▶︎▶︎ ▶︎01_c.春雪

 どさあ。

 大量の水を含んだものが落ちる音。


 どさぁ。

 三歳児と同じくらいの重さかなぁ。

 十五リットルくらい。

 それっぽちだと、火災旋風にあったら一瞬で蒸発してしまう量だなぁ。

 まぁ、大人だって同じだけど。

 ほんの、一瞬。


 どさぁ。

 とは言え人じゃないよなぁ、あの感じ。

 落下した後に砕け散る、あの感じは……


 目を開ければ、手を伸ばすと指先が届きそうな距離に音を拡散させるための響棒が複雑に組まれたピアノの裏側。

 そうだった。

 ボクは昨日佐江津音大に通うために山の中のぼろっちい家に引っ越してきたんだった。

 昨日の頭がポワポワした感じがなくなって、頭がすっきりと冴えてる。

 その代わり身体中に汗をかいていて、寝間着代りのジャージが纏わり付いて気持ち悪い。

 グランドピアノの下に敷いた布団からもそもそと這い出して立ち上がり、大きく一つ伸びをする。

 雨戸を開けると乱反射した光が暖かな風と共に室内に飛び込んできた。

 そのあまりに圧倒的なようの気に軽い目眩を覚える。


 家の裏は一面雪で埋まっていた。

 庭は家庭菜園ならできそうと言ったまずまずの大きさ。

 その向こうは杉林で、枝に積もった雪が日に晒され時折どさぁっと落ちてゆく。

 向かって左側はちょっとした崖になっていて、岩肌を雪解け水が濡らしていた。

 見上げると木々の間から太陽が覗く。

 結構寝たなぁ。

 もう昼過ぎかなぁ。


 ガラス戸を閉め、汗でベタベタになったジャージの上を下着と共に脱ぎ去る。

 部屋の中までお日様の力は及んでいるので、空気は暖かだった。

 昨日のあの天気は何だったんだ。

 お陰で風邪引いちゃうし。

 そう言えば、おでこに乗っけておいたあれ、どこに行ったっけ。

 あった。

 ピアノの下、枕の側に。

 辛子色のハンカチ。

 自分の汗でぐっしょり濡れていた。

 ひどいね、こりゃ。


 寝室の横の台所兼食堂に荷解きしていないダンボールの間をすり抜けて移動。

 ガス式炊飯器すいはんきから香る米の炊けるいい香りが鼻をくすぐる。

 給湯器に火を入れるけれど、どうせシャワー浴びられる温度まで温まるにはしばらく時間がかかるだろう。

 薬缶をダンボールから引っ張り出して水を入れ、味噌汁の入った小鍋の隣の五徳に置く。

 元栓を捻ってからマッチをり火を付ける。

 金盥かなだらいを流しに置くと、台所を挟んで寝室の向かいにある風呂場へ。

 そこでジャージの下も脱いで、上着と一緒に脱衣所にある洗濯機に突っ込む。

 台所に戻って着替えをダンボールの中から物色していると、ピーと薬缶が鳴り始めた。

 火を止めて薬缶の中身を流しの金盥かなだらいに空けると、水道をひねって水で薄め、ちょうど良い湯加減に。

