▶︎02_b.警告

犬吠埼いぬぼうざき凍江こごえはいるか」

 蕎麦そば峻厳しゅんげんに入って来た漆黒の肌を持つ花嫁衣装の女は、そう言った。

 ちゃんちゃかちゃかちゃちゃんちゃかちゃかちゃんちゃか。

 静まりかえる店内にテレビから流れる演歌歌手の嶋乃田しまのだの能天気な曲が響く。

 外では再びエンジン音が高鳴ってから、上の方へ遠ざかって行く音がした。


「……えっと、ぼくですけど」

 みんなの視線がぼくに集まる中手を挙げると、女の人は鋭い眼差まなざしをこっちに向け、スカートの端を摘んで音もなく歩み寄って来る。


「ねーちゃんねーちゃんこんなちんちくりん放っておいてさー」

 運転手のハシモさんが花札を止めてナンパをし始めた。

 でれでれした顔して正気か、この人。

 女好きだとは思っていたけど見境みさかいなさすぎるだろ。

 これから結婚するんだか、今さっきして来たかって格好ですよ。

 ナンパ相手としては完全にアウトでしょ。

「俺とあっちでよー、一緒に昼飯ひるめしでも……」

「失せろミジンコ」

「はい」

 目線もくれないドスの効いた一言でハシモさんは尻尾を巻いて退散した。

 いや、こう言うとヘタレっぽいけどこの人にナンパを試みたって点に置いては勇者と言っても過言じゃない。


 花嫁はぼくが座る四人掛けのテーブルの、スカさんが座っていたぼくの目の前の席に滑り込むように座る。

 改めて正面から見ると、肌の色と相まってどこの出身なのか印象の絞れない顔立ちだった。

 敢えて言うならギリシアの黒い壺に書かれている人に似ている感じか。

 じゃあギリシア人なのかと言ったらそれも違うだろうし。

 そして座ってもぼくとの身長差は圧倒的で。

 うっかり目線を水平にすると、白く薄い布で包まれた大きな胸の盛り上がりと布に包まれていない胸の谷間が目に入ってしまうので、意識的に顔を上げていくしかない。


 誰だ、この人。

 全く見覚えがない。

 なのに相手はぼくのことを知っているみたいだし、あからさまに敵意のある視線で見下げて来る。

 女の人が右手でがっとスカさんの食べていた昼食を隣の席に避け、何かを話そうとしたその時。


「お、お帰りなさいませお嬢様〜。今日は一段とお綺麗です〜」

 次に京子さんが来て水の入ったコップを横に置く。

 そして恐る恐る注文を取りにかかる。

「所で今日は何をお召し上がりになりますか?」

「ざる蕎麦そば一枚」

「あ〜……」

「ざる蕎麦そば一枚だ。聞こえなかったのか」

 京子さんは申し訳なさそうな顔をして、言わざるを得ないことを口にした。

蕎麦そばは無いんです〜……申し訳ございません……」

 そこで初めて、花嫁は京子さんを見た。

蕎麦そばが無いって入り口の暖簾のれんにそば一筋って書いてあった……何だお前何故なぜ蕎麦屋そばや給仕きゅうじがメイドの格好をしている」

 多分、あなたには言われたく無いと思う。

「あ〜、毎日割烹着かっぽうぎでお店に立っていたんですが退屈なのでちょっと変わった格好で働いてみたら結構皆さんの受けが良かったので……英国式お蕎麦屋そばやさんです〜♡」

