど、えぐ、何がまいにぢたのじぐやってるらしいじゃない」

 えぐえぐしながらも絡んでくる成瀬先輩の言葉に、有奈華ありなかさんが背中を摩る手をぴたっと止めぼくをちら見してきた。


『レンシュウ ノ ハナシ ハ ナシニシテ クダサイ』

 光の速さで瞬きをして、モールス信号を発する。

 目で訴えるぼくにOK、と小さく体の下の方で指で丸を作る有奈華ありなかさん。

「えーっとぉ、凍江こごえクンとは毎日楽しくおつきあいさせて頂いています」


 え、何それ。

 一升瓶をラッパしていた大口先輩が盛大に酒を吹き出す。

 成瀬先輩はさっきまでの泣き顔が引っ込んで急に目がつり上がった。

 汗が全身からどばっと吹き出す。

「いや、付き合ってるってそういう事じゃないですからね! 車内でちょっと、色々やってるって意味での付き合っているって事で」

「「色々って何」」

 おう駄目だ説明のしようがない。

 黒川さん、やっぱり教えてもらった方法はぼくにはハードル高かったです……

「いやちょっと、あんまり説明できないって言うか」

六音ろくねさん、何やってらっしゃるの、バスの中で」

 駄目だ成瀬先輩が急速に酔いから醒めつつある。

「いやぁ、それはちょっとぉ、凍江こごえクンから口止めされているって言うか……」

「「バスの中で、口には出せないような事を、色々やっている」」


「横須賀、凍江こごえ六音ろくねちゃんはバスで何やってんだ」

「大口、業務中だ」

 スカさんは相手にせずと言った感じで会話を切り上げる。

「あ、もうすぐボク家の前なんで降りられればなぁー、なんて」

「そ、そうですね有奈華ありなかさん、夜道気をつけてください!」

 町内会長との話を確認しようと思っていたけど仕方ない、これ以上車内にいてもらうと余計に傷口が広がる。

 バスが停車し、急いで扉を開けると有奈華ありなかさんは「それじゃあまたぁ」と言いながらたたたっと逃げるように出て行く。

 ぼくの足元からよぼよぼの黒猫がぽとりと落ちるように出て、有奈華ありなかさんの後を追ってゆく。

 またあの猫だ。最近よく目にするんだけど、車内のどこに隠れているのかわからない。今度徹底的に車内に隠れ家でも作られてないか確認しなきゃ。

 その猫のことを考え続けられたらどれ程幸せだっただろう。

 ぱたんと締めた扉の中、こちら側はぼくの地獄が待っていた。


                  ▶︎


 ぼくたちがどやどやと事務所に雪崩れ込むと、電気が消えている中一人電気スタンドの下算盤を弾いていた黒川さんが頭をあげる。

「黒川さん、ちょっと今日はご一緒させて頂きますわ」

 どん、と成瀬先輩がぼくの車掌鞄を奪うようにして事務所の受付に置く。

凍江こごえ君がどうかしましたか? それに成瀬さん、町での打ち合わせはどうだったのですか?」

「その話は後にさせて下さいまし。早く売上の確認を」

 黒川先輩は怪訝な顔をしながら切符と鞄の中にある売上に相違ないか確認を始める。

 ぼくの両脇には先輩が立っているので、身動きが取れない。

 一応スカさんが「車内清掃ある」と言ってくれたけど、結局終わるまで二人は外で待っていて、終了後無事ぼくは二人に拉致られ事務所まで連れてこられた。


「売上は大丈夫ですよ? ご苦労様、凍江こごえ君。それで、あなたたち二人は少年を疑っているのですか?」

「別に凍江こごえさんが着服していると考えているわけではないですの。ですが今日は検査に同行させて頂きます、車掌の長として。よろしいですわね?」

 黒川さんはため息をつく。お願いします、断って下さい……

「わかりました。但し私の業務に支障をきたさないようお願いしますね?」

「承知しましたわ」

 駄目か。最後の望みは絶たれた……


 まだ先客の先輩が風呂に入っていると言う事で、しばらく事務所横の畳敷きの休憩室で時間を潰す。

 ぼくら四人は四角い卓を囲み成瀬先輩は茶をしばき、大口先輩は淡々と日本酒をラッパし、黒川さんは算盤を弾き、ぼくは正座で冷や汗をかき続けテレビの歌番組では場違いに呑気な歌を嶋乃田清が歌いあげ先輩たちが風呂から上がるのを待つ地獄……


