▶︎▶︎ ▶︎02_a.警告

「お断りです」

「何でだよぉ!」

 バスに乗るなりいきなりそれですか。

凍江こごえおめー受けてやれよ六音ろくねちゃんのお願をいよー。何頼まれてんのか知らないけど」

六音ろくねちゃーん、俺がそのお願い受けてやろーかー! 凍江こごえなんて放っておけよー!」


 四月に入ると、有奈華ありなかさんは営業所の停留所から八時前の始発のバスに乗るようになった。

 この便を利用するのは、寮に住んでいる社員の先輩が休暇で街に出かける時か、営業所の道を挟んだ向かいにある蕎麦そば峻厳しゅんげんの鈴木さん親子だけ。

 そこに音大生の有奈華ありなかさんが毎朝来ようになったのだから、ちょっとした騒ぎになった。

 まあ、そうなるよな。

 ぶっちゃけこの人ちょっと可愛からな。

 服は白で統一されているけれど、短パン履いているからか音大特有のお嬢様っていう感じにはならず、なんとなく話し掛けやすい感じだし。

 最近は、寮に住んでいる非番の先輩達が冷やかして来るのが日課になっていた。

 仕事休みなら昼まで寝ていて欲しい。

「お乗りになる方はいますかー」

 そう聞いてもにやにやしたり、「けっ」とか言うだけで流石さすがに乗っては来ない。

 みんなバスの運行に差し障る行動はしないくらいの常識は持っている。

 扉を閉め、入り口横と座席の間にある人一人が立てるだけの隙間、通称車掌台しゃしょうだいに立つ。

 有奈華ありなかさんはぼくのすぐ隣に陣取っていた。

 安全確認をしたところでスカさんに合図を送る。

「発車オーライ」

 スカさんがクラッチをローに繋ぐ。

 バスはげふふんと咳みたいな声を出して体を震わせると、駅へと続く坂道を下り始めた。

 先輩達が犬の尻尾みたいに手をぶんぶん振る。

六音ろくねちゃーん!」

凍江こごえなんていいから俺と街に遊びいかなーい!」

「今日もかわいーよ!」

 口々に叫ぶ先輩達に窓を開けて有奈華ありなかさんも手を振って応えた。

「行ってきまぁーす!」

「危ないから頭と手を窓の外に出さないで下さい!」

 それにしても、この短期間で滅茶苦茶めちゃくちゃ馴染なじんでいるな、この人。

 手を振る先輩達が後方にどんどん小さくなって行き、山陰に隠れた。


「さぁて」

 ぼくの横の席に座る有奈華ありなかさんが見上げてきて、遺憾いかんながら恒例こうれいになってしまったやり取りを再開した。

「しっかしキミもしぶといねぇ。この前のボクの歌の練習を一緒にやろうって話。キミが二つ返事で受けてハッピーエンドの流れだったでしょ?」

 他に乗客が居ないのを良いことに勤務中だろうと勧誘に余念がない。

「だから、ぼくは業務ありますんで。大体音大生なんだから自分で歌えばいいでしょ」

「ボクは教育学部だからさぁ、人に教えるお勉強。自分の声に興味なんてない」

「でも、歌ぼくより上手いですよね」

「ボクの歌聞いたことないでしょ」

とぼけても無駄です。あの雪の日に。歌ってましたよね」

「ありゃ、バレてたか。まぁ上手だよ。多分キミより」

「ならご自分でお歌いになれば」

「でも、キミより面白みが無い。大体自分に可能性感じていたら教育学部なんて入らないよぉ。でしょ?」

 本当に興味がないと言った風に足を床板に投げ出した。

「面白みがあるかどうかは知らないですけど、その見た目だったら歌手とかになったら結構需要あるんじゃないですか?」

「ホント? それってキミがボクのことを可愛いて思っているという理解でOK?」

