自転車泥棒と文明の迷路
学志館 共和国協定千四百三十六年春
学志館は共和国成立以前から運営が続く研究所そして地域の学問を志す者たちの集う学問所である。
学志館の伝承が伝えるところによると、デカート市はその昔はるかな太古、空に多くの都市が栄えていた時代があり、その時代の終わりを告げる最後の都市の一つと言われている。
竜と巨人が争っていた時代、最後に落ちた都市の一つがデカートである。
それがいつのことなのか、何者がその都市をなんのために空に上げたのかという話は誰も説明はつかなかったが、大地が平らではなく巨大な球体であろうとか、天の星は太陽と同じような光の塊であろうとか、大地と月といくつかの惑星はその太陽の周辺を巡っているのだろうとか、空の雲やモヤは水気が何やら姿を変えたものであるらしいとか、そう言う具合に、デカート市の天蓋は巨大なかつての空をゆく都市の一部であったと考えられていた。
共和国は基本的に東から帝国系の移民が入り文明と商業技術を伝え、西方から各種亜人が流入し魔法体系が増えるという構造をなしていた。共和国北部は一般に寒冷で肥沃というには難しいタネを選ぶ土地だった。一方で共和国南部は無造作に植生が荒れ狂う緑の地獄というべき植物の魔界で生き物が生きるにはそれなりの準備と努力が必要な土地だった。
デカートは共和国において数少ない共和国成立以前から人類が存在していた土地である。
とはいえ、共和国の成立以前のことが正しく伝わっているわけでもない。
およそ、一万年くらい前に空からデカート市が落ちてきて、それを見たり予見した人々が集まってデカート市を開いたということになっているが、もちろん神話とかわりはない。
デカートに潜む魔族の王の后と名乗る者が現れて、王と共に眠ることでデカートが堕ちて荒れ狂っていた一面の地獄が緑の草なす大地に代わったという話と共に伝わっているだけだ。
ただ、微妙に傾いた周辺の地形や深い鉱山にだけ出るはずの希石がデカート市周辺の浅い土地の地層で出ることは知られていて掘りやすいところはあらかた採られたもののいまだに諦めきれない連中が探している。
ほかにも、フラムからデカートに至る比較的細い一帯に特徴的な地層があり、その周辺でやはり珍しい宝石や鉱石が取れていた。
少なくとも、その地質的な特産品はデカート州を大きくとは言わなくとも手堅く助けてくれたし、雑多とも言える鉱物を扱うことでデカート市の職人の工作技術は周辺でも評判を呼ぶものになっていた。
学志館は四百年ほども前にデカート軍の練兵場と本営のあった土地にある。
比較的啓け往来の都合が良く、また幾らかの高台もあるような複雑な土地で、学者たちがかつての城砦要害を研究室として立てこもるように研究に励み、かつてのデカート軍本営である講堂で年にふたつきばかり成果をひけらかす。
デカート軍の軍勢が帝国軍の襲来に呼応して東進した際に空っぽになった城塞に学者が住み着いた。
考古地質学研究室と名乗っていた一群が奇妙な板状の貴石層を発見し調査するために住み着いたのが「いまの」学志館の始まりだった。
そのうち冶金や無機塩化学の研究室が移動してきて農学生物機械や数学天文文学などがついてきた。学志館とはつまり、デカート市の学術研究者組合と呼ぶべきものである。
とはいえ、その数千年の歴史は幾度か断絶が起こり、運営も実態も幾度か変化しているために、数千年の何事かが正しく伝えられてはいない。名前の幾らかが伸びたりまた削られるようにしてかろうじて学志館という名前が今に伝わっているに過ぎない。千年どころか学志館が学志館の名前を得てから数百年の資料についても正しく業績を辿り追えるほどに理解しているものも一人もいない。
学志館の理事も研究者もそのことをしばしば嘆き、またそれを誇りもする。
デカートは世相の荒波に幾度か洗われながら、学問研究の意義を人々が見失わないだけの文明の尊厳を保てている。というわけである。
云ってしまえばそれは、学問なぞ息抜きと暇潰しのための興味をそそる娯楽だというわけで、知恵を使ったお遊びだという事を学問所が自ら誇っているようでもある。実際にそれが許される程度に、そしてこの百年ほどはデカートが軍勢を必要としないほどに平和でもあった。
精兵を鍛えて周辺に敵なしに覇を唱えたデカート州は今や大兵を保たずとも個々の元老が維持できる数百という私兵で治安を維持できるようになっていたし、それを束ねればまたそれで十分に戦える感触もあった。デカート州周辺の利権が固まったのでいまさらキッタハッタで争う必要もなくなったことが大きい。
軍を鍛える必要がなくなったことで、元老の目が次に向くことになった。
そのことは一般に悪いことばかりではない。
そういう学問の場について、ボーリトンは夜のうちに港に届いた伝書を西に向けて配達して歩きながら学志館に通う道すがら、皮肉交じりに考えていた。
学問で新しい商売が始まってカネがこっちの懐にもう少し回る世の中になればいいのに、だがそうなれば当然に盗みも争いも増えるな。そんな風にだ。
彼の抱える伝書の宛先の幾らかは学志館のあちこちになっていて、ボーリトンは休憩の意味合いを含めて学志館の初等科に通っていた。
