ゲリエ家地所内 山之オ花畑 共和国協定千四百三十五年夏至
ユーリが馬に馴れるために騎乗して朝から一番近い山の小鑓を目指して馬で散策に出かけることにした。
ソラとユエはひとりで乗るには充分な技量があったけれど、誰かを一緒にのせるほどには安定していなくて流石のメイヤとエンヤでもどう歩いたものか困り気味だったので、ユーリはマジンが一緒に乗せることにした。
クラウンは魔法使いのおいていった一頭で軍馬上がりだと思える一頭だった。泡を吹くほど走らせても翌日にはケロリとしている体力があり、子供を舐める狡いところもあるが、馬車につけたり鞍を乗せるとピリッとするタイプの牡馬だった。少なくともメイヤとエンヤは子供を産んでやるくらいには気に入っているらしい。
ロメロは癖のない山歩きの得意な馬で、細い道を嫌がらないので狩りに行く時によく使う牡馬だった。グレンに乗ってもらうことにした。
ノアルとノエルはメイヤとエンヤが産んだそれぞれ最初の馬でたぶんクラウンのタネだろうと思うのだが、そろそろ四歳だというのによく似ている艶のある黒い馬だった。ノアルが牡でノエルが牝なのでそろそろ違いがはっきりしてくるはずではあった。
ここしばらくアルジェンとアウルムはノアルとノエルとを重点的に使っていた。
山の中腹を過ぎるとそれほどの高さでないはずなのだが、急速に植生が衰え山肌の木々がまばらになってゆくのが、ヴィンゼの土地の弱さを感じさせた。
だがその分見晴らしはよく、南側にまばらに広がるヴィンゼの麦畑の様子がよく見えた。
森の更に南側にある川のながれの北側は全てゲリエ家の土地だった。
更にその南側には別の支流が流れていて、そこに沿うように緑色の麦畑がマス目を塗るように貼り付けられていた。
山の西と北はこの位置からではあまり見渡せないほどに山が入り組んでいるが森や林はあまり高いところにはない。山間にはいくつか小さな湖沼も見えたが、実はまだそこまで足を伸ばしたことはなかった。
馬を休ませられるようなちょっとした広場は色とりどりの花が咲いていた。
山の風は麓より幾分強く涼しく乾いていた。
上等な化粧品のような山の風の香りは野生の香草の存在を知らせていた。
アルジェンとアウルムはお茶に足す香草をいくらか摘んで昼食の準備を始めた。
香草の残りを受け取ったソラとユエはユーリに花かんむりを作る。
大した道でもないのだが、休憩の合図としてマジンは馬にも軽い昼食を取らせることにした。
「なかなかよい見晴らしですな。しかし地図がほとんど間に合っていないようだ」
ヴィンゼの町の地図と眺めを見比べながらグレンが言った。
恐らく五年くらい前の現行最新の地図であるのだろうが、一番町が萎れていた時期のものでは流石に違うだろう。
いまも幾つかの農地は主を失ったまま穴をあけている。それでもようやく住民の人口は数百と言うよりは千足らずというところまで増えてきた。
「まだ物足りないですが、だいぶ栄えてきたというところなのでしょう」
住民であるマジンとしては一応地元のことを弁護しておく。
「――なにやら、軍の部隊に駐留してもらうというような話もあったようですが、立ち消えになったようですね。三百だか三千だか、数字もフラフラして定まらないような有様だったので、ダメだろうとは思っていましたが」
町としては騎兵中隊に近隣への駐留を求めたが、軍としては人員や物資の管理上聯隊規模で駐屯したいという回答で、デカート州としては町の人口規模を上回る軍隊の駐留は承諾しかねるということで立ち消えになった。
町としては、ならばデカート市北部に聯隊の駐留を希望する、という改めての州市への要求に、州行政は適当な用地が確保できないとして回答した。