 指でハートの形を作る。花嫁はクスリともしない。

 京子さんちょっと涙目。


「で、その英国式お蕎麦屋そばやさんに何故ざる蕎麦そばが無いのだ」

「あの〜、皆さん毎日ここに来られるので、蕎麦そばばかり食べていたら飽きてしまわれて。ついでに大将も毎日同じ事の繰り返しに飽きてしまったんです〜」

「では何なら出るのだ」

蕎麦そば以外なら何でも〜」

「何でもか」

「ええ、はい、まあ、う〜ん多分です〜……」

 自信なさげにそう答えると、厨房の大将に助けを求めるように視線を向ける。

 大将は無言で一つうなずいた。


「フェットゥチーネ・アルフレード」

「ファッ?」

「フェットゥチーネ・アルフレード」

「フェッ……アルフレード……アルフレ〜ド、お嬢様がお呼びですよ〜」

「誰がボケろと言った。フェットゥチーネ・アルフレード。何でも出るんだろ」

 何だその料理。どんなものなのか全く想像ができない。

 京子さんはアルフレ〜ド、アルフレ〜ドと呪文を唱えるように繰り返して厨房へ消えて言った。


 ぼくの肩に誰かの手が触れる。

 振り返ると、京子さんと入れ違いに成瀬なるせ先輩が立っていた。

「初めまして。犬吠埼の同僚、成瀬と申します。失礼ですがお名前は」

 漆黒の花嫁は成瀬先輩をじっと見ていたが、しばらくしてからため息をつく。

「次から次へと賑やかなものだな」

 それから成瀬先輩に向き直った。

「くじ、だ。岩手の久慈くじ市の久慈くじ

 え、この人日本人?

 確かに言葉は訛りとか無いし、ハーフだったりするのか。

久慈くじ様、改めて初めまして。本日はお目出度めでたい日なのでしょうか」

 花嫁衣装を見ながら、成瀬先輩が質問をする。

「いや」

「そうですか。では、何故そのような格好かっこうを」

 久慈くじさんが鼻を鳴らす。

「お前に何の関係がある」

「確かに。こんな山の中ですもの。時に退屈になってメイドの格好をしたり、蕎麦そばを出さない蕎麦屋そばやがあったとしても不思議ではないですし」

 成瀬先輩は柔らかく微笑んだ。


「ところで、犬吠埼にご用があるとか」

「だからどうした」

「彼は数年振りに入って来た私共わたくしどもの可愛い後輩です。彼の問題は私共の問題でもあります。差し支え無ければ、こちらに同席させて頂いても宜しいでしょうか」

 肩に置かれた成瀬先輩の手の暖かさを強く感じる。

 京子さんが来て久慈くじさんの前菜のサラダとスープを置いてゆく。

「好きにしろ。こいつがどう思うかは知らんがな」

「ありがとうございます。凍江こごえくん、良いかしら」

「……お願いします」

「わかったわ。では、失礼します」

 成瀬先輩はぼくの隣の椅子を引くと腰を下ろす。

「それと、食事をしながらでも構わないでしょうか。丁度久慈くじ様のも来ますし」


 大将が雪駄の裏を擦りながら何かが乗った皿を持って厨房から出て来た。

 いつも通り人でも殺しそうな顔をして、小柄だけれどがっしりした体を揺すってまっすぐここに来る。

「フェットゥチーネ・アルフレード、お待ち」

 皿を久慈くじさんの前に置く。

 これが、フェットゥチーネ・アルフレード?