「黒川君、お風呂終わったよ……ってどったのこれ」

 矢部先輩が三つ編みを解いて長い髪をタオルでまとめ、ジャージにサンダルという格好で事務所に風呂場の鍵を返却しに来た。

 よりによって、矢部先輩。この人の恋愛脳は営業所一だからなら……

「よお、八重。お前の大好物の話だぞ」

「え、何? 凍江こごえ君と音大生の話⁉︎」

「ご明察」

 両手に拳を握り突き上げる矢部先輩。

「え、え、どうするみんな呼ぶ?」

「八重、やめろ。取り敢えず私たちだけで行く」

「うーwkwk」

 黒川さんが鍵を受け取って立ち上がる。

「貴方達、私の業務は邪魔しないで下さいよ?」

「わかってますわ。検査終わりましたら及び頂いて良いかしら」

 ぼくは立ち上がりながら、ため息をつくのを止めることができない。

 テンションがばらばらな五人は立ち上がり、共同浴場へと向かった。


                  ▶︎


 寮の共同浴場の脱衣所。

 ぼくと黒川さんは、朝と同じように向かい合って椅子に座っていた。


 胸ポケットから銀のパッケージの洋モクと細身のダンヒルのライターを取り出し、しゅぱっと火を付ける。

「早速厄介ごとが持ち上がったようですね?」

「誤解なんですよ。有奈華ありなかさんとぼくが付き合っていて、車内で如何いかがわしいことをしていたんじゃないかって……」

「それで、何か車内でしたのですか?」

「いいえ、想像しているような事はしてないですけど……」

 煙草を持っていない方の手で眉間を揉む。

「君は面白いおもちゃです。わかりますか?」

 ぼくは頭をゆっくりと横に振る。

「君はこの営業所に昨年久しぶりに入って来た唯一の新入社員。そして、朝も言いましたが、凍江こごえ君は全くの情報の真空地帯です。君が自分のことをあまり話したがらないから。包装の解かれていないプレゼントの箱みたいなものです。中に何が入っているか期待値も最高潮です」