 ハンカチをそこに入れて軽くゆすぎ、きゅっと絞って食卓の椅子に寄りかかり、体をきにかかる。

 まず顔をぬぐい、その流れで首、両腕から脇の下、形の良い(重要なのは大きさじゃない。形なのだよ明智くん)乳房と、徐々に体の下の方へと汗を拭き取ってゆく。

 手を動かしていると、昨日のことが徐々に思い出されてきた。

 引っ越しと、凍江こごえくんとの出会い。えへへ。

 そう言えば、変な夢見たなぁ。

 闇に浮かぶ花嫁衣装が、花嫁衣装……

 お尻を拭いている手を止める。


 保温になっている炊飯器と、ガス台の五徳を一つ塞いでいる味噌汁の香りがする小鍋。


 ガス台の小鍋に触れる。

 まだ暖かい。

 流しの横にある玄関へ駆け寄り、引き戸を横へと開け放つ。

 家からバスの通る舗装ほそうされた道をつなぐ木立に囲まれた山道。

 そこをおおう新雪に刻まれた、複数の足跡。


 まず、雪に埋もれた小さなくぼみ。玄関まで一筋に来ている。

 これはボクのものだろう。

 次に、これも雪に埋もれた大きな足跡。

 これは二筋ある。ボクの家まで来て、帰ったのか。

 最後。パンプスの跡。一筋は雪に埋もれ、もう一筋は家から舗装路ほそうろまで行く方の跡ははっきりとその形が残されている。歩幅からすると、かなりの長身。

 頭に思い浮かぶのは、昨夜の花嫁衣装の女の事。

 熱で頭がやられていたかと思ったけど、そうじゃなかったんだぁ。

 引っ越し早々随分と二人の訪問者。

 ボクって人気者だなぁ。

「ははは」

 笑ってみたけれど、背筋にすうっと寒気が走る。

 怖くなって扉を閉めようとして、手が止まる。


 雪を踏み締める音がする。

 山道の向こう。まだ姿は見えない。

 常識的に考えれば、扉を閉めるべきだろう。

 けれど、雪を踏みしめながら必死に前へと進もうとする、その音。

 そして、微かに聞こえる歌だ。

 間違いない。間違いない間違いない!

 家を出て刻まれた足跡達を蹴散らして十メートル程進む。

 そこで山道は緩やかに左に曲がって。

 そして、やっぱりそこにはキミがいた。


凍江こごえクン!」

 ボクから歩いて十歩ほどの距離にジャージを着て、パンパンになった紙袋を抱えながら歩いていた。

 下を向いて新雪に刻まれた足跡を真剣な表情で追って歩いていて。

 ゆっくりと顔を上げたキミはブンブンと手を振るぼくに気がついて……


 絶叫が山に木霊こだました。


                  ▶︎▶︎ ▶︎


 二日連続で服を借りる事になるとは思わなかった。しかも女性から。

 今日は上じゃなくて、ホットパンツを借りている。

 始めはフリルが付いているロングスカートとか、滅茶苦茶めちゃくちゃ短かいスカートを勧められて、必死になってダンボールの山から引っ張り出して一番まともそうだったのを選んだ。