デカートからヴィンゼまでの街道沿いは荒野続きではあるが、四半リーグ足らずの土地が用意できないわけもなく、水源は多いわけではないが、井戸を掘って出ないとも思えず、デカートの軍への怨讐とさえいえる不信感を感じさせた。
「共和国軍の聯隊となれば自前で新兵の訓練も始められる組織になりますから、仮にヴィンゼに駐留することになれば、町の経済は軍を中心に回り発展することでしょう。商いの面から見ればそれが悪いことばかりとは私には思えないのですが、市民の自律を求める地方の自治を目指した国土の開発という意味ではかなり歪んだものになるかもしれません。とは言えソイルあたりに駐留されるよりはずっといいわけで、やはり一考の価値はあると思います」
グレンの意見はひどく真っ当であるようも思うが、共和国軍というものを警戒し過ぎのような気もする。
マジン自身が共和国軍とデカート州の関係を理解できていないのだと思い直した。
「軍とデカートの間で過去に何かあったのですか。ボクが云うのも何ですが、ああいう事件があった以上、軍の駐留を求めるほうが自然ではないかと思うのですが」
「四百年ほど前はデカートが共和国軍の中心だった時代もあるのですが、その後、軍都が整備されたことで、銃砲製造業の工房や当時のデカートの練兵館や修学館といったデカートの国力と権威を支えていた産業がまるまる引き抜かれるように移転しました。人や物が失われてもほんとうに必要なら再び築けば良いだけの事なのですが、実のところ共和国協定の実効的な成立によってデカート周辺は大きな揉め事もなく全く平和なものでしたから、軍事的な施設は司法行政のそれぞれに必要な規模以上には求められませんでした。司法は流れの無法者も多いわけですが、行政は基本市井での揉め事を大きく怪我なく治めることを求められますから、刺又と投げ縄でケリを付けていますね。
他所の土地であれば渡りの亜人の群れを警戒するところでしょうが、そういう害のないままに歳を重ねました。武装検事団の装備や練度は噂に聞く共和国軍軍団猟兵にも劣らないもののはずですが、よりすぐった人員と装備が運用の金額を大きくしてしまい、検事局の予算では扱いにくくなっています」
グレンの言葉は直接的ではないが、やんわりとデカートの体制について批判をしているようにマジンには感じられた。
公称十万人の都市人口に千人の常備兵力というのは、恐らく故意に少なめでもあるのだろうが、他に兼業の民兵組織や有事には徴募もおこなわれるのであろうし、そういった数万に膨れ上がるだろう軍事組織が市の一部局の更に下、という体制が問題なのであろう。
「そうであれば、却ってローゼンヘン館での事件は武装検事団の実績を示す格好の機会であったでしょうに」
多少の呆れとともにマジンは言葉を口にした。
「メラス検事長はローゼンヘン卿の業績に関心のあった方ですから遺品が失われることを危惧したのかもしれません。武装検事団は野砲を数千常備しているようなので、全力で事に当たれば石造りのあの館も相当なことになっていたでしょうな」
グレンの言葉にマジンは首を傾げた。
「たかだか千の検事が数千の野砲、ですか。軍隊の砲兵でもそんなには扱えないでしょうに」
「私も演習を見たことがあるだけで詳しいことは知りませんが、使い捨ての大砲のようです。金属管に火薬を詰めたものを弾丸で蓋をしたもので湿気に強く、八年ほどは蓄えられるとかそういう話でした。四人で四本持ってきてそれぞれ四人一組で四回調整して大きな金槌のようなもので叩いて四発一緒に撃って見せていました。一リーグは無理のようですが、半リーグほどは射程があるようでした」
理屈は容易に想像できるが、そんな大きな薬莢を手作業で作っているのでは、当然に高いものにつくであろう。瞬発火力という意味ではマトモな砲兵を上回るだろうが、調整は一発ごとにおこなわなくてはならず、命中率という言葉は文字通りの運賦天賦になる。半リーグも先になれば屋敷に当たるかどうかも怪しいのではないだろうか。
