▶︎▶︎ ▶︎03_a.証明

 どん!

 隣の部屋から壁を蹴られる音で目を覚ます。

 やばいまた目覚まし時計が鳴りっぱなしだった。

「す、すいません」

 寝ぼけ頭で謝って、目覚ましを止める。

 朝五時半。

 隣の部屋は整備士のホッチ先輩。

 一通り仕事が終わって寝床に戻る所だろう。

 カーテンを開けてみると、山の稜線りょうせんが朝日に照らされている。

 電灯の紐を引っ張っるとちかちかと音がして円形の蛍光灯が部屋を照らす。

 光が刺々とげとげして目に痛い。

 徐々に慣れてくると、そこは布団と小さな文机があるだけの四畳半の部屋。

 ぺらぺらの布団を押入れに仕舞うと狭い部屋なのに妙にがらんとした感じ。

 文机の隣に無造作に置いてある学生かばんとリュックをつかむと、部屋のドアを開けて廊下へ。


 出てすぐ左側には寮の建物の玄関がある。

 新人はそこに置いてある公衆電話の番や郵便の応対をするために、入り口横の部屋が割り当てられる。

 つまり今年もぼくがここの部屋に住み続けることになるわけだ。

 限界先に投げられている新聞を拾い上げ、一面の天気欄確認。

 今日は全国的に晴れ。

 奥多摩版の欄にも目を通すと、午前午後共に降水確率は十パーセント。

 いい一日になりそうだ。


 寝間着がわりのジャージのままサンダルを突っかけて外へ。

 朝靄あさもやが立ち込めているから、予報通りの晴れなんだろう。

 湿った空気が頬を撫でて気持ちがいい。

 少し離れて建っている女子寮の部屋にはちらほら明かりが付いている。

 事務所の建物を過ぎるとだだっ広い露天の駐車場があり、川野辺交通のバス全全六両が駐車してある。

 車両の脇を通り過ぎると、魚が焼けるいい匂い。

 出どころは佐江津さえづ交通と道を挟んで建っている蕎麦そば峻厳しゅんげん

 厨房ちゅうぼうの明かりが、まだ陽の光が届かない山陰でそこだけ暖かく見える。


「おはようございます」

 暖簾のれんのかかっていない玄関を軽く叩いてから開けると、京子さんが大きな桶を持って厨房から出てくる所だった。

「お早うございます〜」

 おっとりした返事が返ってくる。

 京子さんは既にメイドさんの格好をしていた。

「大将もおはようございます」

 厨房では仕事を終えた大将が丸椅子に座って新聞を読んでいた。

 ぼくに気づくと頭をこくりと動かす。

「はい、皆さんのおにぎり。今日はシャケと梅干し。お味噌汁は豆腐となめこですよ〜」

「ありがとうございます! なめこ、いいですね! まだ朝は肌寒いですし、体が温まります」

 男子寮と女子寮で桶はそれぞれ二つ。上には丸いお盆とお椀。

 味噌汁の入った魔法瓶二つはカバンとリュックの中に納める。

「あ、ちょっと待っててくださいね〜」

 京子さんは戻るとお盆に乗った皿に乗った二人分の食事を持って戻ってきた。

「んふふ〜。はい、今日の京子スペシャルです!」

 京子スペシャルは大将に料理を教えてもらって試しに作ったものを、ぼく用に特別におにぎりにしてもらっているものだ。

 だからみんなのおにぎりと内容が違う。

 豚の生姜炒しょうがいためが入っていたり、さばの味噌煮が入っていたり、あるいは残り物のいくらが入っていたり、ビーフシチューの具が入っていたこともある。

 毎朝プレゼントの包みを開けるような気持ちになってちょっと嬉しい。

