第3話 ユグドラシルの樹
彼女に言われるがままに、僕は黙々と邸宅内の計測を開始した。かなり急ぎ足で仕事をこなしたつもりだったが、全ての場所を計測し終えた頃には、既に西の空には一番星が燦然と輝いていた。
この日は友の希望で、実篤氏が生前使用していた離れに宿泊させてもらうこととなった。中はひろびろとした和室で、ちょうど真ん中を襖で仕切ることができるような仕組みとなっている。
僕は足の短い机の上に製図道具を広げ、手早く計測通りに図面を書きあげた。
「ナツさん、これが今私たちのいる離れ?」
それを友が覗き込み、指差す。「となると、例の『ブラックボックス』は西向きだから――この真四角の建物か」
一通り歩いてみて分かったことなのだが、この広い邸宅内は、基本的に三つのもので構成されているのである。
ひとつが、今僕たちがいる離れ。そしてもうひとつが、本邸とされる「窓が一切ない建物」だった。唯一の出入口である扉は旧式の錠前でがっちりと固定されており、押しても引いてもびくともしなかった。
それから、僕は離れの右横――方角で言うところの東側――にひとつ円を描いた。
「これは?」
「ああ、もみの木です。ほら、ここからでも見えるでしょう?」
そう言って、僕は障子の向こうを指差した。
ちょうどこの部屋の窓から見える位置に、随分立派なもみの木が植えられている。平屋である離れの高さから見て、その長さは約二倍。数時間前、計測中の僕はその破格の規模に、あんぐりと口を開けてしまっていた。
友は窓を開け、自らの目でそのもみの木の存在を確認する。
「……東向き、か」
そして、ぽつりと呟いた。「なんか引っかかるな。よしナツさん、キスしよう」
「え、またですか」
「嫌か」
そうではない。しかし、黙っていれば人形のように可愛らしい彼女と毎度の如くキスしなければならない現状というものはなかなか心臓に悪いのだ。しかし、彼女の言うことは絶対だ。逆らいようがない。
僕はしぶしぶ首を縦に振ると、彼女の身体をそっと引き寄せた。彼女が目を閉じると、長い睫毛に影が落ちる。一度その精巧な瞼にキスを落とし、続いてゆるゆると互いの口唇を重ね合わせた。
「――東の空」
それが離れると、彼女はぽつりと呟いた。「太陽か」
その言葉に、僕はきょとんとして首を傾げる。
「ナツさん、例の遺言を見せてくれ」
言われるがままに鞄から例の紙を取り出すと、すぐさま友は僕の手からひったくるようにしてそれを奪い取った。
友はポシェットからピンク色カバーがかかったスマートフォンを取り出し、なにやらぽちぽちと文字を打ち込み始めた。
「ユグドラシル……というと、北欧神話の?」
尋ねられたので、僕は曖昧に頷く。ええと、確か……、
「俗に言う世界樹ってやつでしょう。よくゲームなんかで題材になっていますよね」
「そう、それだ……あ、出た出た」
どうやらインターネットで検索していたらしい。「北欧神話に登場する架空の樹。九つの世界を内包する存在となっている、と。そんなところか」
「それって光るんですか?」
我ながら阿呆な質問だと思ったが、一応確認しておいた。友は首を横に振り、
「そんな訳あるか」
分かり切っていたことだが、スパッと一蹴する。それはもう、清々しいほどに。
「――ナツさん、明日は日の出前に起きよう」
だからもう寝る、と彼女は突然押し入れの戸を開け、ごそごそと布団を引きはじめた。
さすがの僕もこれには驚いた。友は時々、こう言った風に唐突に行動し始めるところがあるが、今回はいくらなんでも気が早すぎである。
「友、せめて夕食を食べてからのほうが」
「寝ると言ったら寝る!」
ぼすっと、友が投げた枕が僕の顔に命中する。地味に痛かった。
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