 パスタにクリームソースがたっぷり掛かっている。

 想像よりも結構普通の食べ物っぽい。

 京子さんが足付きのグラスにガス入りの水を入れたりして、そこだけ田舎の片隅とは思えない小洒落た感じの空間になって来た。

 久慈くじさんは両手を自分の目の前で組み、何か小さく祈りの言葉のようなものを唱えてから食事を口にした。


 ぼくも残りのカレーを食べ始める。

 店中の人達の視線がここに集中しているのを感じてちょっと落ち着かない。

 成瀬先輩も片倉先輩に残していたサンドウィッチを持って来てもらい、食事に加わっていた。

 久慈くじさんをちらりと見ると、とても綺麗な食べ方だった。

 フォークだけでくるりと巻いた白いソースのたっぷりかかったパスタを上手く巻いて口に運ぶ。

 白いソースが唇を濡らす様がどこか退廃的で、思わず目を逸らす。

 それにしても、突然来て人の事を呼び捨てにする横暴な感じと、今の上品な佇まい、二つの間がぼくの頭の中で上手く繋がらない。


「ご馳走様」

 久慈くじさんは食事を終えると、唇をナフキンで拭う。

「やはり食事はいいな。肉体を持つ物の特権だ」

 入って来た時より、言葉の角が大分取れている。

 これは、もしかしたら京子さんや成瀬先輩がぼくを守ろうとしてくれた結果なのかもな。

 漠然とだけれど、久慈さんの小さな変化を見てそう感じた。


「大分寄り道したが、本題に入るぞ。いいか」

「どうぞ。いいわよね、凍江こごえくん」

 成瀬先輩が確認してくる。

 ぼくは小さく一つ頷く。

 テーブルの上の食器を京子さんが片付け、久慈さんは空いた場所で手を組んだ。

 姿勢がやたらにいいから意図してかどうかわからないけれど、威圧感がすごい。

「そう構えるな、大した話ではない。ちょっとした忠告みたいなものだ。有奈華ありなか六音ろくね。知っているな」

「……はい。音大の生徒さんですよね」

「そうだ」


「で、その有奈華ありなかの事だが、あいつとは関わるな」


 久慈さんの目を見る。

「あの、すみません」

「何だ」

「何で、有奈華ありなかさんと関わって欲しく無いんですか」

「これはお前のためでもある」

「ぼくの、ため……」

「今、お前はあいつに無理な要求をされているだろ」

 久慈くじさんは空いたグラスにガス入りの水を注ぎ始める。

「お願い事をされているのは、確かです」

「そのお願いとやらは、お前の望む事か」

「違いますけど……」

 グラスはどんどん水で満たされていくけれど、注ぐ勢いを弱めようとはしない。

「そう言う事だ。元々がお前の望まない事をさせようとしている。その要求を飲んだとしよう。そうしたらあいつは次の要求をしてくる。そうしたらその次、またその次。気が付いたらお前は引き返せない」

