『下』 あいつの瞳は宇宙みたいだったんだ。

 学校に行ったらみんな人気アーティストの新曲の話ばかりをしていた。


 やっぱり凍えそうなくらいに寒いわ。教室に入る前にせめてダウンロードだけでもしておけば良かった。そうすりゃ小さいホッカイロくらいにはなったかもしれない。「薄着だけど大丈夫?」「平気これ持ってるから」みたいにさ。


 SHRショートホームルーム前、私はため息を吐いて、席について本を置いた。


「あ」


 声のした方に目をやると、いつも半分しか開かれていない瞳が、いつもよりは大きく開かれていた。


「本読むんだね。それ、僕も最近まで読んでいたんだ。今はちょうどその本の下巻を読んでいるんだ」


 チラッと手元を見ると、昨日までとは違う本が置かれていた。

 ……え、ちょっと待って、下巻? 下巻って言ったな今。

 自分の手元の本を見ると確かに『上』と書いてある。いつの間に付け足したんだ。昨日買ったときには書いてなかったぞ。まあ、そんなはずはないから私の見落としなんだろうけどさ。


「あ、ああうん。昨日読み始めたばっかりだけど」

「そっか」


 ちょっと残念そうに視線を逸らした。感想とか、言い合いたかったんだろうか。


「あのさ」

「なに?」

「私、読み方わかんないんだよね」

「読み方?」


 首をかしげた。読めるやつにはわかんねえだろうな、この気持ちは。


「そう。なんてーのか……、こう、開いた瞬間に黒いじゃん? そしたらなんか溺れそうになるっていうか。息が苦しくなるんだよね」

「文字に溺れるってこと? 表現の仕方が小説家みたい。小説好きなの?」

「いやだから読めないって言ってんじゃん」

「そっか」


 ははっ、と笑ったのを見て、なんだ笑えるんじゃんと思うのと同時に、このクラスでこいつの笑顔を見たのは私だけなんじゃあねえかという、しはいよく支配欲ってーの? そういうのが満たされた気がした。


 ページを開いて見せる。


「で、どうやって読んでんの?」


 彼は天井に視線をさまよわせ、アゴの下に指を置いた。

 おもむろに机の引き出しから下敷きを取り出すと、本の上にピタリと置いた。一行だけが剥き出しになっている。


「これなら読めない?」


 言われるままに一行読み切る。


「おお! 本当だ。すげー、天才かよ」

「大袈裟な」

「じゃあ次の行読むからずらして」

「下敷き貸すから自分でやりなよ」

「えー、いーじゃんやってくれたって。お前がやりだしたんだから責任取れよなー」

「世話が焼けるなあ」


 椅子をずらしてこっちに来てくれる。


 いつもは、あと体一つ分遠くに見ていた彼の耳が、手を伸ばせば届く距離にあった。産毛が、朝の光を反射して、そこにだけ霜が降りたように白い。冷たいのかな。それとも、温かいのかな。触れたら解るかな。でもそしたら怒るかな。それとも笑うかな。くすぐったいよって。


「ねえ、もう一行読んだ?」


 私の方を仰ぎ見ながら放たれた声に驚き、ビクッと体が震えた。同時にってしまい、椅子がアンバランスに傾いた。やばい、倒れるこれ——。


 ——ガタンッ!


 と椅子が倒れる音がした。でも私の体に痛みが走ることはなかった。


「大丈夫?」


 瞬間的に閉じてしまっていた瞼を開けると、目の前に宇宙が広がっていた。

 その正体は、彼の見開かれた大きな瞳だった。だけど間違いなくそれは、幼き日に、街の明かりの届かない丘で見上げた星空そのものだった。太陽を拒んだ孤独な漆黒と、その優しい黒に寝そべる星々。父さんは母さんと喧嘩して気まずくなったもんだから、私を連れてそこに来ていた。父さんは星空を数分見た後に「やっぱり父さんが悪かったな。母さんに謝るよ」と言って私に仲裁役をお願いしてきた。私は適当に言葉だけで返事をして、ただずっと空を見上げていた。そして今、宇宙の奥では私が驚いた顔で私を見ていた。幼き日の私の目と今の私の目が合い、停止していた思考が秒針と一緒にカチリと動き始める。そうしてゆっくりと、ようやく自分が抱きかかえられていることに気付いた。


 想像通りの骨ばった指と腕が、私の背中にへこみを作っている。

 想像外の二の腕の力こぶが、私のアバラを優しく包んでいる。


「あ、ありがとう」


 私の声を聞いて、安堵のため息を漏らし、ハルジオンみたいに控えめに笑った。

 そっと足から床に降ろされる。


 椅子を立て直し、座り直そうかというところで、周りの連中が集まって来た。掛けてくれる声の色は心配しているようだったけど、本質は多分野次馬的なものだろうと思った。身動きが取れなくなった私を置いて、彼は自分の席に戻って行ってしまった。集まって来たみんなに対して「大丈夫、大丈夫」と私は適当に言葉だけで返事をして、ただずっと彼を見ていた。


 注目を浴びている私から目を背けるようにして、窓の方を向いている。


 やがて教師が入ってきて、みんなが元の席に戻っても、彼はこちらを向いてくれなかった。霜が溶けるほど真っ赤に染まった耳を見て、彼の心の内に思いをせる。


「なあ」


 小声で話しかける。


「またあとでな」


 振り向く代わりに、彼の真っ赤な耳がぴくっと揺れた。



 何千種類のうちの、何百回のうちの、何十人のうちの、何度のうちの、ただ一つ。

 たった一度の流行遅れと1500円の犠牲で手に入れたを、大事に大事にカバンにしまった。

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本とみみたぶ、あとラブソング 詩一 @serch

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