第6話 飼い犬の逆襲

 勝行氏に話をつけ、僕たちは例の『ブラックボックス』へと向かった。名目上「本邸」とされるこの建物は、実篤氏の死後誰ひとりとして入ることができなかった。それが今日、開くかもしれない。


 僕は先程発掘した鍵を錠前へと差しこんだ。ゆっくりと回転させると、少し錆びてしまっているため大分堅かったが、なんとか回すことができた。


「開いた……!」


 瞠目したまま、勝行氏が声をあげる。僕たちも同じ気持ちである。現に友は早く中を見てみたい、とでも言いたげな表情で僕にせっついている。

 錠前を取り去り、重い扉を押し開ける。ずしりと重たい扉は、数回に分けて力を加えることで、ようやく人が通れるくらいの隙間を作ることができた。


 その隙間をすり抜けるようにして、僕たちは中へと潜入する。案の定、窓一つない部屋は湿った空気で満たされており、全てが夜闇と紛う程に暗かった。


 友がポシェットを開け、ペンライトを灯す。白っぽいぼんやりとした明かりは、『ブラックボックス』の壁面を徐々に照らしてゆく。


「これ……が」

 勝行氏がぽつりと呟いた。「これが遺産……」


 僕も、友も、正直なところそれには驚いた。


 四枚の壁一面に、何やら絵が描かれている。ペンライトで徐々に照らしてみると、どうやら人であると理解できた。どれも素敵な笑顔に満ち溢れたそれらの肖像画の下には、一人一人の名前が記されているではないか。


「これは?」


 友が尋ねると、勝行氏はのろのろと口を開いた。


「私たち、家族の絵です……すごい、ひとりひとり、全員描いてある」


 実篤氏は確かに素晴らしきアーティストだったが、そのためにどうしても家族と過ごす時間が限られていた。もしかしたら、彼はそのことを後悔していたのかもしれない。


 そんな一族の笑顔に囲まれて、中央に一人の男性の笑顔があった。その名を、渡辺実篤。彼の笑顔は、心から幸せそうだった。


***


 依頼は完了した。後ほど謝礼の手続きを行うこととして、僕たちは渡辺邸を後にした。

 僕が運転する車の中で、助手席に座る友は神妙な面持ちでじっと真正面を見つめている。


「世界樹……ねぇ」

 そして、ぽつりと呟く。「まさか家族みんなの笑顔が財産だった、なんてね。実篤氏の生み出してきた世界の根幹には、愛する者の笑顔があったと言う訳か」

「だから、鍵をもみの木の下に隠したんですね」

「単純に、彼がシャイだったというだけの話じゃないか」


 友はふふっと声を洩らし、それから僕へと目を向ける。


「ナツさん。これで分かったろう? 君も、ああいう風にシャイの極みとなってしまったらいけない。自分の気持ちくらい、ちゃんとその唇で伝えるべきだ」


 その一言に、僕はぴくんと肩を震わせた。

 昨晩の件で、僕は僧侶の如き清廉な心をほぼ全て消費してしまっているというのに。まだ挑発する気か、この少女は。


「――なにが言いたいんです?」


 そっと問いかけると、彼女は僕の些細な表情の変化にまだ気が付いていなかった。所詮彼女にとって、僕はただの意気地なしでしかないらしい。


「私のことをどう思っている? 昨日、私はちゃんと言ったからな。君の話も聞きたい」

「うーん、そうですねぇ」


 僕はウィンカーを点灯させ、車を左折させた。そこでようやく、友は何かに気が付いたらしい。ぱっと顔をあげ、僕のことを呆れた目で見つめる。


「おい、そっちは行き止まりだぞ。道を間違えるだなんて、ナツさんもとうとうボケたか」

「ボケちゃいないですよ。『行き止まり』でいいんです」


 さりげなく駐車し、ギアをパーキングに切り替える。そして、そっとシーベルトを外した。


 呆けた表情の友が、僕を見上げる。ああ、だから大人を本気にさせてはいけないと言うのに。


 ネクタイを静かに緩めながら、僕は囁いた。


「僕もあなたのように、キスをしたら自分の気持ちが分かるのでしょうか。どうか、実験台になってください」


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