「一般的に、って話です」

「出会って一ヶ月も経ってないのに、扱い雑すぎぃ」

「業務に差し障りのないように適切に対応させて頂いていることをそうお感じになるなら」

「チェッ。可愛くないなぁ」


 ぶーぶー文句言いながら、首に巻いた辛子色のハンカチを撫でる。

 男の先輩は鈍感だから大丈夫だけれど、車掌の先輩達はこれがぼくのものだと気づいているだろう。

 口には出さないけれど、わかる。

 女性っていうのはこういう小さな変化に確実に気がつく。

 勿論一度あげたものだから、取ってほしいと有奈華ありなかさんに頼める訳でもない。


 バスはエンジンブレーキを効かせながらゆるゆると下ってゆく。

 向かって右手に見える川に沿って道はくねくねと折れ曲り、左の山側からは突き出た木の枝などに気を使う。

 この辺りになると有奈華ありなかさんも話し掛けてこない。

 ただ、ぼくの隣に座って目を瞑っている。

 ぼくはあまり使われることのない発条ばねの壊れた切符切りのはさみを右手に持ちながら、左手で手すりに捕まって車外の安全確認をする。

飛び出した木の枝が車体に当たらないかが、この辺りでの主な注意点だ。

 朝一の便だから他の先輩達が運転するバスとすれ違うこともないので、この時間は比較的ゆっくり外を見られる。


 朝刊の新聞の奥多摩版の頁を見たら、今日は晴れの予報。

 桜前線は関東を過ぎていて。

 山桜や八重桜が、染井吉野そめいよしのの儚さとは違う生命力で山々や川縁を彩っている。

 いい季節だ。

 昨年四月から働き始めてちょうど一年。

 中学の同級生は、今高校二年生。

 進路に悩んだりしている頃だろう。

 あるいは、妹の咲も。

 でも、ぼくには既にやるべきことがあり、将来運転手になるという目標もあり、(基本的には)いい先輩達に囲まれている。

 自分は恵まれている。

 そう思う。


「あれ、そろそろ案内じゃないのぉ」


 横に座るこの人さえいなければ。

「してよぉ、次の停留所の案内」

「いや降りないですよね、駅で」

「始めの頃は優しく案内してくれたじゃないかぁ」

「降りるんですか」

「降りない」

「じゃあ案内無しで」

「それとこれとは話が別だよぉ。ボクが毎朝わざわざ坂を登って営業所の停留所まで来ている理由は?」

「体重が気になるお年頃だから?」

「うるさい! ボクの腰が素敵にくびれていることは知っているだろう! 何しろキミは頭の天辺から爪先まで裸のボクの体を……」

「次は川野辺かわのべ駅、川野辺駅!お降りの方はいらっしゃいますか」

 強引だな全く。

 車内はしんとして誰も手を挙げない。

 当たり前だ、有奈華ありなかさんしかいないしこの人音大まで乗るし。

 隣に座るその乗客を見ると目を瞑ったままにやにやしていた。

「グフフー、いい声。幸せだなぁ。この流れで歌ってくれたり……」

「あ、りますか駅で」

厄介やっかい払いしないでよぉ!」


 坂を下り切ったこの辺りから、昔から住んでいる農家が少しずつ増えてくる。

 それ以上に目立つのが意外と真新しいアパートの数々。

 音大が設置された時に学生向けに大量に作られた。

 川野辺かわのべ駅自体は昔からあるのだけれど、発展したのは大学出来てから。

 だから、小さなロータリーのある駅はホームに屋根さえない、いかにも田舎の単線といった風情。

 ロータリーのバス停には朝一のバスに大学職員の方や真面目な生徒さんがぼちぼち並んでいた。


川野辺かわのべ駅、川野辺駅。お降りのお客様はお忘れ物無いようご注意ください」