 ジャージがあったけど、有奈華ありなかさんの汗で濡れているとの事だったので残念だけど選択肢からは除外だ。

 濡れてしまったぼくのジャージは、ハンガーに掛けて軒先に吊るしてもらっている。


「ごめんねぇ、驚かせちゃって。はい、お茶。あったまるよぉ」

 台所を挟んだ向かいから、台所で淹れたお茶を有奈華さんが差し出してくる。

 ボートネックの薄手のセーターは体の線を綺麗きれいになぞっている。

 少し前かがみになった拍子に胸元がのぞきそうになって、思わず視線を外らす。

「ありがとうございます……」

 湯飲みの中では茶柱ちゃばしら呑気のんきにぷかぷか立って浮いていた。

 まぁ、胸元も何もその奥にあるものをまるっとさっき見てしまった。

 不可抗力で。


 営業所の松本所長からの命令で、直接服を借りたお礼とお客さんがいたのに寝てしまった謝罪に来た訳だけれど。

 雪に残された足跡を追って歩いていたら、有奈華ありなかさんが木立の向こうから現れた。

 しかも、全裸で。

 雪に反射する日の光に照らされ、白い肌は中の血管が見えるかのように透明に輝いていて。

 全力で振る手の動きに合わせて細い体の上にささやかだけれど形の良い胸が左右に……

 駄目だ思い出したら下半身が反応して来たホットパンツだからまずい事になる別の事に集中目の前のお茶お茶お茶茶柱立ちゃばしらたってる茶柱勃ちゃばしらたってる待て待て。

「あっつ!」

 邪念じゃねんを払おうとして慌てて飲んだられたてなのを忘れていた。

「大丈夫かい⁉︎ ごめんよぉ、のど焼けたりしたりしてないかい」

「いえ大丈夫なんで本当に近付かないでください」

 この人間合いがおかしんだよ勘違かんちがいするから離れていて欲しい。

 有奈華ありなかさんは心配そうな顔をしながら向かいの椅子に腰を下ろす。

 とにかく本題に入らなきゃ。


「あの、熱は」

 お茶を息を吹きかけて冷ましながら質問をする。

「ん? もう大丈夫! ありがとうねぇ、昨日はハンカチ貸してくれて。おかげで頭もすっきり」

 有奈華ありなかさんは背もたれに掛けられたぼくのハンカチを手に取る。

「いえ、こちらこそ有奈華ありなかさんが風邪を引いているのに、コートをお借りしてしまって。すみませんでした。クリーニングして後日お返しさせて頂きます」

「え、いいのにぃそんな事しなくても」

「いえ。雪でちょっと」

「あ、気ぃ使わせちゃったなぁ。ごめんねぇ、じゃあボクも身体中の汗をキミのハンカチで拭いちゃったから、クリーニングに出して……」

「あげますあげますあげますからそれ!」

「え、でも悪いよぉ」

「全然悪くないですというかお近づきの印として受け取ってくださいっていうか絶対にぼくに返却しないでくださいお願いします!」

「いいのかい? えへへ、嬉しいなぁ、凍江こごえクンからのプレゼント。大事にするねぇ」

 邪気のない顔でにこにこしている。

 危なかった。返却されていたら特殊な性癖に目覚てしまったかもしれない。あの布をビニール袋に入れて終日嗅いで半笑いしながら過ごす自分の未来をつぶせて良かった。


「ところで食事しても良いかなぁ。昨日の晩から食事してなくてさぁ。お腹がペコペコで」

「あ、勿論もちろんです! すみません、お昼時に」

「じゃぁ早速もらったパンとか缶詰頂くねぇ。風邪は治ったけど、料理しないで食べられるものはありがたいよぉ。営業所の皆さんに宜しくねぇ」

 お詫びの品として寮の食料をかき集めた紙袋の中から、加工しなくても食べられそうなものをぱぱっと開けてゆく。

 パンの上にチーズとオイルサーディンを乗せて、トースターに入れる。

 すぐに香ばしい良い匂いが部屋の中を満たし始めた。


「あっちにお味噌汁とかあるみたいですけど……食べないんですか」

「あぁ、あれはちょっと信用できないからさぁ」

 不審そうな目をして炊飯器とガス台の上の小鍋を見た。

 何だろう? ちょっと傷んだ匂いでもしたのかな?