「ありがとうございます、いつもいつも……」

「気にしないでください! 私の実験台になっているは凍江こごえさんの方ですし〜。じゃあ、行きましょうか〜」

「はい!」


「行って来ま〜す」

 京子さんは大将にそう挨拶するとぼくと一緒に店を出た。

 ぼくが味噌汁と桶二つ、京子さんは味噌汁碗と箸の入ったお盆を持って寮へと一緒に戻る。

「そういえば〜」

 歩きながら京子さんが話し掛けて来た。

「昨日の女の人は大丈夫でしたか〜」

久慈くじさんですか」

「何か、美人さんでしたけど何考えているかわからなくて〜。ちょ〜っと怖っかったです」

「そういえば、ありがとうございました」

「何がですか〜?」

「注文聞いてくれましたよね、久慈さんに。あれで、ちょっと心の余裕が持てたっていうか。来てすぐに話に入られていたら、ちょっと普通に話ができる自信なかったです」

「えへへ〜。あの人、凍江こごえさん抱えて連れて行っちゃうんじゃないかって。それで無理矢理結婚とかさせられたらどうしよう〜って。ここは一年先輩の私が守らなきゃ〜って!」

「いや流石に連れ去りって……」

「でも小脇に抱えて持ってゆこうと思えばできそうな感じでしたよ〜」

 まあ確かに。

 あれだけ身長差あるとそれが不可能だと否定できないところが辛い……

「冗談ですよ! でも、凍江こごえさんはこの営業所に来た久っしぶり〜の新人さんですから! 何かあったら私達が守ります!」

 女子寮の入り口に味噌汁椀を置くと、京子さんはふんすっと両手を胸の前で握って鼻息を荒くする。

「今日も一日、高校行かずに働く者同士頑張りましょ〜!」

 そう言うと軽くグーを握って突き出してくる。

 ぼくはそれに軽く握った拳を当てた。

 今日も、新しい一日が始まる。


                  ▶︎▶︎


「受けたのか」

 六時半。

 朝食を食べ終えた後で(京子スペシャルのおにぎりの中身は豚の角煮と野沢菜だった)駐車場での出発準備。

 整然と並ぶ全六台のボンネットバス。

 その内朝四台でみんなが黙々と作業をしている。

 窓拭きをした後ヘッドライトに雑巾掛けをしていたら、バンパーに乗ってエンジンを見ていたスカさんに声を掛けられた。


「昨日の有奈華ありなかさんとの賭けの話ですか。すみません、業務中に私語ばかり……」

「他に客もいない。問題ないだろ」

 ボンネットを閉めて、地面へと飛び降りる。

「賭けは、受けました。これ以上業務中に話し掛けられても迷惑ですし」

「勝算は」

「勝算も何も……音楽が好きだなんてどうやって証明するのか。嫌いだって言えばそれまでですし……」

「成る程」

 スカさんは胸ポケットから飛び出し式のくしを取り出して、ぱちんと言わせる。

 髪を後ろに撫で付けると、再びポケットに仕舞った。

凍江こごえは可愛いな」

「え?」

 この人今何言った?

 確認しようとしたけれど、スカさんはポケットから煙草を取り出して駐車場の端へと歩いて行く。


 それにしても、賭けか。

 ボンネットなどのクローム鍍金めっきを拭きながらぼんやり考える。

 有奈華ありなかさんはどうやって証明するつもりなのだろう。

 ぼくに歌わせるつもり?

 いや、それは無いな。

 これだけ何回も断っているから、改めて頼んで来たりしないだろう。


 あるいは実家を探し出して、ぼくのことを聞き回るか?