「メラス検事長も武装検事団の検挙計画と予算をみて計画を差し留めていたのかもしれませんね。軍事組織はやるとなれば徹底するでしょうから。しかし様子見の拙攻で町に被害が出たのでは本末転倒も甚だしい。デカートには軍部隊の受け入れをお願いしたいところですが、それができないのは過去の経緯からなのですか」
少し考えを巡らせるようなマジンにグレンは軽く肩をすくめてみせた。
「それが最初期の理由であったのは事実ですが、いまは単に、これまでまともに考える必要がなかった、というのが大きいですね。全く単純に百年以上組織だった戦闘行為がおこなわれていないというのが理由です。それでも武装検事団の実力を誇れるのは、共和国軍と年数回の演習をこなしているところからです。ですが、徐々にデカート近郊に軍部隊の駐留を受け入れても良いという空気は満ちています。デカート全体が多少雰囲気の変化を感じているという風でもあって、聯隊駐屯地の選定が水面下ではかなりのところまで進んでいます。デカート北方外縁の丘陵地帯ということになるんだろうという話でした」
マジンがローゼンヘン館を制圧してからすでに足掛け五年を経たというのに全く悠長なことだと思ったが、一言で言えばそこは感覚の違いということなのだろうと思い直した。
悠長といえば斥候というか少数による制圧部隊を送ってから半年の間動きがなかったこともそこは誤解であったようだ。とはいえそれがどれだけ実効性に富んだものだったかは怪しい。拠点攻略は全く真逆の攻略方針があって、適当数の使い捨て可能な人員を使うという発想自体は全く健全なものでもあったからだ。
マジンであれば使い捨ての手勢が百名もいれば、適当にそれらしい攻略計画をでっち上げ吹込み、わざと失敗させ追撃を誘い火点と伏兵の張り出しを確認した上で制圧してゆく。実際にやった時はいくらか逃げられたが、手勢がいれば五百いても全滅させる自信があった。
誘引浸透戦術は兵隊の質が揃わない場合、互いに勝手にやる作戦としては打合せが少なくてすむ。
そこまで考えたところで、アルジェンとアウルムは鐙に足をかけるのに跳ねたり銃を足場代わりにする必要があったことを思い出して少し笑ってしまった。
「――おかしなものですが、昔は奪われたと言って怒り、今は不急だからと遠ざけているわけです」
グレンはマジンが微笑んだのを見てそう言葉を継いだ。
「いや、館を制圧したときにも子供たちには危ない苦労をかけたなと、つい笑ってしまいました。信じられるかわかりませんが、当時の上の子達は今の下の子達ほどしか背がありませんでした。ひとりで鞍を乗せることもできなかったのですよ」
マジンはグレンに零れた笑いの理由を説明した。
「今、上のお嬢さんはお幾つでしたか。確か七歳ですか」
「そうです。七歳です」
「ということは、当時はみっつか、そこらですか。全く良く出来た娘さんたちですな」
「全く親の勝手で引き回してろくでもない苦労ばかりかけさせています」
「お嬢さんがたはどうやら苦労にも試練にも感じていない様子が全く素晴らしく羨ましい」
マジンの韜晦じみた応えにグレンは真剣な顔で頷いた。
マジンが言葉を探している間に、昼食の用意が整った。
ユーリは丸ヤスリと火打ち石が一体になった火口と瓶に鹸化したアルコールを一パウンほど詰めた簡易コンロに興味があったようだった。マジンとしては風よけと吸気と煙突を一体にした五徳のほうが自信作だったのだが、そちらは今ひとつ地味だったようだ。
山頂で思いがけなく温かいものを口にしたグレンは、ユーリの感動していた半練りの軽く燃える燃料についてマジンに改めて尋ね、材料だけなら一つ一タレルほどもしないという話に、月に千ほども作れるならば全て買いたいと言い、それほどなら専門の工房が必要になるとマジンがいうと残念そうな顔になった。
