アーディン・メラス検事長

 アーディン・メラス検事長はローゼンヘン館の人々ならだいたい誰もが知っているデカート司法局の高級官僚だ。

 メラス検事長はデカート州司法の実働部門の責任者であって、デカート州全域で数千の司法検事を取りまとめる人物である。

 ローゼンヘン館の住人全員にとって悪い意味でかつて世話になったことのある人物、と言ってもいい。

 もちろん、ロゼッタも彼の顔を知っている。

 ローゼンヘン館の家政を仕切っているセントーラは時候の挨拶と皆様のお慶びとご不幸にお手紙を添えるくらいの付き合いがあるようだが、ロゼッタはそこまでの付き合いはない。

 この六年ほど会ってないと思うし、書簡を届けるような用事もなかった。


 当たり前である。

 よく言って浮浪児、実際には盗賊というべき流民、脱走兵と野盗の渾然となった悪党の群れ、ローゼンヘン館を占拠した犯罪者の一団にロゼッタはいた。

 もちろん、成行きであったから彼女に選択肢は殆どなかったわけだけれど、ともかく身元不明の犯罪組織にいた少女を司法がどう扱うかといえば、更正施設への収監となるわけだ。

 その後にロゼッタは期間満了の前にセントーラとともに脱走してローゼンヘン館に再び転がり込んだ。


 その不行状をメラス検事長がどういう風に判断するか。

 その一点がロゼッタには気がかりだった。

 もちろんほかにも気になるところがある。

 つまり、自分の話を検事長が聞いてくれるとして、味方になってくれるだろうか。

 という点である。

 だが、しかしともかくも専門家に尋ねる必要を感じていたし、彼女が唯一顔見知りの専門家というとメラス検事長くらいしかいないのも事実だった。


 昼休みにボーリトンと合流したロゼッタは司法庁に向かった。

 郵便室の受付で執務室の場所を尋ねると、あまり身なりの整っていない子供二人組に不思議な顔をされたが、執務室はあっさりと教えてもらえた。

 ボーリトンも検事長の執務室にまで上がったことはなかった。

 熱くなり始めた初夏の日差しを建物の石組みは受け付けず、やや冷たい空気さえここにはあった。


 教えられた部屋をノックするが、反応がない。

 もう一度ノックしてみるが、やはり反応がない。

 鍵穴があることを確かめて、ノブに手をかけるか悩んだところで、廊下に足音が響いた。

「なんの用かね。午後の来客は予定がなかったはずだが」

 ロゼッタの記憶とは幾分違ったがアーディンメラス検事長がそこにいた。

 彼は街の外にいたらしく大きなつばの帽子を小脇に抱え幾分汚れた外套を着ていた。

「実はご相談いたしたいことがありまして参りました」

「ちょっと待ちたまえ」

 メラス検事長はロゼッタの言葉を手で止めると隣の部屋の扉を開けて入ってしまう。

 二人が少し焦れた頃、メラス検事長の執務室は内側から開いた。

「おまたせした。入りたまえ」

 メラス検事長はすっかり服装を整え、二人を迎え入れる。

「失礼いたします」

「しつれいします」

 ロゼッタはボーリトンが幾分緊張しているのに気がついた。


 ロゼッタが軽くため息を付くと、茶の香りにロゼッタの鼻が気がついた。

 ロゼッタの表情の変化にメラス検事長が和らぐ。

 それを見てボーリトンは驚く。

「懐かしいお客様だ。話を聞こう」

 メラス検事長の言葉にロゼッタは驚いた。

「ア、私を覚えておいでなのですか」

「うん。あれはまぁ久方ぶりに大きな事件だったからね。そのへんも合わせて聞かせてもらおうじゃないか。かけたまえ」

 大きめのポットが置かれたテーブルに二人は案内された。

 席の脇に控えていた秘書官に席を引かれ、ボーリトンはまさか自分が椅子に座ることを他人に手伝ってもらうなどということに戸惑う。


「本当に久しぶりだ。最後に見たときは肌も血色も不安を感じさせるものだったからね。元気そうに訪ねてくれて嬉しいよ。あれは夏の終わり秋口の事件だったからおよそ六年ぶりかな」