 それも難しいだろう。

 まず、ぼくは実家の住所を教えるつもりはないし、会社も外部の人に教えたりしないだろうし。


 図書館とか電話帳が沢山あるところに行って、苗字を虱潰しらみつぶしに調べるって可能性もある。

 そんなにある苗字じゃないから、辿り着く可能性はぜろじゃない。

 それでも電話帳は市町村単位だからぼくがどこの出身かを目星付けないと難しいし、相当な時間が必要な筈だ。


 仮に見つけ出したとしても、父さんや母さんは、間違ってもぼくが音楽が好きだと言ったりしない。

 合唱団の先生も。

 咲は、どうだろうか。

 大好きだよ、お兄ちゃんは、音楽。きっと今でも。

 そう答えるかもしれない。

 咲は、歌が好きだ。

 音楽も好きだ。

 そして、ぼくのことも。

 期限は、今日を入れてあと四日。


 車体のクロームパーツを磨き終えると、一通り清掃が終わった。

 腰を上げるとスカさんが山から上がって来た日の光に照らされて他の運転手さんと一緒に駐車場の外れで煙草を吸っているのが目に入った。

 音大生さんの喉のことを考えて、バスには珍しく車内が禁煙になっている。

 だから、始発前には運転手の先輩たちが駐車場脇に設置された喫煙所で吸い溜めするのが日課になっていた。

 その先輩達が一様にスカさんを見ていた。

 でも、みんなちょっとずつ距離を取っていて、ハシモさんなんて露骨ろこつに後ずさりしている。

 何だろうと目を凝らしてぎょっとした。


 スカさんは、笑っていた。

 勿論声を立ててではない。

 静かに、顔を歪めて笑っていた。

 口は大きく片方に引きつれ、目は伏せて静かに肩を揺らしている。

 ぱっと見は完全に不審者のそれだ。

 これ街中でやっていたら職質決定なやつだ。

 幼稚園でやったら阿鼻叫喚の光景が広がる、間違いなく。

 だけど以前成瀬なるせ先輩が言っていたのを聞いたことがあった。

 横須賀くんの笑顔って癖が強くて、タスマニアデビルがワラビーの腹を食い破る時の顔にそっくりだから、と。

 聞いた時は全くどんな顔か想像できなかったけど。

 今、ぼくが目にしている顔が多分それだった。


                  ▶︎▶︎


 始発の停留所には、つまらなそうな顔をして煙草をふかしていた。

「お乗りの方はいますか?」

 一応声を掛けてみる。

 けど、当然というか、乗る人はいなくて手を振って寮へと引き上げて行く。


 停留所に有奈華ありなかさんは現れなかった。

 四月になってからは一度もなかったことだ。

 賭けとは関係あるのかな。

 扉を閉めて出発の合図。

 ぶぶぶぶっとエンジンが不機嫌そうに嘶いて坂道を下りだす。


 ちょっとだけ初めて会った日のことが頭をぎる。

 高熱出していたよな、あの人。

 まさか、家で熱出して倒れていたりしないよな。

 寮だと風邪をひいてもなんだかんだお節介な人が一杯いるし、食事も向かいの峻厳しゅんげんさんが作って持って来てくれる。

 だけど、あの山の中で風邪を引いたら食事も作れないだろうし。

 そう言えば、あの家って電話引いていたっけか。

 何かあった時に、連絡とかできるのかな。

 右手で持った切符切り用のはさみを手袋をはめた親指で拭う。

 考えすぎだ、馬鹿らしい。

 別の時間に乗るかもしれないし、今日は授業が午後からあるのかもしれないし、駅から乗るのかもしれない。

 おんぼろが坂を下る速度がいつもより遅く感じる。


 民家を通り過ぎて、川野辺かわのべ駅のロータリーの中へ。

 停留所の列を確認する。

 いた、真ん中ぐらいに金色の長い髪がちらちらと揺れているのを確認。

 良かった、家で倒れていたわけじゃないんだ。

 いやいや、何安心しているんだ。

 あの人がいたところで厄介やっかいなだけだろ。

 仕事に集中。