「ゲリエ家には早く用人を増やしていただいて、旅の助けになる品物を市井に広く流していただきたい。もちろんいつでも協力をするつもりもあります。なにせ商人にとっては旅の無事を支える杖も灯りもいくらでも必要ですから。雨の森で火をくべる苦労は旅の空でも難儀なものの一つですし、それがわかってなお火を必要とする事由というのはまた陰鬱なものです」
「焚付を乾かすために布にくるんで服のしたに入れたりとか、いっそ布を焚き付けにしてしまえと、癇癪を起こすと先の長い旅では次が困るのですよね」
そんなことをしてしばらくの長雨で焚付に困ったこともあった。
「そういえば父様、木で作った鳥を焚き付けにしたことあったね」
アウルムが流れ旅を思い出すように言った。
「お前たちは泣き出すほど気に入ってくれていたようだったけど、あれはもともと困ったときの焚付にするつもりだったんだ。あれっぱかりでも生木がどうにか乾くくらいにはなったろ」
単に薪雑っぽのままではなにか退屈だったので焚付の端欠きをつくるに動物の像を刻んでいた。それを雨の森で燃やしたことがあった。
「彫刻の鳥を燃やしたんですの」
ユーリが驚いたように尋ねたのにアルジェンとアウルムは揃って頷いた。
「気に入っていた」
「大事だった」
ふたりとも思いだして悲しくなったのか、うつむいてしまった。
「また作ってやるよ」
マジンが苦笑交じりに軽く言った。
「父様、そうじゃない」
「あれはまだ死んでいなかった」
アルジェンとアウルムは揃って無神経さを非難する。
マジンは二人の珍しい反応になにが特別だったんだろうと考えた。薪雑っぽに彫刻を刻み始めた経緯を軽く思い返してみる。
「旅の空では手遊びは自然限られてくる。揺れる馬車の中ではそうそう大仰なことは出来ないし、材料もない。そんな中で退屈そうに見えたのか、ボクの最初の妻だった女。ソラとユエの母ステアが、彫刻したら生木も早く乾くんじゃない、と軽い様子で口にしたんですよ」
「旅の空で長雨だと本当にやることもないんで、適当に雨宿りできるところに馬を休めてたら本当にそういう手遊びしかないわけです。こんな風にどんどん出来ていく小さな動物にコイツラが名前をつけていったわけです。雨の間に」
早速始めたマジンにステアは呆れ顔だったが、思いの外に美しく生きているように出来た。彫刻はもちろん野生の生き物そのままというわけではなかったが、ステアは喜び名前をつけていた。
生木は彫刻の刃には耐えるが、その後の乾燥には耐えられず自然に割れ裂けていった。
そういう、死んだ彫刻たちは焚付へと返っていった。
ステアがいなくなった後で様々に忙しくなったマジンは彫刻を作らなくなった。
そういう中で長雨にあい、手持ちの薪の全てと彫刻を焚き付けに使うことになった。
そんな感じの経緯だった。
ふたりにとっては、ステアが名前をつけたまだ死んでいない木の動物たちだった。
そう言っている間に枝に止まったカラスのような物ができたり、伸びをした猫のようなものが出来たりしていた。
セレール家のふたりに流れを軽く説明するとソラとユエにもはじめて聞いた話だった。
「なるほど、焚付の動物たちですか。それはいいお話だ。道中のお守りに持たせてみよう」
グレンの言葉を聞いてユーリが嫌な顔をした。
「お父様ったら今の話を聞いてなんでそんな風に思えるの」
「旅の火は本当に苦労するんだよ。雨の少ない時期や土地ならそれでもなんとかなるが、なんともならないから火がなくてもなんとかするように工夫をしている。挽き麦とか煎り麦とか乾物とかね。お前が口の中を切った固いビスケットもそういうものの一つだ。簡単に火がつくようにできるってことは、そういうものを口にしないでも良くなるということでもある。もちろん獣に怯えながら寝ないですむようにもなる」
