ゼィド・セレール

 戻ってきたユーリに祖父であるゼィド・セレールは朝食に出てこなかったことを咎めたが、学志館の様子を見てきたと告げると、学志館の学会の価値や有り様に一家言くらいはあるセレール家の統領としては孫娘にあまり強く云う気は消えてしまったし、そもそも家督を継がせるべき嫡子が未だに寝ているだらしなさを思えば、同じ旅をしていた孫娘が散歩で朝食に出てこれなかったことくらいで怒る気にはなれなかった。


 祖父はユーリの遅い朝食に付き合いながら、昨日なにがあったかの顛末を尋ねた。

 孫娘は荒野を吹きすさぶ風を追い抜くようにして、ヴィンゼの北の外れから一気にデカートまで駆け抜けたことを祖父に語って聞かせた。


 グレンは旅を愛していたし、必ずしも計算高い性格ではないことはゼィドも知っていた。というよりは、息子が計算を無視したがる癖があるのをよく知っていたから、体が無事なうちはなかなか当主の座を明け渡す気にはなれなかった。

 もちろん、計算を無視したがるというのは無謀な遊びを好むということではあるが、一面として貿易の利益の目論見なぞそう厳密なものではない。と云うのは事実でもあった。


 損害は出費を積算することで計算ができるが、利益は将来の出費を見越したものであるから、厳密に言えばある程度の窓の区切り方で自在に設定される。本来利益は年次を区切って狙うべきものではないし、商売の因果は結果論の勝手な切り方でしかない。


 損をしたくなければ、商売をしなければいいのだ。

 それをまず金言と認めた上で踏みにじることこそ、そしてそこから銀を拾うことこそが商売の王道であると言うのが、ゼィドの座右の銘でもあったからこそ、そしてそれをはばからずになせる立場にあるからこそ、彼はデカート州の元老の一席を占めている。


 そういう一般則の範囲でグレンの新奇を求める旅は商人としては間違いではなかったし、大目に見れた。


 しかし、ゼィドのの感性として機関船や冷凍庫というものは度を過ごしている。あまりに根幹的な新技術で無視をすれば振り落とされかねず、かと言ってそれにどれほどの投資を求められるのかがわからない。

 そう考えて一昨年の冬、ハリス・ストーンに共同事業として百万タレルの出資を持ちかけられたときには断った。


 物事がうまく行けば激しく大事になることがわかっていたからだ。

 一つの成功が新たな成果を生み、一つの成果が新たな革新を、一つの革新が新たな混乱を生む。

 そういう予感があった。

 事業そのものの損益はどうでもよい。

 葦原で暖を取るつもりで迂闊に焚き火をして、川辺で逃げ場もなく焼かれる愚かなぞ、よほどにわきまえててもなお避けがたいものだ。

 危険は、事業の波及効果が例えば自宅の裏に突然天まで突き立つ巨大な山が出現するようなものだからだ。

 ローゼンヘン館はデカート州の安寧にとって魔王の城とも言える存在になりかねなかった。


 次に思ったことは、それを生み出す天を衝く湧泉か嵐の渦の如き人物をどう扱うべきかということだった。

 具体的にはどうやって殺すかどうやって手元に寄せるかだったが、積極的な妨害はおこなわなかった。


 伝説的な彩りさえあるローゼンヘン館の討伐劇の詳細はもちろんゼィドは知らないが悪党の側、討ち取られた側がどの程度の勢力であったかは知っている。

 少なくとも、セレール商会の私兵では商隊護衛することが困難な規模と練度を持った正規軍崩れが百名以上。過半数が下士官経験者以上となるとよほどの被害を覚悟する必要がある。

 百を超える正規軍の脱走兵で砦に一旦こもられては十倍の兵でも容易とはいかない。

 ことにデカートはまともな意味で戦争を数百年していなかった。

 野戦や小さな私関の打ち壊しならともかく、割にも合わない。

 だから、名を伏せた取引を前提に騒ぎ立てることはしなかった。


 名前を伏せた糧秣の商いがなかったわけではない賊共が一党アッサリと片付けられたことに良心が軽くなったのも事実だったが、反面新たな悩みもゼィドの胸中に膨らんだ。


 そういうまとまった戦力を子供一人で乗り込んで、あらかた皆殺しにした上で、適当なところで手を止めて、なにがあったかを証言させる程度の知恵があるケダモノをどう扱うべきか。


