第4話 意気地のない男

 襖の向こうから聞こえてくる衣擦れの音が安らかな寝息へと変わったことを確認し、僕は自分の布団から起き上がった。そして、先程自分で書いた見取り図に目を落とす。


 友がキスをした直後に呟いた「太陽」の一言がなにか引っかかるのである。確かに、この東側に面した窓ならば朝日を拝むことはそう難しくはないだろう。しかし、問題がある。肝心の「朝日」は、そそり立つもみの木によってすっかり隠れてしまうのではなかろうか。


 僕は障子を開け、窓からそっと顔を覗かせてみた。やはり、夜闇の中にぼんやりと浮かび上がるもみの木はどう考えてもでかすぎる。このもみの木よりも高い位置に日が昇った頃には、とっくに正午を迎えていることだろう。


 それでも、友は「日が昇る前に起きろ」と言った。その意味は一体何だろう?


 その時だった。襖の向こうから、微かに声が聞こえてきたのは。


「ナツさん、起きてる?」

「起きています」


 彼女の囁くような声色に、僕もつられて声のトーンが低くなる。すると、安心したように息を吐き出す音が聞こえてきた。

 どうしました? 僕は戸惑いながら、彼女の真意を確かめるべくそっと尋ねてみた。すると、彼女の口から飛び出してきたのは思いがけない一言だった。


「そっちに行ってもいいか」

「あ、はい。……うん?」


 どういうこと?

 僕の頭がフリーズしたときには、既に襖は控えめな音を立てて開かれており、友がひょっこりと顔を覗かせていた。薄手のシャツに、ドロワーズとかいう名前のパンツ姿の友は、しきりに僕の様子を窺っていた。だが、すぐに「問題なし」とでも判断したのだろう。躊躇いなく僕の右横に滑りこんできた。


 この子、何してんの!


 慌てて僕が布団から抜け出そうとすると、友の右手がそれを静止する。動くな、とでも言いたげな鋭い瞳を僕へと向けると、無理やり僕を布団の中へと押し込む。


「あの、……僕が、警察に捕まりかねないんですが」


 僕は成人しているけれど、彼女はまだ高校生だ。それ以前に、よく考えても見ろ。僕は男だ。これではまるで僕は男として見られていないと態度で示されたも同然ではないか。相当、否かなり情けない。


「君はそんなに野蛮だったかな。それは知らなかったなぁ」

 その証拠に、友は小馬鹿にしたような表情でくすくす笑っている。「どうせ襲う度胸もないくせに」

「襲われたいんですか?」


 いや結構、という一言を期待して敢えて茶化してみると、ぴたりと友はその動き

を止めた。


「ナツさんなら、いいよ」


 この瞬間、僕は今夜だけ僧侶になることに決めた。

 苦し紛れに僕はひとつ咳払いをし、ひとつ、問いかける。


「あの……そもそも、どうして友は僕を採用しようと思ったんです?」


 この際何度も言うが、僕はただの「キス要員」だ。こんな特殊事情があるからには、僕の前任にあたる人だって彼女と何度もキスをしてきたのだと容易に想像がつく。


 少なくとも、僕は友とのキスは嫌いじゃない。だが、誰かれ構わずにそういう行為をすることには抵抗があった。こんなに偉そうな話し方をし、実際所長も務めるくらいに彼女は優秀だけれども、その内面はどこにでもいる普通の女の子なのだ。僕はロマンチストではないけれど、本当のキスくらいは彼女が最も愛する人としてほしい。


 言い方は悪いけれど、彼女とのキスは安売りに近いものがあると感じていた。

 僕の腕の中で、友はしばらく考えていた。しかし、突然もぞりとみじろぎしたかと思えば、そっと黒い瞳を僕へと向けてくる。


「初めは、実験台のつもりだった」

 第一声が実に酷い。「昔から、キスをすると頭の中が冴えるとは思っていた。でも、人間相手にやったことがなかったから」


「どういうことです? 確か、僕には前任者がいると言っていましたよね」

「いた。だが、君のように、無暗にキスをしていた訳じゃない」


 そこまで言うと、友は再び顔を伏せてしまった。


「だから、人間を相手にするとどこまで『冴える』のかが知りたくなった。だが、いざ面接にやってきた君は、……その、」


 これまた珍しくごにょごにょと歯切れの悪い反応をするものだから、僕は再び怪訝な顔をする羽目となった。


「思いの外かっこよかった……から」


 はぁ? という僕のリアクションの前に、友は自ら身体を反転させ、僕へと背を向けてしまった。


「だから一目惚れだって言っている! この鈍感男! だからいつまでたっても助手から昇格できんのだ!」


 言っていることがめちゃくちゃだが、要約すると――なにこれ、告白?

 もう僕と話す気がなくなったらしく、友はそっぽを向いたまま丸くなっている。完全に拗ねてしまったようだ。


 僕は彼女の肩に手を触れようとし、それからすぐにやめた。

 ここで肩を抱いてやるのが「女心が分かる男」なのだろうが、今の僕はそうしたくなかった。


 ああ、全くもって彼女の言う通りだ。ここで引き下がるから、いつまでたっても助手から昇格できないのだ。意気地がないことくらい自覚している。


 しかしながら、彼女の言葉に、僕は気付かされてしまった。

 僕は、この清峯友子という少女のことを、とてつもなく愛しているのだ。

 愛しているからこそ、今の彼女にビジネス以外でのキスはしてはならない。いつか衝動に駆られるまま、彼女を抱いてしまうかも分からない。否、彼女は「それでもいい」と言うかもしれないが、せめて、彼女がきちんと大人になるまでは。


 大人のふり、ではなく、きちんと大人になるまで待っていよう。そう思ったのである。

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