 ぼくは、ゆっくりと頷く。

「開け手に委ねれば、箱の底までひっくり返されるでしょうね?」

「何とかなりませんか」

「君の覚悟が必要ですが、良いですか?」

「是非」

「プレゼントの方から飛び出せば、それ以上底を漁れることはないでしょう。問題はその勇気が持てるかどうかですよ?」


凍江こごえ、時間だぞ」

 どやどやと先輩達が入り口の扉を開けて三人が入ってくる。

「ちょ、ふ、服ぐらい着させてくださいよ」

 ぼくの抗議も虚しく籠は大口さんによって後ろに避けられる。

 黒川さんは椅子を退けて、その空いたところに車掌の先輩達が立った。

 ぼくもゆるゆると腰を立げる。

 先輩達はぼくよりも少し背が高いくらいだけど、こうやって目の前に立たれると結構威圧感がすごい。


「さて、凍江こごえさん、先ほどの続きです」

 まだ酒臭い息を吐きながら、成瀬先輩が一歩ぼくの方に踏み出す。

 目は正気を取り戻したのか、酔っているのか微妙な線だ。

「我々車掌の掟は入社の時にお伝えしましたかと思います。仰って頂けますか」

「はい。誰かと付き合う事になった時は正直に申告する事」

「そうです。これは女性ばかりの車掌達の中で無益な色恋沙汰などの争い事を起こさないようにするためです。わかりますね」

「はい」

 だから、成瀬先輩が誰と付き合っているのかも、入社から程なくして知らされた。

「それにも関わらず、あなたは音大生の有奈華ありなかさんと付き合っていることを私たちに秘密にしていた」

「それは誤解で……」

「さらに!」

 強い口調で制止される。


「さらに車内で皆に言えないようなことを、色々、やって、らっしゃると」

 矢部先輩が両手を上げて優勝なされている。

「キタ、キタコレ!」

「矢部さん、ちょっと静かにして頂けますか」

「八重これ以上騒ぐとつまみ出すぞ」

「いや御免御免、何この美味しいシチュ。バスという密室で、金持ちのお嬢様音大生と年下の車掌の禁断の密会。これだけでご飯十杯はイケル!」

 ああ、駄目だこの人火のない所に煙を立てるの上手だから。


「それでは凍江こごえさん、自分の口から真実を話して頂きましょうか」

 黒川さんから言われた助言を思い出す。

 どうする? プレゼントの方から飛び出すか?

「……ですから、想像しているような事は何もなくて」

 駄目だ、歌の事は知られたくない。

 自分でも、歌えるかどうかわからないんだ。

 これで音大生に訓練受けていると知られたら、変な期待をかけられてしまう。

 それだけは絶対に避けたい。

「成る程。詳しくは言えないという事ですね。わかりました。最後の手段を使うしかありませんね」

 濃厚なアルコール入りのため息をつくと、ぼくを改めてきっと見る。


凍江こごえさん、これから私と賭けをして頂きます」

「あはーこれ系の勝負⁉︎ 久しぶりだなー! 前は何だっけ、中ちゃんがしつこく友ちんに言い寄ってきたからこれで屈服させたんだっけ⁉︎」

 矢部先輩がまた急激に盛り上がり始めた。

 この人酒入っていない筈なのに何でこんなにテンション高いんだ。

「おいちょっと待て綾、お前まだ酔っているだろ」

「酔ってません」

 大口先輩は頭に手を当て駄目だこりゃって感じで頭をふる。

 それからぼくに向き直った。

凍江こごえ、今すぐ本当のことを言え。どうせこの勝負の結果はわかっている」

「え、何ですか。両手両足を縛られて湯船に投げ込まれて沈んだら無罪で浮いたら有罪ってやつですか」

 無罪になった場合は溺死だけど。

「そんな中世の魔女狩りの尋問みたいな野蛮なものではありません。互いの美意識を賭けた気高い戦いですわ」

 そう言うと成瀬先輩は一歩下がる。


凍江こごえさん、簡単な勝負です。私とあなたで向かい合って立ち、見つめ合います。凍江こごえさんが一分間ずうっと気をつけをし続けると事ができたらこれ以上有奈華ありなかさんとのことは問いません。ただし、土下座をしたらあなたの負けです。その時は全てを話してもらいます。良いですわね?」

 え、この勝負簡単じゃないか。

 つまりぼくが自分の非を認めず土下座しなければ……

「成瀬さん、その勝負やめにしませんか?」

 部屋の隅でメンソールを吸っていた黒川さんが横から口を出す。

「明日の朝自己嫌悪に陥っているあなたが見えますよ?」

「大丈夫ですわ。私も車掌の取りまとめ役としての立場というものがあります。下の者に示しを付ける事が必要な時もありますの」

 黒川さんは肩をすくめる。


「では凍江こごえさん、よろしいですね」

 何だかわからないけど頷く他はない。

「矢部さん、あなたお酒入ってないですよね。時計お願いできるかしら」

「はいはーい。じゃあカウントダウン始めますよー。あと二十秒前、十九、十八、十七……」

凍江こごえ、一応温情で教えてやるが、何でもいいから気がまぎれるものを考えろ」

 大口さんが謎の助言をくれる。

 気がまぎれる事?

 何だろう、えーっと、田螺が馬鈴薯の輪切りを食べている所、とか?

 急に言われても何も思いつかない。


「九、八、七、……」

凍江こごえさん、因みに私は本日勝負下着でEカップという事だけ先にご報告させて頂きますわ。でばんの〜なかった〜勝負下着〜♪」

 え、え、何の話?