凍江こごえクンもお昼一緒しない?」

「あ、いえぼくは食べて来たので」

 やっぱり午後一に来るのは良くなかったかな。

「そう? じゃあこのフルーツポンチの缶詰開けるから、分けて食べよ?」

「や、それは、悪いんで」

「気にしない。ボクが一緒に食べたいんだからさぁ」

 何か手伝いますかと聞いたけど、いいから座っていてぇと笑われた。

 引っ越しの段ボールに囲まれたテーブルが、みるみるうちに食材で彩られていく。

 使っているお皿が良いのか、とても缶詰など出来合いのものとは思えないくらい華やかな昼食になった。

「「いただきまあす」」

 食パンにかじり付く有奈華ありなかさんを見て、やっと何か安心した気持ちになった。

 昨日の夜は、有奈華さんが消えてしまった後、この人が雪の山道で死んでしまったのではないかとずうっと心配をしていたから。


 それにしても、と思う。

 色々と妙な家だった。

 この段ボールの量、昨日引っ越しをして何故なぜ昨日誰もそのことを話していなかったのか。

 引越しのトラックがバスの路線に駐車されていたら、絶対に耳に入る筈だ。

 ここは山の中。

 寮のみんなは娯楽ごらくに飢えていて、情報は早い。

 引越しは半日仕事だ。

 その間に寮の先輩たちの誰も目撃しなかったのは奇妙な話だった。


 大体、この家からして変だ。

 新築ではないから誰かが生活をしていた筈で。

 でも、営業所の先輩は、有奈華さんの安否を確認しに行ったスカさんからこの家の話を聞いても、存在を誰も知らなかった。

 例えバスに乗らなくても、駅からこの家まで徒歩や車で移動する必要がある。

 この家に住んでいた人が仮に山道などを使って移動をしていたとしよう。

 けど、この地域はまだ上下水が整備されていない。

 りのバキュームカーは必要だ。

 し尿を仮に家庭菜園などで利用していたとしてもプロパンガスの交換や電気の検針、必ず誰かが行き来する。

 それに、誰も気がついていなかった。


 極め付けは、隣の六畳間にあるピアノ。

 家に置きやすいアップライト型じゃない。

 コンサートホールにありそうなグランドピアノだ。

 部屋にぎっちぎちに置いてあって、寝る場所がないからという理由で布団がピアノの下に置いてあった。

 こんな馬鹿でかいもの、家の中にどうやって運んだのだろうか……


「どうしたのぉ、具合悪い?」

 その言葉で我に返ると、フルーツポンチの入ったガラスの小鉢こばちを持ちながらちょっとうとうとしていた。

「あ、すみませんっ、今朝も朝早くて、雪かきとかしていたから」

「そういえば今日は仕事は?」

「昨日遅かったので、所長がシフト変えてくれたから」

「ふうん。じゃあ、ちょっと寝ていく?」

「や、いいです大丈夫です!」

「気にすることないのにぃ。もしかして女子の家に入るのは初めて?」

「いえ、あの、うち妹いますし」

 あれ、何で妹の話を。緊張して誤魔化ごまかそうとしているのがばればれじゃないか。

「へぇ、いいなぁ兄妹きょうだい。妹さん、なんて名前なのぉ?」

さきです。漢字で花が咲くの、さき

「いい名前だねぇ。妹さんも歌好きなのぉ?」

「そういえば、今日はお姉さんはいないんですか?」

 話を逸らそうと昨日スカさんから聞いた人の話を振った。

「姉ぇ?」

 バスの営業所の前にある蕎麦そば峻厳しゅんげんさんからもらった生ハムをつまみながら、きょとんとした顔をする。

「あれ? じゃあご友人? 昨日来ましたよね、スカさん、じゃない弊社へいしゃの運転手の横須賀よこすかが」

「ボクが家帰ってからぁ?」

「そうです。横須賀がここの家に来て、家人の方に有奈華ありなかさんが帰宅していることを確認したって。それで、場所を横須賀に聞いてぼくが今日ご挨拶に伺ったんですけど……若くて背の高い女の人って言ってたから、お姉さんなのかご友人かと思ったのですが……」

「ボクは昨日から絶賛一人暮らし始めたばかり……待て。そいつ花嫁衣装着てたって言ってなかったぁ?」

「いえ、そんな説明はなかったですけど……知り合いじゃないんですか?」

 有奈華ありなかさんは難しい顔をして何かを考えている。

 え、昨日スカさんが会ったのって、じゃあ誰なの?

 有奈華さんの知り合いじゃないとしたら、それってまずくない?

 泥棒に入られたとか?

 大体ぼくが男一人でここに行かされたのも家に二人以上の女性がいる事が前提だったわけで。

 もし一人暮らしとわかっていたら、車掌の先輩と一緒に行かされた筈だ。

 女の人と同じ屋根の下で二人きりとか、この状況も結構まずくないか?


 急に落ち着かない気持ちになっていると、有奈華ありなかさんがふっと表情を緩めた。

凍江こごえクンはさぁ、多分音楽が体から常に溢れているんだねぇ」

 ? 一体この人は何の話を始めたんだ。

「手ぇ出して」

 そう言いながらぼくに向かって自分の手を差し出してくる。

「手?」

「キミ、さっきから手をんでいるでしょ?」

 自分の手を見る。

 本当だ。右手の平を、左手の親指でぐいぐいと押していた。

 いつからやっていたんだ、これ。

「本当にさぁ、音楽が生活の一部だったんだろうねぇ。だから、それがあふれてしまっていることに自分で気がつかない」

「そんなこと……」

「実はさぁ、昨日キミの歌を聴く前から気づいちゃいたんだ。だから、ずうっと気にして耳をませていたのさ」

 気づいていたって、どう言う事だ?