 メラス検事長はローゼンヘン館での捕物の顛末をロゼッタ本人とを結びつけていた。

「お久しぶりです。その節はお世話をおかけいたしました。恥ずかしながらまたデカートに戻ってまいりました」

 ロゼッタが目礼をするのに合わせてなんとなくボーリトンも目を伏せる。


「ふむ。見たところ、悪くない生活をしているようだが、どこかで住込みでもしているのかね」

 メラス検事長の意外と鷹揚な反応にロゼッタは少しホッとする。

「ブリダニー区の春風荘。ご存知ですか」

 最低限の興味を持ってくれたことを彼女は確信した。

「ああ。明かりがいつでもついている、あれか。ん。なるほど。マジンくんか。納得いった。彼らしい。お茶をどうぞ。お菓子も召し上がれ」

 秘書がお茶をカップに注ぎ、砂糖菓子と並べて二人の前に膳えると、秘書は部屋を出ていった。


「今日はご相談があってまいりました。お力添えをいただければと思います」

 カップを鼻に寄せお茶の香りを楽しむメラス検事長に向かって、ロゼッタは切り出した。お菓子とお茶に目を奪われかけたボーリトンも引き戻される。

「それで今日の要件はマジンくんの仕事絡みの話かね」

 一瞬、口元だけ笑いに歪めてメラス検事長はカップを机に戻す。

「いえ、今日はこちらの。私の学友なのですが。彼に仕事を頼んだところ、騎馬巡察の方々に誤解を招いたようでして、そのお願いしていたお仲間と捜し物を一緒に逮捕押収されました」

「どういった内容の仕事を彼とその仲間に依頼していたのかね」

 メラス検事長はボーリトンに目を向けて素性を探るようにする。

「私が学友に貸した安全自転車を彼女が見失ったというので、彼の手を借りて見つけたところでなにか誤解があったようです」


「安全自転車というとまちなかを走り回っている軽そうな金物の乗り物かね。キミが探しているということは、マジンくんのお手製か」

 探るというよりは確認するようにメラス検事長は訊ねた。

「そうです。その我が家では自前で作っているので、ウチでは旦那さまの手間と気分という品物なんですが、街場では大変評判よろしいみたいで驚くような値がついているとか」


「三千タレルくらいだったかな。安くはないが、馬を街場で乗り回すよりは面倒が少ないから、まだまだ流行るかもしれない。私も興味がないわけでもない。キミの家では普段遣いしているのだろう。どういった感じだね。例えばヴィンゼまで自転車でゆくとして、どんなものだね」

「いけるとは思います。道中いくつか井戸のあるところをきちんと抑えて、野営と水筒の準備をしておけば、ヴィンゼまでの道は比較的固くて茂みが浅い下草の少ない道のりですから、自転車向きだと思います。ただ、かなり鍛えている人じゃないと、そもそも百リーグを歩き抜くのが辛いとは思います。ああ、でも旦那さまは試作品を試すために何度か自転車でいらしたこともあるはずです」

 メラス検事長は驚いたような表情を作ってみせたが、それが一種の儀礼であることはマジンを知る二人にはわかっていた。


「なるほど。街場で『ホンモノの』とわざわざつくだけある品物ということか」

「その辺は良く存じ上げないのですが、偽物が多く出回っているということなんでしょうか」

「偽物というよりは、代用品とか模造品というべき安全自転車が普及しはじめている。ストーン商会とセレール商会が色々とあちこちの工房に出資しているのは知っているが、今のところ、出来の良し悪しがだいぶ違うというところだろう」

「私もまちなかでウチの自転車を乗っていますが、旦那さまの感性とはだいぶ異なる造りの自転車が多いとは思っていました。それで、その探しものですが、見分けはつくと思いますし、刻印もあるのでウチの自転車であることは間違いありません。そこまでは彼が確認してくれました」


「彼はそうすると地見屋というやつか。キミは確かボーリトンとかいったな。幾度か政庁内で見かけたことがある。ドクは元気にしているかね」

「え、あ?はい。元気にしています。あの、お力を貸してください」

 ボーリトンは名前を知られていたことに驚いてしどろもどろになりながら、顔を赤らめて頭を下げた。


 メラス検事長はちょっとしたいたずらが上手く嵌ったことに満足したように表情を緩め少し考えるような素振りを見せた。

「せっかく来てくれて楽しい話をしてくれた懐かしいお客様には申し訳ないのだが、この件で私ができることはほとんどない。理由はいくつかあるが、わかるかね」


「公務を私することは出来ない。ということですね」

 ロゼッタが少し困ったように口にした言葉にメラス検事長は頷く。

「色々言いようはあるが、だいたいのところそういうことだ」


「じゃぁどうすればいいんですか」

 ボーリトンが我慢しきれず上ずった声で叫んだ。

「こういう場合、規則に従って順番に誤解を解いてゆく必要がある。もちろん逮捕が誤解だとしてだがね。ところで、キミたちの雇用契約使用契約はなにかあるのかね。あと自転車についても」