 コップの縁から水が溢れ、天板へと流れ出た。

 水に含まれたガスが小さな泡を生みながら次々に弾けてゆく。

 久慈くじさんが注ぐのを止めると、小さな悲鳴は徐々に弱まった。

「その気が無いなら、一切の接触を断て。でないとお前と六音ろくね、双方にとって不幸な事になる。保証する」


 京子さんが来て溢れた水を布巾で拭う。

 それを見ていて気がつくと、自分の右手の親指の付け根辺りを揉んでいた。

 まただ。

 有奈華ありなかさんに指摘された事を思い出し、何となく止めて膝の上でぎゅっと手を握り締めた。

 成る程。久慈さんの言っていることに間違いはない気がする。

 自分が望まない事を要求されている事は確かだ。

 この忠告は、ぼくにとって有難いものになる筈だ。

 でも、何か違和感がある。

 口にすべきだろうか。


 不意に膝の上に置いた手に温かみを感じる。

 ぼくの左手に、横の席から手が重ねられていた。

 振り向くと成瀬先輩と目が会う。

 先輩は小さく頷いて、手に少しだけ力を込めてくれた。

 久慈くじさんを見るために顔を上げる。

 ぼくを見ようと覗き込むような姿勢になっている久慈さんの目は、真っ直ぐぼくを見てぶれたりしなかった。


「あの」

「何だ」

「忠告というより、警告に聞こえるのですが」

「その二つの間にどれ程の違いがあるのかわからないが、好きに受け取れ」

「警告だと……もし有奈華ありなかさんと関わった時に、久慈さんがぼくに何かをする可能性とか、そういうのが」

「想像力が逞しいな。それも若さの特権だ」

 否定は、しないんだな。

「じゃあ、あの、何で久慈さんが……」

「こんな事を何故するかって?」

「ですし、あの、有奈華ありなかさんと久慈くじさんって、どんな関係なのかなって」

 久慈くじさんは呆れたという感じでちらりと天を見る。

「横須賀から何も聞いていないんだな」

「あれ、知り合いなんですか」

「一度会っただけだ。まあ先程私のバイク貸したから二回目か。大した情報は無いが横須賀に聞け。私が言えることは全て知っている」

 炭酸水が溢れているコップをこぼさない様器用に持ち上げ、久慈さんが口を湿らせる。

「質問がもう一つあったな。お前に忠告する理由は、単純に親切心だ」

 寸刻の沈黙が流れる。

 ちゃんぽろぽろぽろ。

 嶋乃田しまのだの別の曲がテレビから流れ始める。

 誰かスイッチを消して欲しい。


 外から、バイクの音が近づいて来る。

 それを合図にしたかの様に、久慈さんが立ち上がった。

「今日はここまでにしておこう。昼時に邪魔したな。娘!」

「は、は〜い!」

「払いは横須賀に付けておいてくれ。バイクを貸した対価として奢ってもらう約束だからな。成瀬殿」

「何でしょう」

「いい会社だな。この小さくも幸せな世界が続く様祈っている」

「ありがとうございます」

 先輩はにこりと笑う。

 久慈さんの言葉には、不思議と嫌味の様なものは感じられなかった。


 すらりとしたモデルの様な長身が入り口の戸が閉められて見えなくなると、部屋の中の緊張が一気に解ける。

凍江こごえ、おめーすげーな、あの女相手に一歩も引かねーでよー」

 ハシモさんが来て賞賛の言葉を掛けてくれるけど、ぼくからしたらあの人ナンパしようとした先輩の方がすごいですよ。

 不意に、手を握ってくれていた成瀬先輩が空いた方の手を肩に置いて来た。

 それで、まだ自分が体の緊張を解いていない事に気がついた。

「まだ何か言い足りないのでしたら、行くべきですよ」

 あるんでしょ? と、目が語りかけてくる。

「……ありがとうございます」

 頭を下げて、外へと向かった。


久慈くじさん!」

 外へ出ると、そこには真っ白いサイドカーがあり、久慈さんはバイク側にまたがっていた。

 側車側には、目つきの悪い年取った黒猫がいて、ぼくを見るとラジオの雑音ノイズみたいな鳴き声を上げる。

「あの!」

 アイドリングの音に負けない様に声を張る。

「あ、有奈華ありなかさんは、今後四年間音大に通われる、私たちの大切なお客様です。長く乗っていると、音大の生徒さんと顔見知りというか、会話とか。そう言うのをする事も、あります。それで、通学している間は、なるべく気持ちよく乗って頂きたいですし、誰かを無視するとか、そう言う事は、難しいんです。だから、久慈くじさんの言っている、会話をしないとか、そういうことは無理です」

 そこまで一気にまくし立てた。

 久慈さんはヘルメットは被っていないので、見つめ合う形になった。


 均衡を破ったのは久慈くじさんだった。

 急に高笑いをしたのだ。

 けらけらと声を出して笑う。

 笑われているのは勿論ぼくなんだろう。

 腹を立てた方が良いのだろうけど、驚きの方が大きくてただただ突っ伏して痙攣する久慈くじさんを見る他ない。

「いや、失礼。まだ体が馴染なじんでなくてな。何故なぜ笑ったのか自分でも意味がわからない。すまないな。多分これは、うん。私はお前の事が嫌いじゃ無いという事なんだろう、少年」

 掌で涙を拭いながら他人事の様に自分の気持ちを語る。

「先程のは忠告だったが、特別に警告を与えてやろう」

 笑い顔は引っ込んで、再び感情の読み取れない表情へと戻った。

「聞け、犬吠埼。六音ろくねとこれ以上関わると、その対価を魂で払うことになる。繰り返すがこれは警告だ」

 その警告は、正直意味がよく分からなかった。

 久慈くじさんはぼくの反応を待つことなく、クラッチをつないで坂の下へと消えて行った。


「ソ連製。六百五十cc。側車側のタイヤが駆動くどうする珍しい型だ」

 背中から声がする。

 振り返るとスカさんが入り口横に寄っかかって煙草を吸っていた。

「スカさん、久慈さんと会ったこと……」

「あの雪の日、音大生の家にいた」

「何て言ってました、有奈華ありなかさんのこと」

「家族だそうだ。音大生と」

「……何で説明してくれなかったんですか」

「雪の日にバスから失踪しっそうした客の足跡を追って山の中に入って行ったら、一軒家を見つけた。ノックをすると身長が俺と同じくらい。褐色かっしょくの肌と足元まで届く様な銀色の長い髪を頭の後ろで結わえた、ウェディングドレスを着た若い女が出て来て応対をした。その女は背の小さな色白の客の家族だと言う。俺の言う事信じるか?」

「……無理ですね。すみません」


 スカさんは煙草を足の裏でもみ消すと店の中へと入ってゆく。

 ぼくもその後を追う。

 スカさんが残りのオムライスを片付ける間、バイクの二本出しのエキゾーストパイプから出たガソリンの燃焼する匂いが鼻の奥にずっとわだかまっていた。


                  ▶︎▶︎


久慈くじぃ?」

「そうです」

「名前何?」

「いや、名前わからないです。苗字しか言わなかったので」


 大学からの終バス。

 駅から営業所までの区間でいつも通りお客さんが一人だけになったので、今日の昼の出来事を話してみた。

「で、久慈って名前なんですけど」

「はぁ。ぼくの知り合いにそんな名前の人居たっけなぁ」

「前言ってましたよね、横須賀が有奈華ありなかさんの家で見たって言ってましたよ。雪の日に」

「だからぁ、ぼくは一人暮らしだって」

「花嫁衣装がなんとか、この前有奈華ありなかさんの家にぼくが行った時に話してませんでしたっけ。恐ろしく背が高くて、それですごく深い褐色の肌で、髪の毛が白髪に近い銀色なんですけど……」

