デカート市運河口 新しい朝

 午後になって目を覚ましたグレンはあちこちが突っ張るような痛みを感じていた。とくに革張りの座席に押し付けるようにしていた背中から太腿にかけてのこわばりは尋常でなく、馬のように内ももに力を必要としていなかったはずなのに神経を集中させていた足の裏から膝のスジは奇妙な疲労を感じていた。

 八十五リーグを地を這う風のように駆け抜けた機関車は、石畳が敷かれたデカートの町は郊外の荒れた道とは全く違って、自分のペースで走る限り馬よりもなめらかに荷馬車の流れを追い抜けた。

 本店から順番に三つの支店をすべて回り、運河口を訪れると上流から曳船を曳いた機関船がやってくるのが見えた。

 機関船は慣れた雰囲気で運河の外側の船着場の外桟橋に舟を寄せると荷のやり取りを始めた。


 グレンが運河の中に入ってこない舟を慌てて迎えにゆくとちょうど綱をかけて舟を寄せ終わったところだった。ワングはグレンの顔を見かけると一礼して、迎えに待ち構えていた者達に指図をして積み荷の下しを差配した。積み荷はセレール家のものだけではなかったらしく曳船にいっぱいの積み荷を別の家の手代が積み下ろしの差配をしていた。

 家の荷物の受け取りが終わったところでユーリが馬に乗ってあらわれたのはグレンにとって少しばかり嬉しい驚きだった。


 ユーリは馬をワングに預けると父の後ろに収まった。

「馬はもう良いのかい」

「お父様が起きたら機関車をお借りするつもりだったのにいつの間にかいらっしゃらないのだもの」

 グレンが尋ねるのにユーリは口を尖らかせるように言った。


「それは悪かった。しかしすっかり乗馬がうまくなったね」

「町中ですもの」

 ユーリは見え透いたお世辞を言われたかのように応えたが、グレンとしては娘の成長を頼もしく感じた。


「だが自分で鞍や鐙を合わせたのだろう。そんなことはついこの間まで出来なかったじゃないか」

「そうですけど」

 ワングは短すぎる鐙に苦労していたけれど、間に合わせられないということでもない。


 グレンはするりと速度を上げ、街の中心の雑踏を通らない道で遠回りをして自宅に向かう。川沿いに天蓋の柱を巻いて外からの街道に沿って邸宅を目指す。セレール家の本宅は元来農地だった雑踏を離れた一角にある。

 敢えて町中の利便にこだわるまでもない。必要な物はゴンドラと馬車で運べば良いとあれば、デカートの富裕層は運河と街道で仕切られた扇状の一角に住まうことを貴富の証としていた。


 ワングは機関車の値段が高過ぎると言っていたが、グレンはそうでもないと思っていた。理由はデカートのあちこちで行われる会合は価値が有るのかないのか足を運んでみないとわからない、という点にあった。もちろん、この小さな機関車にくつろがせるべきお客様を乗せることはありえないが、自らが出向くには充分だったし、とくに会合に価値が無いということであれば、さっさと切り上げて別の場所に移ることも不可能ではなくなる。


 商品を運ぶことはなくとも、情報とグレン自身の時間を濃密に使うことができるようになることは大きな意味があった。

 もちろん値切ってみせるためのやり取りというばかりではなく、機関車の運用には色々な疑問や難点もあるわけだけれど、それは三両目以降を導入してゆくことで解決することだったし、ローゼンヘン館とヴィンゼを往復するのに使った貨客用の機関車が手に入るならそれはまた大きく変わる。

 そういうことだった。

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