 そう自問しているとすっと食卓から立ち上がった有奈華ありなかさんが有無を言わさずぼくの手を取った。

「ちょ、何するんですか⁉︎」

「いいからぁ。ほぐしてあげる。自分でもピアノ弾く時に自分でやっているからさぁ。信用していいよ?」

 両手でぼくの右手を包む。

 昨日のような異常な高温ではないけれど、小動物のようなその温もりに目眩めまいを覚える。

「石鹸のいい香りするなぁ。気づかなかった、昨日は鼻詰まっていたから」

「……からかわないで下さい」

「からかってなんてないよぉ。いきなり揉むと筋痛めるからまずは温めるねぇ」

 時計が一秒を刻む音がやけに大きく聞こえる。

 それより大きな音を立て、ぼくの心臓は血液を身体中に送り出していた。

 ぼくは座っていて、有奈華ありなかさんは立っていて、だから緩やかに上下する胸がぼくの頭のすぐ横にあって。

 目のやり場に困るんだよ本当に。


 ぼくの気を知ってか知らずか、ゆったりとした動きで親指にじんわり圧が掛かる。

 昨日の歌と同じように、その導入に気づく事は出来なかった。

「キミはさぁ、本当に面白い子。こんなに音楽が好きなのにさぁ。一生懸命離れようとしている」

「何を言っているのか、わからないです」

「そぉ? 素直にならないと将来痛い目見るよぉ。痛かったら教えてね」

 そう言うと、親指をぐっと逆関節側にゆっくりと反らす。


「仕事、楽しい?」

「まだ、半人前ですけど。昨日も天候に合わせた準備できなかったですし。でも、職場の先輩たち優しいですし」

 次に、人差し指。

「昨日も言ったけど、バスの車掌さんがまだ東京に居るって思わなかったなぁ」

「山間部だから、安全確認のために車掌が必要なんです。あと、ボンネットバスは前輪と後輪の間が短いから山道では小回り効きますし」

 中指。

「続けたい?」

「そんなに長くはないって分かってはいるんです。ワンマンバス化の流れは、避けられないから。ここも、リストラに反発したいろんな地域の人たちが寄せ集められて出来た営業所らしいですし」

 薬指。

「でも?」

「バスの免許取ろうかなって、年齢的にまだですけど。横須賀先輩見てたら、そう思って。そうしたら、別の土地に行ってもやっていけるから」

 小指。

「ごめんよぉ」

 ?

「ごめん。先に謝っておくよ。ボクはキミが望む未来を阻む事になるから、結果的にさぁ」

 ぼくの右手の指の間に、するっと有奈華さんの左手が滑り込む。

「キミはこの営業所を早々に立ち去るし、先輩たちともお別れだし、バスの運転手にもならない」

「どうして……」

 手にぐっと力が入り、顔を近づけて来た。

「キミが偉大な歌い手になるからさぁ」


「……はい⁉︎」


 有奈華ありなかさんはぼくの顔を見ながら目を輝かせてまくし立てる。

「ボクがキミの音楽の先生になって、歌の指導をするのさぁ」

「キミは自分の価値にも、音楽を愛している事も気づいていない」

「だけど、ボクは気づいた。キミが気づいていない、いや、あのバスに乗って来た全ての音大生や教授すら気づかなかったキミの声の力に。可能性に」

「キミはこの営業所で確かに仲間として受け入れられていると思うし、大切にされていると思う。だけど、今の仕事をキミが続ける事は世界にとっては不幸だ」

「だって、キミの声を知る機会が損なわれてしまうんだから」

「能力がある者は、その力を正しく使う義務を人々に対して負う」

「そして、その能力に気づき、それを伸ばす力がある者は、を行うべきなんだ」

「つまりさぁ、ボクはキミの歌声を世界に対して届ける義務がある」

「だからさぁ、キミが思い描いている未来は永遠に訪れない。だから、」

 絡む手に力が籠る。

「先に謝るねぇ。ごめん、キミの未来の一つを潰してしまって」

 そして物語に出てくるヒロインのように輝く瞳で、ぼくにこう呼びかけた。


「さぁ、ボクと歩もう。偉大なる歌い手へと至る道を」

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