 うん、スカさん説明しなくて正解だなこれ。

 自分で言ってて馬鹿みたいな気持ちになって来た。

 でも、有奈華ありなかさんの顔がみるみる険しくなってくる。

 え、心当たりあるの?


 暫く固まっていたと思ったら、

「あいつかぁ!」

 座席から立ち上がったかと思うと、火がついた様に怒り出した。

「そうだ、肌の色が暗ければドレスの白が闇に浮かんで見えるわけだ! 久慈だっけか、じゃあやっぱり厚顔無恥にもボクの家に勝手に上がり込んで居たわけだ! おまけに来客らいきゃくの応対して朝食まで勝手に作りやがってぇ!」

「興奮しないで、席にお座りください!」

 なだめつつも、なんか久慈さんは有奈華ありなかさんにくす系の良い奥さん的な存在なのではと思った。

 勝手に上がり込んだ事は別として。

「じゃあ、久慈さんには心当たりあるんですね」

「あるも何も、ボクの家に勝手に上がり込んだ挙句あげく初キッスを奪って行きやがったんだよぉ!」

「だからまた立ち上がらないで下さい……ってファーストキスって何があったんですか」

「そんな事はどぉっでもいい‼︎ そいつがボクの凍江こごえクンに何の用だぁ!」

「別に有奈華ありなかさんのものでも無いですけど」

「そうか、ボクより先に凍江こごえクンに手を付けて横取りするつもりなんだなぁ!」

「いや、どっちかって言うと真逆の忠告ちゅうこくでしたが」

「何か手を打たないと、凍江こごえクンがその女の所に……そうだ!」

「走行中に立ち歩かないで……危ない!」

 がくんと車体が揺れて有奈華ありなかさんが転びそうになるけど、つり革を掴んでくるんと一回転してぼくの立つ車掌台の前で止まる。

「ねぇ、賭けをしない?」

「え?」

 唐突な提案に頭が追いつかない。


「賭けだよ、賭け。キミが音楽が好きだって事をボクが証明できたら、ボクの音楽の練習に付き合ってもらう。けどその証明ができなかったら、ボクは二度とキミに歌ってくれとか言わない様にする」

 ずいっと顔を寄せてくる。

「期限は今週末まで。つまりさぁ、あと数日ってわけ。どうだろう。キミにとっても悪く無い提案でしょ?」

 そしていつにも増して蠱惑的な笑みを浮かべてこう言った。

「キミにとってはボクとのやり取りを意外と早く終わらせる事ができるチャンスかも、だよぉ」


 あからさまな挑発ちょうはつ

 音楽が好きな事の証明?

 そんな事できる筈がない。

 だって好きではないですってぼくが言ってしまえばそこれで終了。

 しかも今は月曜日。

 期限は今週土曜日まで。

 残りは正味五日間。

 滅茶苦茶めちゃくちゃ有利じゃないか。

 この提案を受ければ、来週からは心穏やかな日々が戻ってくる。

 色々今の状況を考えると、口にする言葉は一つしかない。


「お家の前ですよ。お忘れ物無い様お気をつけください」


 バスはちょうど有奈華ありなかさんの家に繋がる山道の入り口で止まっていた。

 さっき揺れた時にだ。

 営業所からここまで歩くと夜道が不用心だからと言う理由で、上の許可を取って四月以降ここでバスを停めて降りてもらっている。

 田舎の路線だから色々ゆるくて融通ゆうずうが効くのだ。

「ちょ、待って何だよそれぇ!」

「いいから降りてください。これ以上居座ると業務妨害で出禁できんにさせてもらいますよ」

「ちょ、ちょま、折角せっかくいい感じにポーズまで決まったのにさぁ、答えを、答えを聞かせてくれおぉぉぉぉぉぉ‼︎」


                  ■

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