 降りないとわかっていても、到着の案内はする。

 言わないと怒るから、この人。

 ちらっと右下を見ると、こっちに向かって微笑んで来た。

 形の良い唇の端がきゅっと持ち上がって、白い肌によく映える。

 邪念がないのはわかっているんだ、この人に。

 だから対応に困るんだよな、全く。


 停留所にバスが停車。

 ぼくは切符切り用の鋏を手袋をはめた手でごしごし擦ると、車掌台を降りて二つ折りになる扉を開けた。

 途端に外の生活音が車内に飛び込んでくる。

 生徒さんが話をする声。

 駅員さんが鋏を叩く音。

 鳥の鳴き声。

 遠くでは電車の警笛が聞こえる。


佐江津さえづ音大行きです。音大の方は証明書をご提示ください」

 年度の初めにはまだこの案内が必要。

 この路線を運行する川野辺かわのべ交通は佐江津さえづ音大が所在する市も出資している第三セクター。

 大学が開設されるのと同時に、駅から山中にある大学までの輸送手段としてこのバス路線が立ち上げられた。

 大学からもお金を貰っているので、教職員と学生さんは無料で乗車できる。

 だから、教職員証明書と学生証は定期券代わり。

 裏を返せば、あまり地元の方はこの路線を利用しない。

 工場などの産業が無いし、地元の方は大体車やバイクなどの移動手段を持っている。

 だから切符を切る機会もあまり無い。

 だったら車内で学生証を確認をしても良さそうなものだけれど、降りるにはもう一つ理由があった。

 それは、人間以外のお客さんの乗り降りを手伝うため。


「手伝いますか?」

 そうお声掛けさせて頂いたのは、眼鏡を掛けたぼくより少しだけ背の小さな女生徒さん。

「お、お願い致します!」

 ぺこんとお辞儀したその人は、自分の体の倍はありそうなコントラバスのケースを抱えていた。

 弾みで学生証を地面に落としてしまう。

「はわわ、す、すみません!」

「大丈夫ですよ。はい」

 拾った学生証には、勅使河原てしがわら波瑠はると書いてあった。

 夏くらいまでには顔は覚えるし、学生証を拝見させて頂くのでなんとなく名前も一致する方がちらほら出てくる。


「じゃ、行きますよ。一、二、三、はい!」

 ぼくは車内に入ると、コントラバスの頭を押さえつつ勅使河原てしがわらさんと一緒に車内に引き上げる。

 そう、バスには人間の他にも生徒さんの楽器も一緒に乗り込む。

 しかもこのバス、かたが古いから地面から客室までの高低差が結構ある。

 都会のバスと違い、高い階段を二段程上がらないと客室には入れない。

 新入生で慣れない生徒さんや、女性徒でチューバなどの大型の金管楽器を運んでいる方は結構乗り込むのが大変なのだ。

 楽器を持ち上げながら階段を登るのは難儀だし、乗り込んだら今度は入り口の上辺や天井に楽器の頭をぶつけたりする。

 なので、この時期は新入生が乗り込む手助けをしていた。

 五月の半ばになる頃には皆さんすっかり慣れて一人でご乗車頂けるようになるので、期間限定なのだけれど。


 停留所で待っていたお客さんが全て乗車してもすぐ出発にはならない。

 五分程停車して、ゔゔゔゔと呑気にアイドリングをするバスと一緒に車外で近隣に住んでいる生徒さんや電車で通っている方々の到着を待つ。

 時間が来たら外から扉を閉め、ぼくはロータリーの出口まで走り、道路の安全を確認。

 さすがに駅前ともなるとそこそこの交通量。

 旗と笛で誘導し、道路に出たところで中に乗り込む。

 

