本とみみたぶ、あとラブソング

詩一

『上』 あいつが読んでいた本があったんだ。

 あいつが教室で読んでいた本だ。


 駅の本屋の棚の中にあった、分厚い本を手に取ってページを捲った。自身の背丈を超える水位の活字の海に溺れそうになった私は、ページを閉じた。


 棚に戻す。


 でも、もう一度手に取って、考える。

 いつも無口で、なにを考えているか分からないあいつ。

 私の隣に座るなら、明るくしていてほしいし、なにもかも全部さらけ出してほしいと思うのは、多分私のごーまん傲慢だ。別に、仲が良いわけじゃあないし。

 ただ、仲良くしたいとは、思っているわけで。


 きっと大きいはずの瞳はいつも半分閉じられていて、ワイングラスの持ち手のように薄い唇は、きっと言葉を紡ぐためには作られていない。あまりに白く無気力な顔から、無機物だと感じるほど人間味のないやつだった。けれど、くしゅくしゅの黒い髪の間からたまたま覗いた耳たぶに産毛を認めたとき、どういうわけかひごよく庇護欲が掻き立てられた。子猫に感じるそれと同じような感情だったように思う。


 あの耳でなにを聞いているのだろう。

 その付け根にある頭では、なに考えているんだろう。

 あいつはいつもなにを見て聞いて考えているんだろう。


 私のひごよく庇護欲を掻き立てたあいつはきっと無機物じゃあないし、意思疎通のできる人間のはずだ。なら、意思疎通をしてみたいと思うのがサガというものだと思う。そう思ったら、やたらとあいつを取り巻く環境が気になり始めた。そこで一番の目印になったのが、本だった。タイトルを覚えてしまうほどに、あいつの机に目を落とす機会が増えていた。


 ——ピッ。


「1500円です」


 ああ……、ああ!? なに買ってるんだ私は!


 内心で頭を抱えて手足をバタつかせて暴れまわったけど、それとは真逆に冷静な指先は財布の中からお金を手繰り寄せていた。




 家に帰って、ご飯を食べて、シャワーを浴びて、机の上にどかりと置いた本を睨む。


 重く固い表紙をべりべりと引き剥がすように開き、ページを捲る。

 一分と持たなかった。

 ダメだ。溺れる。

 ぱたりと閉じる。

 スマフォを手に取る。

 電子音楽のストアを見る。学生に大人気のアーティストの曲が売りに出されている。


 250円前後で切り売りされる非現実的な愛の歌。もう百回以上は聴いたであろう愛している。彼らはいったい何十人の人を愛して、何十人の人を憎むのだろう。世界でただ一人の運命の人に出会ったから、こんなにも素晴らしい愛を叫べるのではないのか。宇宙一の最愛の人がこの世界に何十人も居る。一生に一度きりの恋を、一回の人生で何度も繰り返す。愛がなんなのか分からない私たちに、これが愛だよと何千種類の愛を見せる。見せられた愛を手に取って、これが私の愛なのかなって首を捻って、聴く度に試着してみて、次の新譜が出るまでそれを着て街を歩く。バカみたいだと思うけれど、これが無いと歩けないほど、駅前と学校の中は寒いんだ。


 でも、新譜のダウンロード、できないなあ。たかだか250円だけど、アルバイトもしてない私には、本を買ったら愛を買う金は無いのだ。カムバック1500円。

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