 ロゼッタは少し探って雇用契約の書付に割いたハンカチとユーリに書かせた自転車の借用書をを机に出す。ユーリは自転車の刻印記号も書いてくれていた。

「これで足りますか」

 慌ててボーリトンも半金貨と公証の捺された雇用契約の書付を取り出す。


「ふむ。最低限形にはなっているな。契約内容もまぁまぁ抜けはない。自転車の借用書の内容がふざけてはいるが、ユーリセレール嬢の人となりがわかるのも生きた証拠にはなる。事態が裁判にまで進んだとしてセレール嬢の協力は仰げるのかね」

 自転車借用の代価として、ロゼッタに一生の友情を誓う。となっている。

「約束はしていませんが、一生の友情を誓うと書面にしてくれているので大丈夫だと思います」

 ロゼッタは確信を込めて言った。


「よろしい。私はキミたちが自転車窃盗犯の一味でないことを認めよう。ひとまず囚人との面会の許可を出すことはできる。それでいいかね」

 メラスは秘書官をベルで呼び出すと書付を渡し、監房への立ち入り許可を二人に手配した。

「その後はどうすればよろしいでしょうか」

 ロゼッタの真剣な表情にメラス検事長は頷く。


「ポラートバライノール。名前を聞いたことは?」

「お屋敷の御用で幾度か。直接お目にかかったことはありません。検事長閣下にお目にかかれなければ、ご相談に伺おうと思っていました」

 メラスは手元の書付に走り書きをするとロゼッタに押し出す。

「そこが彼の事務所だ。それを持ってゆけばヤツならだいたいの事態を察してくれるだろう。まあ私ができることはこの辺でおしまいかな。冷えてしまったが、お茶を飲んでゆきなさい。監房への立ち入り許可はいくらか時間がかかる」