 荒事にならないように穏やかに遠ざけるほうが面倒が少ない。


 やったことといえばせいぜい裁判が起きたときにワーズ・リンスという正義漢にあたるようにしてみたくらいだ。

 当然に多くの葛藤があった。

 そもそも遠方の話であったし、経由地を考えれば近隣でもあるヴィンゼという田舎の出来事は奇貨でもある。


 価値を思えば、得てみたいという判断もあったし、数百万タレルという金額ははっきりいえばストーン商会にとってもセレール商会にとっても月次の決算の中ではひとつの穀倉、ひとつの鉱山でのちょっとした事件という程度の投資でしかない。もちろん個人との取引としてみれば破格ではあるが、金額そのものが面倒のもとではない。

 山師でない詐欺師であっても、或いは文字通りの山師であっても一回限りであれば損益はその場その件で確定する。


 全く単純にゼィド・セレールとしては成功した老人として守りに入る贅沢が許されていただけだ。

 臆病怯懦は一身を為した者にこそ必要な資質だとゼィドは考えていた。

 セレール商会は穀物を軸に扱う商会でその利益は広く大きく手堅い。だがその鎖の網は複雑で脆い。


 農民という天候任せの博打の胴元でもある穀物商は変化に敏感かつ自発的積極的ではならないとゼィドは考えていた。一年水が枯れず土地をひっかくことができる農民一軒は無能不作でも三軒、有能豊作なら五十軒に迫る食い扶持を実りとして得る。


 土地を持っている農民はよほどの小規模農でも町住みの過半の連中よりも生活に先行きがある。その先行きは太陽が一日で巡り季節が順当に巡り、土地の水が枯れることなく、土が痩せることなく、戦の炎が襲うことがないことを前提にしている。

 デカート周辺は全く幸いな事にこの数十年戦の炎にさらされることはなかった。

 不幸なことにヴィンゼは近年町が壊滅と云って良い被害を受けたが、セレール商会としては全く幸いな事に大きな取引先はなかった。未だに穀倉としては控えめに言っても魅力が殆ど無いヴィンゼをどう扱うべきかについては、ゼィドは興味が無い。


 問題は結局、ゲリエ家という奇妙な実業家がどういうものであるのか、という話だけであった。

 孫娘はローゼンヘン館の様々に心酔しているようだったが、その説明は今ひとつ要領を得たものではなかった。

 ただ一日でヴィンゼからデカートまで暴れ馬のように駆け抜けた機関車とやらの話は興味を惹かれざるを得なかった。


 よく鍛えた馬でも一日十リーグを超えて走り続けるのは難しかったし、時に人が走ったほうが早くなることもあるから、五十リーグ以上を一日で駆け抜けるという騎馬伝令は継馬をよほど上手く配してもなかなかに難しい。

 聞けば何やら云う薬液の入った樽を積んで駆け抜けたという。一日でデカートの領域を一気にまたげるというのは素晴らしいと思った。


 値段を聞けば三百万タレルという。バカなことを、と言いかけたところで、ひとつきだけ五万タレルで貸してくれた、と孫娘が言うのに、小賢しいと口の中で噛み潰した。

 それだけの時間で八十五リーグに馬を並べるとして一日で人二人と一樽運ぼうと思えば、馬百頭では心もとないことを計算して、ため息を答えにした。

 孫娘を嫁にやって縁戚でも結んでしまおうかとも考えていたが、ゲリエ・マキシマジンのことはなんとなく気に入れそうもなかった。


 午後を過ぎ、静かな邸宅の中では雨音とも人の騒がしさとも異なる音がかすかに聞こえ、ゼィドが窓の外を眺めると奇妙な手カゴのような乗り物がかなりの速さで庭先から門を抜けて出て行った。

 機関車であることはすぐに思い至った。荷馬車の代わりになるとは思えない大きさであったが、なるほど景気のよさ気な走りっぷりは、しかし話に聞くより随分滑らかであるように見えた。

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