朝のうちに配りきれない分は授業の合間や放課後に配ることになる。
そういう風にして学志館に通っている奉公人の子供は少なくない。
実のところ学志館という組織は軍隊のないデカートにおいては政庁と同じくらい幅広い注文の取れる客筋の窓口だったから、ついでのついでに丁稚の小僧に読み書き算盤を教えてくれるなら、年に金貨十枚を払ってネタ拾いなり得意先回りの顔つなぎをさせることくらいは、間尺に合わないほどの出費ではない。
商いに関係ない農民の子供も幾らか通っている。
畑も持たない小作や季節農にとって金貨十枚というのは安い払いではない。
それでも流行り廃れというのは近所付き合いの一つでもあって、流行りの歌やおべんちゃらが口にできないような子供は、デカートのような街場にあっては処世の接穂もない。
ちょっとは先を見たり子供の将来を想像するくらいに余裕のある家であれば、学志館に子供をやって、その学問が子供の身肌にあって上手くゆけば政庁勤めやどこぞの商会の手代番頭になれば、自前の水の口も持たないような小作よりは畑もないような農民よりははるかにマシだということになる。
しかしデカートは小さな町ではない。
差し渡しで五リーグを越えるような広がりのあるデカート市の郊外というべき西の端に更に学志館自体も一リーグに渡って広がり、近くに学生や研究者の集落を作るような施設である。
近所にたまたま住んでいるか宿を借りるか、はたまたデカートを跨ぐために馬を馬車を揃え仕立てるか、という条件は子供が学志館で学問を積む上で年に金貨十枚という学費よりもはるかに険しい壁となる。
初等科は学志館の中では比較的デカートの天蓋の柱に程近いところにあり、特段に険しい道程というわけではないのだが、数リーグという距離は子供の足では数時間を意味する距離でもある。
当然に様々な理由で通えなくなる子供も多い。
一言で言えば体力の問題ということになる。
ボーリトンはたまたま続いているが、ボーリトンと同じドクのところで学志館に通い始めて途中で辞めた子供ももちろん少なくない。
辞めた理由はそれぞれ様々であるわけだが、ボーリトンが続いている理由も、なんとなく、という以上に意味があるものでもなかったから、人それぞれ、という以上に説明はできなかったし、知恵を使ったお遊びがなんとなく気に入っていたからという皮肉交じりの感想につながるわけだ。
そういう皮肉を感じたのは、お得意の届け先が不機嫌そうに寝坊して代金チョッキリしか払ってくれなかったので小遣い銭がなかったせいでもある。
今日は学志館の中でも配り先は幾らかあるから、昼飯に困るほどに小遣いに困るということもないだろうが、小銭で心付けを払ってくれるかどうかは届け先次第なので不安はある。だがしかし、それで全て投げ出すほどにボーリトンは幼くはない子供だった。
とはいえやはり多少不安もあったので、学志館の事務局に押しかけてひとまず最低限の小銭を懐に落としこんでおかないと思う程度には朝の出来事はボーリトンのみぞおちを抉っていた。
事務局の守衛室で一束の封書と引換に、代金の収まる革袋の中身を守衛と一緒に改めて、そのとき渡された紋章の押されたぽち袋に入った中身の大きさ硬さ重さを確かめて、銀貨の感触手ごたえにボーリトンは安堵した。
事務局宛の配達は毎日あるわけではないが、確実に銀貨がもらえる配達先だったし、封蝋の押された封書というのは、なんというか公に認められた気分になる。
強いて上げればボーリトンが学志館に通い続けている理由であるとも言えた。
カネが人生の全てではないけど、公の関係はカネを通じておこなわれるものだ。という直感はボーリトンの中にあって、デカートの公の組織である学志館がボーリトンを公に認めているという風に感じられていた。幾らかは棄てたが、ボーリトンは学志館のものに限らずあちこちの封蝋を仕事の記録代わりに集めていた。
あまり見栄えよくない身形の女生徒が図書館の自習室で封蝋を扱っているのに気がついたのもそういうわけである。以来ボーリトンは教室で封蝋を扱っているような迂闊な執事見習いの動向は気にかけていた。
彼自身ももちろん垢抜けない貧乏な浮浪児である自覚はあった。一方で孤児上がりながら勤労によって生計を立てているという自負もあったから、一種の同胞意識を勝手に抱いていた。
公証はつまりそれこそが執事そのものであったから、公証があれば何者であってもある家の公の執務を代行できてしまう。子供のおもちゃにするには危険なものだったし、学志館に通う子供のすべてが盗みや後ろ暗いことと無縁というわけではない。
封蝋とともに扱う公証というものはつまり身の証であって、どういった格好のものでも身の証を立てるために公証があるということも言えるわけだから、それを訝しく思うことはそれこそが不明である。などとボーリトンはその場で自己解決したわけだが、それがボーリトンにとってゲリエ家の執事であるロゼッタ・ワーズワスの最初の印象だった。
年下のクラスに編入された、いかにも所在無げな雰囲気の執事見習いの少女に彼は社会の先達としてちょっとした優越を抱いた、というところだ。
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