 司法庁の監房は罪状が深ければ深いほど重罪となる。

 一番浅いところではなく二層目に留め置かれていることに二人は動揺する。

 このあたりはもう壁のランプの灯が消えるとなにも見えない。

 階段室に入る前の準備室で二人は持ち物を改められ武器や刃物を取られている。


「ホンモノの犯罪者扱いかよ」

 ロゼッタはあえてなにも言わなかったが、ボーリトンの憤りに内心同意した。

「騒ぐな。このまま引き返すことになるぞ」

「すみません。案内をお願いします」

 看守の言葉にボーリトンが唸り声で反応する間にロゼッタがはっきりした言葉で割り込んだ。


 監獄は檻で個別に区切られていて糞尿の匂いに満ちている。

 檻には樋のようなものが掛かっていて、常時水が流れているようだが、どれだけ新鮮なのかは薄暗すぎてわからないし、衛生的とも思えない。


 ボーリトンは半地下の一階層が浮浪者の木賃宿代わりになっているのは知っていたから、その差に大きく動揺していた。

「二一四号房。起きろ。客だ」

 居眠りをしていたような寝ぼけた反応があって、監房の中で影が動いた。


「ボーリトン!助けに来てくれたのか」

 ムーチョがランプの光を受けるや飛び起きて来た。

「檻に触るな。面会を中断にするぞ」

 看守がムチを二人の間に割り込ませる。


「すまん。まだ出してやることは出来ない。でも絶対出してやる」

「たのむよ。ボーリトン」

 二人は檻に触れることができないまま、お互いの顔を見つめる。


「ムーチョさん。聞きたいことがあります」

 二人の再会に割り込むのはどうかとロゼッタも少し思ったが、時間のほうが大事だった。

「なんだよ。この女」

「バカ、これが依頼主だ。オマエを助けてくれるとしてこの人しかいないんだよ」

 ロゼッタに突っかかるムーチョをボーリトンが嗜める。

「え?あ?そうなの?え?」


「まず、ヘーチョさんはどうされましたか。先程アナタと面会する手続きをしているときに一緒にヘーチョさんの手続きをしたのですが、こちらにはいないようでした」

「昨日は帰ってないようだったし、知り合いにも声をかけたが誰も知らなかった」

 ロゼッタの言葉をボーリトンが補足すると、ムーチョは不安そうになった。

「え?や。そう言われても」


「そうしたら、お二人がはぐれた理由はなんだったのですか」

「ああ、それは分水橋を渡ったところで大鼠狩りをしている警邏の隊列に突っ込んじゃったんだ」

 ロゼッタの質問にムーチョが言葉足らずなほど簡潔に答えた。


 ボーリトンが天を仰ぐ。

 彼にはその言葉で十分察しが付いた。

 分水橋は少し上流からザブバル川の水を脛ほどの深さに引き込んでいるため本来ヒトが歩くような橋ではないが、マゼナグ商会の本館と学志館の最短経路にあたる道ではある。

 ヘーチョとムーチョはマゼナグ本館に配達をしたあと、学志館の登校を急ぐために最短距離を選んだのだ。


 だが、時期が悪かった。

 分水橋のたもとは隊列の組みやすい比較的広く明るく道筋のしっかりした地下水道への入口だ。

 大鼠はヒトの子供を襲うこともあるイエネコほどのネズミで地下水道に広く巣を構えている雑食性の害獣である。

 夜行性だが朝方に巣に戻る性質もある。

 夏場、農作業の繁忙期に群れで動き始めるので行政が警邏と水利とを協働させて大規模に駆除に当たる。もちろんデカート市の官吏だけでは手が足りないので周辺の狩人や流民の類も参加する。

 つまり、今年の作物の出来柄と生活をかけた行政主導の荒くれ者を集めた狩りをおこなっている最中のところに二人の悪ガキが突っ込んでいったというわけだ。


「で、おまえは自転車から落ちたヘーチョを見捨てたんだな」

「そんな言い方ってないだろ。オレだって必死だったんだ」

 ボーリトンの決めつけにムーチョは反論したがロゼッタにはどうでもいいことだった。


「それで自転車を失ったのはどうしてですか」

「それは巡察の騎馬警官が道を塞いでたから、どいてくれって言ったら、自転車の出どころについてネチネチ言い出したから、逃げ出したんだけど、ブリダニー川の橋のあたりで馬と絡んで転んだ。しょうがないから、そのまま学志館に走ったんだ。なんかどんどんひどいことになっていくから、助けてほしくて」


「最後に。ここに来て、どんなことを話しましたか」

「どんなことって、今言ったことくらいかな。あとは地見屋の仕事で見つけたものを届けるつもりだった。って」

「どこでいつ見つけたと」

「一昨日夕方。ベラー区のモーディンじいさんの小屋のあたり。あんま大きくない建物のくせに煙突がいっぱい立ってる辺りだよ」

 ベラー区は農具の直しをやっている鍛冶屋が集まっている辺りだ。


「ほかにどんなことを言われましたか」

「正直に話さないと十年は兵役だとか。オマエみたいなグズのドグサレは最初の一年で死ぬとか」

 ムーチョは涙をこぼしはじめ、やがて声を上げて泣いた。


「すみません。私」

「いや、アンタが謝ることじゃない。おれたちがいつも言われ慣れていることで、本当は今更泣くようなことじゃないんだ。ただ自分の口から言葉にして説明すると、つっかえてた涙が出る。それだけのことなんだ」

 ボーリトンが鼻声になったことで彼もまた薄暗がりの中で涙をこぼしているのにロゼッタは気がついた。


「ですが、大事なことのいくつかはわかりました。多分きっと大丈夫です」

 ロゼッタの中でも完全な筋道は見えていないが、遠くに見えるぼんやりとした明かりのような希望がある。

 彼女はそういう態度をとることにした。


 少なくともデカート州市の政庁で出会った人たちは、面倒くさがることはあっても、悪意で捻じ曲げるヒトはごく少数派だったし、そういうわかりやすい小悪党を摘み取るのを趣味にしている人たちが、ロゼッタの身内には二人もいたからだ。

 手に負えなくなったらローゼンヘン館の家宰と主人に連絡することにしよう。

 なんだったら、お嬢様に御注進申し上げれば、一気に大事に加速する。

 いやそれは危ない。


 そう思えば、自分は物事の筋道の整理をつければいいだけだとロゼッタは気楽になった。

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