 ってか何ですかその歌はやっぱり酔ってますよね。

 ぼくの理解が追いつく前にその時間が訪れる。

「二、一、スタート!一、二」

 カウントアップされていくのと同時に、成瀬先輩は視線はぼくに固定したまま勢いよく自分の着ている服を脱ぎ始めた。

「ちょ、な、何しているんですか!」

凍江こごえさん、勝負は始まっていますよ。お静かに」

 そう言っている間にブラウスを脱ぎ、スカートを脱ぐと下着姿なんだけど、下着、姿なんだけど……

「八、九うぉっほー!」

 矢部先輩秒数を数えるのを忘れて大勝利の雄叫びをあげる。

 極度に面積の少なく、かつ繊細な花柄のレースが成瀬さんの白くて柔らかそうな両胸を包み込んでいた。

 お酒が入っているからか、胸元がうっすら赤く色づき、うっすらとかいた汗が肌に艶を与え、所々集まった小さな汗の塊が胸元を転げ落ち……

 駄目だこんなん反則だろ馬鈴薯の輪切りを食べる田螺、馬鈴薯の……

 さらに腕組みをされた時点で、勝敗は決定した。

 いや、この勝負を受けた時点で決まっていたんだ。


 ぼくの下半身がむくむくと目を覚ます。

 その角度に反比例して、ぼくは腰を屈めてゆき、がっちがちになった下半身を誤魔化すため、ついには膝を床に付ける。

 そしてひたいを床に付けると、こう懇願した。

「お願いします。服を、服を、着てください……」


 ぼくは、敗北した。


                  ▶︎▶︎


「「「「歌の練習」」」」

 場所を蕎麦そば峻厳しゅんげんさんに移動してもらった。

 あのまま風呂を占拠していると後に入る男の先輩たちの邪魔になるし、どうせこの四人に話したら明日には全員に知れ渡る。

 ここで聞かれた方が伝聞になるより誤解が少なくて済むだろうし。

「そうです。なんか、有奈華ありなかさんに見込まれて。行き帰りのバスで訓練しているんです」

「それは、歌ってらっしゃるという事?」

 縦ロールを指先でいじりながら怪訝そうな顔をして成瀬先輩が訪ねてくる。

「いやそれも違くてですね……車内案内の時に声をどう届かせたら良いかとか、例えば声を天井に跳ね返させて奥にいる人に届けたり」

「そんなん大きな声出せばいいんじゃないのか?」

「いや大口先輩、そしたら近くの人が煩いですよね」

「まあ、確かに」


 ぼくは一通りのことを話した。

 有奈華ありなかさんがぼくを歌手に仕立てあげようとしていること。

 バスでの訓練や、基礎体力と肺活量を増やすため山を走っていることを含めて。

 途中ちらちらと心配そうな顔をして京子さんが水を注ぎに来てくれた。

「そんな訳で、ぼくは有奈華ありなかさんと付き合ったりしていませんから」

「そういう事でしたか」

 成瀬先輩がため息をつく。


「でしたら始めから本当のことを仰ってくれれば良かったのに。今のお話で隠さなければならないような事は一つも無いのではなくて?」

「いや、歌の練習をしているなんて聞いたら、みんなに期待されてしまうかなって……」

凍江こごえさんは歌が上手ですの?」

「いや全然。普通ですよ。学校の合唱部に入ってましたけど、親に入れさせられてやっていただけですし」

 本当の話に、嘘にならない程度の適当な言葉。

 ちらっと黒川さんを見る。


「成る程」

 成瀬先輩は何度か頷くと、顔を上げてぼくを見る。

「やはりそれは、愛ですわね」

「いや、だから恋愛的なことでは全くなくて……」

「いやそれは愛だと私も思いますよ?」

 黒川さんが煙草をアルミ製の灰皿で揉み消す。

 この人はあんまり色恋沙汰には関心がないと思っていたのにな。


凍江こごえ君、愛って何だと思いますか?」

「えっと……誰かがすごく好きってことですよね」

「それは恋愛こと、ですね?」

 違うのか?