 心配したでしょ、とか言われたらしゃくだし。


 扉を開けて外へ降りると、今日も駅の改札から切符を切る音。

佐江津さえづ音大行きです。音大の方は学生証の提示をお願いします」

 一応はさみを手に案内をする。

 並んでいるのはもう覚えた顔ばかりだけれど、準備しなくて良いわけじゃない。

 次々にバスの中に生徒さんが入って行く。

 有奈華ありなかさんはコントラバスの女生徒、勅使河原てしがわらさんと何か楽しそうに話していた。

 ちょっと意外だった。

 この二人が話しているところ見たことがなかったから。

 というか、有奈華ありなかさんが大学で何をしているのか、始発から終バスまで何をしているのかとか、話をしたことがなかった。

 いつも一方的にぼくのことを聞いて来るから。


 だけど、朝から笑いながら楽しげに何かを話す二人を見て、ああ、この人って音大生なんだなって。

 なんか妙に納得した。

 きっと意地悪な教授のこととか、つまんない学科の話とか、学食のメニューでどれが好きかとか、誰か気になる人がいるかとか、そんなぼくとは違う日常の話をしているのだろう。

 なんか、それを想像して、ちょっとだけ胸がもやっとする。


 列が近づいて来たので、勅使河原てしがわらさんに今日も手伝いますかって声を掛けようとした。

 その直前、有奈華ありなかさんが「手伝うよぉ」って言って、勅使河原てしがわらさんのコントラバスに手を掛ける。

「え、いいですいいです悪いですし」

「ううん、大丈夫。テッシー毎日大変だもんねぇ。ボクは身一つだから楽なもんだよぉ」

 そう言いながらぼくにぱっと学生証を見せると、目も合わせずに車内へコントラバスの頭を持って誘導してゆく。

 勅使河原てしがわらさんは学生証をぼくに提示するとぺこりとお辞儀をして乗り込んだ。


 え、何だ今の。


 残りの列の生徒さんが学生証を見せてくれるけど、頭に入って来ない。

 ぶっぶ!

 警笛の音で我に返ると、出発の時間が過ぎていた。

 慌てて外から扉を閉め首から掛けている車掌鞄しゃしょうかばんはさみを仕舞い、笛を口にくわえロータリーの外れまで走って安全確認。

 旗を振って道路に誘導。

 道路に出たところで車内に戻ると、入り口横にある車掌台の横には大きなコントラバス。

 勅使河原てしがわらさんがぼくの立つ車掌台の横に座っていた。

 その隣には有奈華ありなかさん。

 発車の合図を送るとぶぶぶぅっとまだ寝ぼけた感じでバスが出発する。

 有奈華ありなかさんと勅使河原てしがわらさんは何かを話しているけれど、エンジン音にかき消されて耳まで届かない。

 どうしても隣にいる二人の会話の内容が気になってしまう。

 それに、駅での有奈華ありなかさんの……


 駄目だ集中。

 今は業務中だ。

 さっき駅で気を抜いて失敗してしまった。

 これでまたお客様やスカさんに迷惑を掛けるわけにはいかない。

 路面の状況確認。

 進行方向に十字路。

 左方向に歩行者や車がいないか確認。後方からバイクなど来ないか確認。

 次の停留所の案内。

「次は分かれ道。分かれ道。お降りの方いらっしゃいましたらお知らせ下さい」

 手を挙げる人はいない。

 停留所にはお客様が数名。

 停車後中扉を開けてお客様の学生証を確認。

 一応切符を切る準備。


 ぼくがここに居るのは、全てのお客様に等しく移動手段を提供するためだ。

 特定の誰かのためじゃない。

 とにかく安全確保と案内に意識を集中させようと努力する。

 一年間の蓄積があるから、それはある程度成功する。

 それでも業務に影響するようなら、ここにいて良いのか考え直した方が良い。

 ぼくには、雇ってくれて住む場所まで提供してくれる会社と、親切にしてくれる先輩方、峻厳しゅんげんの鈴木さん親子、つまり今いる全てにこだわるだけの理由が十二分にあるんだ。