 車内に戻ると、人の入りはまだ半分以下といった感じ。

 八時駅前発だとこの程度。

 なのに女生徒さんの大半は運転手席の左横の座席に集中している。

 目当てはスカさん。

 長身だし黙って鋭い目つきで運転している姿が様になるから、ファンが結構いる。

 おかげで前方の視界が制限されてしまうから、次の停留所が近づいてきた時に目視にちょっと苦労する。

 あと、スカさんに見とれていてぼくの案内を聞き逃し、降り忘れる生徒さんもちらほら。


 後方にいるのは大学職員の方や男子生徒、コントラバスの女生徒さん、それと有奈華ありなかさん。

 ぼくは昇降口を登ってすぐ右側にある車掌台に立って後方の安全確認をした後に発車の合図。

 そうして佐江津さえづ音大に向けてバスは出発。


 出発して五分程すると、別れ道の停留所。

「お降りの方はいらっしゃいますか」

 勿論降りる方はいない。

 けれど、この辺りもまだ駅からの徒歩圏内なので学生向けのアパートがいくつか建っている。

 停留所にも数名立っていたので停車。

 朝早い便でも人がいるのは、全部のアパートが楽器可という訳ではないから、学校で練習をしたい生徒さんが一定数いるから。


 分かれ道の停留所は文字どおり道がY字になっていて、左に進むと都心へと続く国道へ。

 バスは右に曲がり畑の中をしばらく川沿いに進んで、二つ程停留所を過ぎると再び山道

を進むことになる。

 駅から十分じゅっぷん程進んだ頃、その建物は見えて来る。


 山の中に投げ込まれたように建つ、コンクリ造の近代的な建築群。

 斜面に階段状に並ぶその姿は、芽吹き始めた木々の緑の中にあってかなり異質だ。

「間も無く終点、佐江津音大さえづおんだい前、佐江津音大前。お降りの方は忘れ物ないようご準備下さい」


 なんでこんな山奥の不便な土地に音大なんて作ったんですかねとスカさんに聞いたら、理由を二つ教えてくれた。


 一つ目は大きな音出しても誰も文句言わないから。

 確かに防音とかはしっかりしているんだろうけど、でもそう言った部屋が取れなくて外で練習をしてしまう学生はままいるわけで。

 近隣に住民がいない山の中なら苦情の来ようがない。


 二つ目は、土地が安かったから。

 佐江津音大は元々都心の方にあったのだけれど、ベビーブームと共に生徒を増やすべく新校舎を作ることにした、

 その時白羽の矢が立ったのがこの土地。

 市が産業の一つとして大学の誘致をして、税金の面とか交通の面で色々優遇したらしい。

 おかげでここ以外にも色んな大学が市内にぼこぼこある。

 そう言うと近くに沢山ありそうな印象を持つかもしれないけど、市は土地が大きいので隣の大学までは結構な距離がある。

 因みにぼくらの川野辺交通は県境を跨いだ神奈川県の土地。

 佐江津音大は東京の端っこにあるから、隣県からの方が近い。

 他の自治体出資のバス会社を置くことに許可を出す代わりにぼくらの営業所がある自治体から出された条件は、学生以外の利用も認めること。

 それでほとんど利用者がいないのに、地元の住民の方にもこの路線が解放されている。


 到着したら、行きと同じように生徒さんの楽器を下ろす手伝い。

 最後に降りてきた有奈華ありなかさんが「またねぇ」と小さく手を振り、学校のロータリーから坂の上にある校舎へと登ってゆく。

 歩く度元気にふるふると揺れる束ねた髪を見ながら、やはりぼくと有奈華ありなかさんでは住む世界が違うんだなとぼんやり思う。

 あの人はあの校舎の中でどんな授業を受けて、どんな同級生がいて、どんな会話をしているのだろう。


 バスは大学で五分程停車。

 朝一のバスで駅に向かう教職員や生徒さんは滅多にいない。

 それから再び、駅前へ向かう。

 往復で三十分さんじゅっぷん

 十時くらいまでは終点の営業所前に行かずに大学と川野辺駅間での運行。

 バス四台で生徒さんをピストン輸送。

 授業が始まる前の一日の内で一番忙しい時間だ。

 これが終わると営業所に戻って一旦昼休みに入る。


                  ▶︎▶︎


「犬吠埼様、お帰りなさいませ〜。今日もお仕事、お疲れ様です!」

 蕎麦の峻厳しゅんげん暖簾のれんくぐると、いつものように看板娘の京子さんがメイド服で出迎えてくれた。

 営業所の道を挟んだ目の前のこのお店を、みんな自分たちの家のように使っている。

 ツケにしているので、お代は給料日にまとめて払うスタイル。

 因みに社員価格なのでお財布には優しい。

「今日は何になさいますか〜」

「Bカレーでお願いできますか」

「承知しました〜。横須賀様もお待ちですよ〜」


 入り口を抜けて中に入ってゆくと、広い店内にテーブルと丸椅子がちょこちょこと置いてある。

 そこに先輩達がちらほら座っていた。

 昼からの勤務の先輩はもうとっくに食事が終わっているし、午前の勤務はスカさんとぼくが一番先に終わるので、一本後の非番の先輩がいる位でまだ閑散かんさんとしていた。

「おはようございます」 

 そう挨拶すると、あーとかおーとか返事が来る。

 部屋の隅では整備士と運転手の先輩達が花札に興じていて、チップ代わりの一円玉が机の上に散乱していた。

 あとはテレビを見たり、新聞を読んだりしている。