「時間、財産、労力、能力、精神力……そう言った自分の持つ資産。それらは通常自分だけに使われますよね?」

 話が見えてこないけど、取り敢えず頷く。

「それらの財産は有限で、特に時間などは絶対に戻ってこないものです。愛というのは、それらを自分以外の対象にどの位かけられるかということですよ?」

 ……成る程。

「恋の最大級が愛なんじゃなくて、自分の持つ資産をどれだけ相手に費やせるかってことですか」

 黒川さんはこくりと頭を縦に振った。


「異論は認めますがね? 有奈華ありなかという音大生は、あなたの歌を聞きたいと望んでいる。そのために音大に入った能力を使って車内案内の指導をしてくれています。本当は歌の指導をしたいのに、あなたの業務に合わせてね?」

 これには頷くしかない。

「さらに君と交流するために朝一の便に乗り最終便まで学校で待つ時間。君の歌を今すぐ聞きたいという思いを押さえ込むだけの精神力。そう言った諸々の財産を君のために費やしています」

「え、待っているんですか、学校で、ぼくと会う時間を作るために」

 黒川先輩は新しい煙草を咥え、火を付ける。

「一年生が朝一から夜まで学校にいるなんて常識的にはありえないですよ? 凍江こごえ君のシフトは若いからという理由で始バスと終バスで固定ですよね? そこに合わせて彼女が時間を調整していると考えるのが自然ではありませんか?」

 やっぱり、そうなのか。

 ぼくが今まで受けて来た指導が、有奈華ありなかさんの財産。有奈華ありなかさんのぼくへの、思い。


「自分が費やした資産に対して、君が彼女に与えた資産はとても低い。現状車内案内の技術を習得するといった、あなたが受け取るものの方がとても多いです。音大生は君が世界に通用する歌手になると思っているということですよね?」

 ぼくは小さく頷く。

「君はそうなりたいと思っているのですか?」

「なれるわけないです」

「なれるかなれないかではなく、なりたいか、なりたくないかですよ?」

 どちらなのか。最近、なんとなく有奈華ありなかさんの練習に付き合っていたけれどその行き着く先のことを考えていなかった。

 ぼくは、その気もないのに有奈華ありなかさんに期待だけさせて、あの人の時間を無駄にさせているのではないのか。

 それとも、本当はあの人がぼくをどこかへと連れていってくれることを期待しているのか。


「……正直、自分でもよくわからないんです」

 自分の声が弱々しく感じる。

「なら、歌ってみてはいかがですか」

 成瀬先輩が柔らかく微笑む。

「歌う……」

「そう。有奈華ありなかさんの前で。凍江こごえさんがもし歌って、それでもやはり何か違うと思ったなら、彼女がこれ以上無駄な時間をかけさせないようにお断りなさい。もし歌って、もっと指導が欲しいと思うのであれば、改めてきちんとお願いなさい」

 他の先輩方も深く頷く。

「私はぼんやりこのまま指導を受けるより、その方が良いと思いますわ」

 そうか。ぼくは一方的に有奈華ありなかさんに巻き込まれた被害者だと思っていた。

 けど、ぼくはぼくで、あの人に与えられたものに応えていなかったし、好意に甘えていたんだ。


「ありがとうございます。なんか、話を聞いてもらって良かった。もっと早く先輩たちに相談すべきでした」

 ぺこりと頭をさげる。

「私たちにもっと頼って下さいな」

「お前は可愛い後輩だからな」

「君が去年入ってきてくれて、随分営業所の雰囲気が明るくなったのですよ?」

「いいねぇー。青春だ」

 皆さんの慈愛に満ちた視線がこそばゆい。

「休みに、有奈華ありなかさんの所に行って、歌ってみます。そうしたら、貫通祭で嶋乃田清の前座やらせるなんて無茶なことは諦めるかもしれないですし」


 先輩達の顔が一瞬で、ん? となった。

 周りでなんとなく聞いていた先輩達もぴたりと動きを止める。


「貫通祭に、演歌歌手の嶋乃田清が来て、凍江こごえさんが、前座をする?」

「はい、なんかそうさせるつもりらしいんですよ、有奈華ありなかさんが」

 数刻の沈黙が部屋の中を流れる。


「「「「「「「「「「「「「「「そりゃ無茶だ」」」」」」」」」」」」」」」


 みんなの声が揃った。

 デスヨネーシッテマシタ。

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