 ただ、自分の意識外に有奈華ありなかさんを追いやるのに成功するのは、仕事をしている時だけだろう。

 その事も、何となくわかっている。


「ありがとうございました」

 降車した勅使河原てしがわらさんにお礼を言われた。

 ぼくも笑顔で返事をする。

 有奈華ありなかさんは勅使河原てしがわらさんとの話が楽しいのか、挨拶をする事もなかった。

 いつから紛れ込んだのか、バスの中から老いぼれた黒猫が一匹降りて二人の後を追って歩いてゆく。

 コンクリ造の校舎に向かって坂道を登ってゆく仲良さそうに話す後ろ姿を、停車時間中目一杯めいっぱいぼくは見つめていた。


                  ▶︎▶︎


醤油しょうゆ

 目の前で指が鳴らされる。

「醤油」

 意識が現実と結びつく。

 下を見ると夕食の豚の生姜焼きの皿に醤油の池ができていた。

 手には醤油差しを握っている。

「わっ、何だこれ!」

 慌てて手を止めるけれど、醤油差しの中身は半分くらいしか残っていなかった。

 テーブルを挟んだ向かいに座るスカさんが、無言で空いた小皿を差し出してくれる。

「すいません……」

「謝るようなことじゃない」

 皿を持ち上げて生姜焼きを箸で押さえながら余分な醤油を小皿に移す。


 駄目だ、業務が終わってからずうっとこの調子だ。

 バスの床をモップ掛けする時には水出しっぱなしにして靴濡くつぬらしたし、部屋に戻ってジャージに着替えたら前後ろ逆に履いていたし。

 サンダルは左右で違う色だし道を渡る時には電柱に激突したし。


凍江こごえ大丈夫かおめー。スカに迷惑掛けてんじゃねーだろーな」

 晩飯を同席しているハシモさんが焼き鳥を食べながら呆れたようにぼくを見る。

「や、大丈夫でしたよ乗車勤務中は……一回だけ始バスの出発遅らせそうになりましたけど……」

「駄目じゃん」

「ですよね……」

「落ち込んでんじゃねー。こっちはおめーのしょっぱいつら見たいわけけじゃねーんだよ」

 うつむいた頭をはたかれる。


「あーあ。今日は六音ろくねちゃんもこねーしよ。どーなってんだよおめー」

 来なかったのは、朝だけではなかった。

 終バスや、少なくともぼくが勤務する時間のバスには乗って来なかった。

「知りませんよ、有奈華ありなかさんが何をしているかなんて。そんなの、お客さんの自由だし……」

ねー。おめーも言うようになったなー。一年前は毛も生えてなかったのによー」

「け、毛は生えてますよ! 出鱈目でたらめ言わないでくださいよ!」

「本当かおめー。なークロチン。おめーどう? 降車後の検査の時見るだろー? 毛生えてんのーこいつ?」


 向こうの卓で車掌の先輩方とテーブルワインを飲んでいた経理の黒川さんがくるりと振り返った。

 黒髪を頭の上でお団子にまとめ、ジャケットスーツをかっちり着込んだ黒川さんは、冷たい視線を寄越してくる。

「給料日前に私にその態度ですか? 有奈華ありなかに嫌疑は無いですよね? だからそこまで確認しないですよ? 貴方あなたはどうですか? 着服してそうだと私がにらんだら今すぐここで丸裸にしますよ? それとその仇名あだなで呼ぶなと言いましたよね? 埋めますよ?」