グレンは娘の言葉に全く心外そうに説明した。
「獣はあとまわしですか」
意外そうにマジンが言ったのにグレンは笑った。
「銃が良くなりましたからね。弾を込めたまま放っておいて持ち歩け撃てるというのは大きいです。二発続けてダメということは少ないですし」
「連発式ですか。贅沢ですね」
感心するマジンにグレンは笑った。
「私たちは軍隊や検事ではないですからね。そうそう銃が必要になることはありません。一発一タレル半でも物がきちんと届くなら、その価値は大きいものです。それに連発式と言っても、二本の銃身がならんでいる、昔ながらの改良品です」
ヴィンゼの猟師も似たような連発銃を使っているのを思い出した。
「――もちろん回転式の拳銃も持っていますが、コレも便利なようで色々問題も多いですね」
グレンは皮チョッキと揃いの生地のホルスターの中にある拳銃を叩いてみせた。
手入れよく美しく装飾された銃把ではあるが、作りはどうやらふつうのシリンダーパーカッションであるらしい。
それにしても一発一タレル半は高い。火薬と鉛球だけなら、一タレル半もだせば百発は無理でも五十発はゆうに手に入るし、包み紙を使えば球の押さえもなんとかなる。量り終えた個包装のものも雑貨屋には並んでいてお守り代わりの石灰袋が入っているが、三十発入りで二タレルというところだ。
かつて立ち寄った都市ガラオで買った当時新型の銃はどうだったろうと思いだすと一発半タレルほどだったように思う。銃の機構も精度的なものはともかく、比較的種類は豊富だったように感じる。
「お父様と旅に出るといつもこれですわ。もうちょっと家と違う風景を愛で楽しむだけの気楽な幸せさを大事にされてもいいじゃありませんか」
ユーリが男の話に割りこむように言った。
「そうは云ってもだな、我が愛するお嬢様。君も我が家の稼業は知っているはずだ。多くの家人が旅人として各地で苦労している上で我が家の安泰はある。君のお祖母様がときどき奇妙なお菓子を作ってみせるのも君には不満のタネのようだが、アレはアレでアレを必要とするような人達もいるということを忘れてはいけないよ。そして我々が宿を寄せさせていただいている若きご主人は、かつて腕利きの賞金稼ぎとして長い流転の果てにこの地にたどり着いたという英雄譚も持っている旅の達人でもある。行商の旅を束ねる商家を預かる者としてはこういった人物とともに遠乗りに出る機会があれば、多少ともその旅のコツを知りたいと思うものではないかな」
そんな風に諭されてはユーリも口をへの字に曲げて噤むしかなかった。
「一丁の鳥撃ち銃と百発の弾丸、腰に拳銃とサーベルと砥石と馬の革、ナイフは三本、厚い羊毛のズボン、六足の厚い靴下、六枚のアンダーシャツ、三枚のシャツ、広縁の中折帽、サックコート、オーバーコート、夏なら一枚、冬なら二枚の厚くて柔らかい毛布、作業用手袋、糸に針、ピン、スポンジ、ヘアブラシ、くし、石鹸、タルカムパウダー、六枚のズロース、六枚のタオル、衣服を包める大きな包み布一枚、それと忘れてはいけない華やかな夜会に呼ばれた時のための余所行きの素敵なドレスを一揃え」
アルジェンが突然歌い出した。
「いい声だ。駅馬車の旅の歌ですな。ナイフは三本ってのは、ひげそり用と食事用と細工用ということらしいですね」
グレンが歌を聞いて言った。
「火口とかあかりとかはいいの」
ユーリは不思議そうに聞いた。
「駅馬車だからね。食事と火は馬車が持ってくれる。パンはひとり最低一日一パウン出るし、水も三パウン準備される。三等だとそこまでだけど、二等なら干し肉とジャムとバターかラードは出るし、一等ならだいぶマシになる」
グレンが娘に説明する。
「それなのに鳥撃ち銃がいるの」