 そんな中、車掌の成瀬なるせ先輩と唯一の女性運転手の片倉かたくら先輩が難しい顔をしてテーブルを挟んで向かい合っていた。

 手元にあるサンドイッチにも手が付けられていない。

「おはようございます」

 挨拶をすると、二人共顔を上げて表情を緩める。

「おはようございます、凍江こごえさん」

 成瀬なるせ先輩は車掌陣のお姉さん的存在。

 休みの日でもアイロンの効いたシャツを着ていて、他の先輩達のようにジャージを着てうろついたりしない。

 今日はシャツの上に桜色のカーディガンを羽織はおっている。

 ぼくの方を向くと綺麗に巻いた栗毛の髪が穏やかに揺れた。

「組合の話ですか」

「ええ、お休みの日にやっておかないと。片倉さんにも手伝ってもらって」

 短く刈り上げた頭を片倉先輩はこくりと動かす。

「そう言えば今日も有奈華ありなかさんにプロポーズされたのですか」

 娯楽に飢えているのは何も男の先輩に限った話ではないわけで。

「プロポー……いえ、全然そう言うのじゃないですから」

「あら。では何を凍江こごえさんは求められていらっしゃるの?」

「……それが分かれば苦労しないんですけど」

 歌の練習をしろと言われていることは、寮では伏せている。

 有奈華ありなかさんもあえてみんなの前では、歌のことを直接言及げんきゅうしたりしなかった。

「求められている内が華ですよ。応えて差し上げたら?」

「応えられるんだったら、苦労しないのですが……」

「ふふっ、悩める時間があるって羨ましいわ。若さの特権ね」

 礼をしてスカさんの所に向かう。

 恋愛絡がらみだと誤解されている方が要求の内容を知られるよりは有難い。


 スカさんは窓際の席で煙草を吸っていた。

「すいません、今日も待ってもらってしまって」

「気にするな。風呂に入る時間は必要だからな、お前は」

 ぼくが来るとまだ残っているショッポを灰皿でもみ消す。

「? 吸えるんじゃないんですか」

「いいんだ」

 対面に座ると、二人してなんとなく外の景色を見る。

 今日は天気も良いので窓が開け放たれていた。

 時折山桜の花びらがどこからともなく窓から迷い込んで来る。

 厨房ちゅうぼうからは大将がフライパンを振るう小気味好い音が響く。


 スカさんとはあまり話をしなくても気まずい雰囲気になることはない。

 勿論有奈華ありなかさんの要求の内容も知ってはいるけど、この営業所では珍しくぼくと同じでうわさ話にも賭け事にも興味が無かった。

 運転手がスカさん以外だったら、とっくに有奈華ありなかさんが何をぼくに求めているのかみんなに知れ渡っていただろう。

 ぼくの勤務は基本的にスカさんと一緒だ。

 他の先輩は結構やんちゃな人が多いから助かっている。

 橋本先輩の下に付いていたら、街の女の人がいる店で道化を演じたりしなきゃだろうし。


「お待たせしましたご主人様〜」

 京子さんがオムライスとカレーを運んで来た。

「じゃあハート書きますね〜」

 スカさんは手で静止するけれど、京子さんは是非! って顔をしてにこにこ立っている。

 結局今日もスカさんが折れてケチャップでオムライスに『よこすかさま♡』と丸っこい字が書かれた。

 スカさんは鋭い目つきで一部始終を見ると、書き上がった所でぺこりと頭を下げる。

 京子さんはそれを受けて「お喜び頂き嬉しいです、ご主人様〜」とぴかぴかの笑顔を浮かべていた。

 一年前からこの儀式が行われなかった日をぼくは見たことがない。

 テレビでは大物演歌歌手の嶋乃田しまのだきよしがやたらと陽気な歌を歌っている。

 もう少ししたら、午前勤務の車掌の先輩たちも合流するだろう。

 いつも通りの弛緩した時間が流れる。

 その筈だった。

 あのエンジン音が聞こえるまでは。


 スカさんがオムライスを半分ほど食べた所で、スプーンを持つ手がぴたりと止まった。

「来る」

「何がですか?」

「分からん。六百五十cc。でかい」

 スカさんはスプーンを置いて立ち上がって外へ向かう。

 なんだろうと思っていたら、その音が聞こえて来た。

 店の外、坂の下の方から響くエンジンの音。

 バスのものじゃない。

 けど、太く不均一にピストンが躍動する音は、多分バイクのもの。

 それも大型。

 音は徐々に大きくなり、店の前の砂利敷の駐車場で止まる頃には店中の人が入り口を見ていた。

 ぎゅっぎゅっと砂利を踏み締める鋭い音は、入り口の前でぴたりと止まる。

 この店に営業所以外のお客さんが来ることは稀だ。

 大型バイクで来る人も。

 どんな人が入って来るかとみんなが固唾かたずを飲んで見守る。

 引き戸を開けて入って来たその人は、いろんな意味でこの土地には不似合いな人だった。


 背はスカさんと同じ位か、下手するとちょっと高い。

 肌は光沢感のある深い褐色で、絹のように滑らか。

 切れ長の目に鼻筋の通った彫刻の様に整った顔。

 その顔を彩る銀色の長い髪は後ろで一つに束ねている。

 そして、何故かその人は染みひとつ無い純白の花嫁衣装を着ていた。


 部屋にいた誰もが呆気に取られていると、その人は薄い唇を開いてこう言った。

「犬吠埼凍江こごえはいるか」


                  ▶︎

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