「……わりークロチ……」

「埋めますね?」

「……」

 車掌の先輩達から侮蔑ぶべつの目で見られて、ハシモさんは黙り込む。


「ちきしょー。おめーが六音ろくねちゃんとうまくいってねーからよー。こっちまで割食わりくうじゃねーか」

「ぼくも有奈華ありなかさんも関係なく今のは只々ただただハシモさんが最低だからですよね」

「関係大有りだろーが。京子ちゃーん、ビール!」

「ちょ、駄目です京子さんキャンセルです! 何やっているんですか明日朝から勤務ですよね⁉︎ 引っかかりますよ⁉︎」

「細けーんだよ小瓶なら大丈夫だろーが」

「ハシモさん絶対に一本じゃ済まないじゃないですか」

「じゃーおめー明日休みなんだからオレの代わりに飲め」

「何ですかその無茶苦茶な論理は。大体未成年ですよ、ぼく」

「くっそー理屈ばっかねやがってあー、なんか面白れーことねーかなー」


凍江こごえ君さ、有奈華ありなかちゃんと何かあったの?」

 車掌の島から矢部先輩が三つ編みを揺らしながら来て、スカさんの隣の席に座る。

 肘をついた手に顎を乗せるとぼくのことをのぞき込んで来た。

「いや、別に何か変な要求されて困っていたんですけど」

「で、おめーが断ってっから、へそ曲げたんじゃねーのか?」

「いや、それはわかんないですけど……」

「つまり、お互いに意識してしまって、何となく気まずいってこと?」

 矢部先輩が慈愛に満ちた目でぼくを見る。

「まあ、意識っていうか、何というか……」

 歌えって言われていることは、まだ言いたくないし。

「君は自分のそのもやもやが、まだ何か分からないんだね」

 矢部先輩はふっと目を閉じて、こう言った。

「それって、凍江こごえ君があの音大生に君が恋をしてしまったて、ことなんじゃないかな?」

「矢部先輩……」

 塩っ辛さを軽減しようとご飯の上に豚の生姜焼きを乗せていた手を止める。


「「それはない」」


 ハシモさんとぼくが同時に言う。

「な、何ですか二人同時に。そうかもしれないじゃないですか!」

「矢部おめー二言目にはそれじゃん。何でもかんでも恋愛に結び付けてんじゃねーよ」

「で、でもあんなに毎日迫られたら絶対好きになっちゃうじゃないですか!」

「いえ別にぼくはあの人に恋愛的なことを要求されている訳じゃないですから」

「でも凍江こごえ君は有奈華ありなかさんの家に行ったんだよね⁉︎」

「それは、そうですけど……あれは所長の命令で業務として行ったわけで……大体一人暮らしだって知らなかったですし……」

 一瞬脳裏に不可抗力ふかこうりょくで見てしまった有奈華ありなかさんの裸体がちらつく。

 やばい、集中生姜焼き、生姜焼きと米。ほかほかの米。ほかほかといえばボノボ駄目だ!


「あ、ほら凍江こごえ君急にご飯勢いよく食べたりして! 明白あからさまに怪しいですよ! 男女が同じ屋根の下二人きりだったら何が起こるかわからないじゃないですか危険じゃないですかアヴァンチュールじゃないですか!」