旅慣れているとはいえないユーリは不思議そうに言った。
「盗賊に襲われることもあるからね。サーベルってのはちょっと時代を感じるけど、オシャレに持ってた時代もある。それに元は帝国の歌なんだ。あっちじゃ男性は鞘だけ腰に刺していたり、じゃまにならないような、うんと短いものもあったりする」
グレンの博識の解説ぶりに、歌っていたアルジェン本人も感心していた。
「セレール商会では帝国との取引もあるのですか」
グレンの何気ない言葉にマジンは尋ねてみた。
「香辛料や薬草のたぐいで量は多いというほどではありませんが、途絶えずあります。直接通うには遠いので信用できる仲買人を介してという形ですが。あとはお茶と絹ですかね。絹は高いのですが質は良いです。香辛料や薬草といったものはやはりある程度は土地地域に頼ったほうが質の高いものが出来るので、お互いやり取りしていることが多いです。土地から持ちだすと薬効を失ったり、質が変わったりということがかなり多いのですよ」
「やはり、タネや卵の持ち出しの試みは幾度もあったのですか」
グレンの博識にマジンもひかれてしまう。
「それはもちろん。食料や薬のたぐいの多くは植物や動物ですからね。いくらかでもヒトがいれば種を蒔いたり株を増やしたりということをする者はいます。共和国の養蚕もそういうものの一つです。尤もこちらでは餌とする葉の質が違うらしく、今ひとつ帝国のものと同じようにはいかないようですが」
モノによっては、持ち出しは文字通りの命がけであることもあり、養蚕も軌道に乗るまでにはその陰で百人では利かない人々が死んでいた。
「帝国との取引は例えばギゼンヌのような町でということですか」
マジンは自分の知っている数少ない国境の町の名を言ってみる。
ギゼンヌはリザール湿地帯にほど近い穀倉の町で複数の聯隊を駐屯させている前線の町でもある。師団や軍団司令部といったものは公式には軍都に籍があることになっているが、リザール湿地帯の戦線はあまりに長い期間の展開が続いているために常設の軍団司令部が設置されていた。唄に百万、公称五十万の定数の軍勢である共和国軍の内、およそ八万が一つの軍団として配置されていた。約三万がリザール湿地帯に張り付いている。更に突破や迂回を想定した警戒配置で約三万が薄く広がり、騎兵編成の約一万が予備として置かれ、それぞれの街に聯隊が配置されている。ギゼンヌは風景こそ豊かな賑わいを見せた田園であったが前線の町でもあった。
十二万ほどの地域の人口の内ほぼ半数が退役者や予備役として後備兵の扱いで軍からの年金を受けていることで、取り立てて農業以外の産業のない土地だが農民にとっての夢の様な豊かな土地でもある。橋や道或いは畦や河原の土手といった物は兵隊の訓練のついでに直され、足りないものがあれば軍都から送られてくる物資で都合され、余れば引き取られるが公定価格で支えられ、行商人が算盤をちょろまかそうものなら憲兵がすっ飛んでくる。
一方で共和国の理念の様々を現実が踏みにじっている町でもある。物価が他所と全く異なり、別の国に迷い込んだかと思うような価格になっている。よそ者は遊び半分の訓練ついでに尾行監視される。
そんな風に伝手のない商人にとっては悪夢のような土地でもある。
「いえ、あんな本気で国同士が睨み合っているような土地では他所の国との商売は危なすぎます。南方のスカローとかイザリアやセンヌとかですね。あとはジューム藩王国とか沿海部の諸藩諸王国群などの帝国に縁のある第三国を使ったりします」