 どこがアーヴァンなんですかどちゃくそ山の中ですよ。

「じゃー矢部おめー聞くけどよー、おめー同じ勤務で中ちゃんと一緒だったらどーにかなんのかよー」

「あ、その可能性は一ミリも無いですね」

「「即答かよ」」

 後ろでナカちゃん先輩が血の涙を流して倒れている。

 すみません、何か話の流れで巻き込んじゃって……


「矢部先輩は盛り上がれば何でもいいんですよね? この前はぼくとスカさんで変な噂立ててましたし」

「あれはあれで一定の需要があるんです今でも熱烈に続編を要望されてますし私もこの妄想だけでご飯三杯は行けますよはい」

 何でそんなに早口なんですか、しかも創作って認めちゃっているし。

 車掌の先輩方も挙手で賛意さんいを示すのは止めて下さい。

 ってかこれ内情探るために車掌陣から派遣された口だな。

 だから期待しているような内容はないですから……


「京子ちゃんどうよー、矢部の恋愛脳はよー」

 ハシモさんがビールの代わりにウーロン茶を持って来た京子さんに話を振る。

「そうですね〜。誰かに恋するって、素敵なことだな〜って思います!」

「だよね! そうだよね京子ちゃん!」

 矢部先輩が喰いついてくる。

 京子さんが会話に合わせてくれ、ぼくと関係ないところで盛り上がり始めた。

 立ち上がるなら今だ。

 急いで夕食を書き込むと、スカさんとそっと席を後にする。

 ぺこっと京子さんにお辞儀をすると、京子さんは後ろ手に目立たないようにぱたぱたと手を振ってくれた。


                  ▶︎▶︎


 朝、食事を京子さんと一緒に寮の前に置いて小さくグーを合わせる。

 それから自分の部屋に戻って、京子スペシャルを食べる。

 手のひら大のオムレツ握りと、春菊のおひたし。

 お味噌汁を飲んでから布団へと再び戻る。


 バイクが出発する音がする。

 休みだからスカさんは一人で出かけたんだろう。

 もそもそと布団から出ると、日は高く十時を過ぎていた。

 ジャージのまま外へ出て、運動靴を履いて外へ出る。

 事務所越しに見える駐車場はバスは出払っていて、ただでさえ広いのにやたらとがらんとして見える。


 ぼくは道路へと出ずにそのまま山の中へ。

 獣道けものみちを歩いて、ハイキングコースへいたる。

 平日のこんな時間だと歩く人も少ない。

 たまにすれ違う人と挨拶あいさつするけど、こんな山の中でジャージ姿だからちょっとびっくりした顔をされる。

 そうやって三十分位歩いたところで、岩場を乗り越えるような道を登る。

 それを超えたら、また獣道けものみちへ。

 丈が自分の背ぐらいある枯れ草を折りながら進むと、急に視界が開ける。


 そこは、ちょっとした崖の上の踊り場。

 木々の葉からも解放され、日が差し込むその場所は青々とした下草が茂り、つがいの蝶がはたはたと飛んでいた。

 そして目線の先には、山の合間をう道路。

 その先には川野辺駅とそれに続く線路が見える。

 山の谷間の平地には畑が広がり、蛇行した川がその合間を流れる。

 そしてさらにその先には再び山があり、緑の中で文字通りの不自然さでたたず佐江津さえづ音大。

 さらにその向こうには、ビルやマンションが次々と建設される隣の市。

 その向こうは、排ガスや工場のもやかすんではっきりとは見えなかった。

 ぼくが見るこの視界の中で、みんなが仕事をして、みんながバスに乗り、みんなが授業を受けている。

 営業所のみんな、生徒さん達、そして有奈華ありなかさんも。


 ぼくはお腹に手を当てると、ゆっくりと腹式呼吸を繰り返す。

 そして徐々に肺の奥に息を溜めると、一気に解放した。

 のどへの負担を考えない、保留のない限界までの自分の大声を。

 もちろん現実的には肺の奥の空気を一気に吐き出したりは出来ないから、その絶叫は山に響き続ける。

 驚いた鳥が一斉に飛び立つ。

 段々喉の奥が焼けてくる。けど構わない。

 やがて肺の空気もき、喉はがらがらと無様な音を立てた。

 少しだけ目尻に浮かんだ涙を親指の腹で拭う。

 心の中のもやもやが少しは晴れたろうか。

 しばらく待ってみたけれど、よくわからなかった。


 一晩布団の中で考えたけれど、ぼくは有奈華ありなかさんに揶揄からかわれているというのが一番しっくり来た考えだった。

 春、音大に入った新入生が浮かれて、街じゃすっかり物珍しくなったバスの車掌にちょっかいを出したくなったのだろう。

 この子は何か特別なところがあるとか、そういうのを自分が見出したって言って面白がりたいんだ、と。 


 回れ右をして、元来た道に戻ろうとする。

 藪の中に足を踏み入れようとした時に、不意に昨日有奈華ありなかさんが首にぼくがあげたハンカチを巻いていたことを思い出した。


                  ▶︎▶︎

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