スカローは泥海と呼ばれる巨大な汽水域の沼沢地に面した町で共和国の巨大な玄関口でもある。泥海まではザブバル川が通じているが、途中流れが急になり荷を積んでの往来が困難であるためにデカートから十日ほど下ったケイチの町で陸路を使い半日ほどゆきアッシュの町でザブバル川に戻るか、三日ほど陸路で進んでジョートの町でヴァーデン川に出るかということになる。ヴァーデン川を下れば五日か八日かそこいらでイザリアという海街道の開けた港町に出る。そこからさらに五日から十日ほどの船旅で海路で泥海に入り、スカローを目指す。船旅は船頭次第船次第というところであるが、陸路に比べると天候の影響は小さい。或いはイザリアからは海街道を使って十日から半月ほどでの陸路もある。大方は荷積み荷降ろしでで面倒がなければ船のほうが早いのだが、信用や値段の折り合いで海をゆく船は一種の獄門に早変わりする。海街道は海沿いの荒れ野を通る道で南街道に比べると集落は少ないが天候という意味では割合単純で旅の準備だけしていれば南街道よりは随分と読みやすく、北街道ほどには寂れていない。
ケイチ・アッシュ間の運河の話は定期的にでているのだが、予算と工事の課題が多く今のところ完成の目処はないという。
「船頭の腕が良ければ下りならなんとかなりますし、上りも曳き馬や巻き上げで人だけならなんとかなるのですけど、ヨタ渓谷のあの流れの速さはちょっと驚くものですよ。滝というほどのものではないのですけどね。十六人艇の腕試しがおこなわれる土地でもあります。ほんの百キュビットほどの流れが壁のように幾度か立ちはだかるので、土地の名前でヨタの水壁とよばれています。上は吊橋になっていて近道なのですが、荷車で通るような道ではないのでやはり難所の一つです。スカローを旅の目的にするなら自然ケイチ・ジョート間を使うほうが無難です」
左右から急峻な地形で絞りこまれ流れが早くなっているらしい。
「アッシュから運ぶべきものはないのですか」
「実のところ絹の産地でもあるので往来が自由になれば随分違うのですが、なかなか今のところは面倒が多く。そんなわけで機関船を使ってみたらどうかなと」
グレンはすでに機関船の使いみちを思いついているらしい。
「川幅や深さはどうなのですか」
「深さはなんともいえませんが、下りで十五グレノルの石積み舟を通したという話もあるようなのでどうにかなると思います。ですので、機関船が当たり前になると物流そのものが大きく変わりますよ」
楽しそうにグレンは言った。
そのあとグレンは折を見て遠出をしようと約束をした。
泥海は五百リーグほども広がりを持つ複数の大河が流れこむ汽水域の湾状になっているがその先は青い海に繋がる入江を持ち、その風景は沼地を思わせる不気味さよりは不思議な色合いの静かな美しさを持つという。
また、穏やかに明るい気候が泥海と呼ばれる海の泥を材料にした海漆喰という一種のセメントの干しレンガを家並みの材料に使わせ、その白さと微妙な色合いの美しさが海辺を彩るという。
むしろ入江の外の海のほうが荒々しい潮の香りと吹き荒れる無法を感じさせるという。
グレンは商家の統領というよりは旅を愛する友人として全く無心に誘ってくれたようだった。
日が傾き始める前に屋敷に戻ると、グレンは日ごろ愛用の地図を持ち出し旅の話をしばし披露してくれた。ことによると、この旅への傾倒が昂じてセレール商会会頭への就任が遅くなっているのではないかと感じるほどにグレンの旅はやもすると冒険と紙一重の逸話が多く、全く物語として他人の口から聞けばただただ無責任に楽しく興味深く面白かった。
マイノラが館のどこからか見つけてきたリュートを爪弾くとグレンは歌ってみせ、或いは吟遊詩人のようにリュートを弾き語ってみせた。
旅の手妻に覚えたものだという。音楽は獣を避けるというのは本当らしく、眠気覚ましに夜通し弾いていればひとつきもすれば勝手に覚える、とグレンは気楽に言ったもののやはりユーリには信じられないことのようだった。
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