ソラ&ユエ

 ソラとユエは自転車が大好きだ。

 馬と競えるほどに街中を軽快に滑るように走り抜ける自転車は、彼女たちを風にする。


 朝日が昇る少し前に自転車に乗り出して川靄の流れてゆく街中がまだ静かな時間に、早起きの人々を追い抜くようにしてデカートの天蓋の根方をめぐり学校に行く。


 春分もすぎたこの時期、曙のデカートを包む朝もやは、カンテラを持ち歩いてもかろうじて足元が見えるような深さだったけれど、働き者の農民のいくらかは自分たちの農地に向けて既に動き始めていた。


 デカートは歩いて跨ごうとすると少しばかり広すぎるから、多少の無理はする必要があって、働き者の農民は稜線が一段深い影になる時間帯に体になじんだ道を進む。夜が白み始めたといって足元を探すのもあやふやな薄闇の中を進む人も馬車も時たま道を外れ、あちこちで転げることになるわけだが、それも必要な無理だと誰もが気にせず粛々と自らの生業にむけて歩みを進めていた。


 公称十万と数えられながら、誰もがまさか百万はおるまいが、と測りかね疑っているデカートの人々の営みを、複雑に入り組んだ都市の路地と地下の遺構とが飲み込んでいる。

 実際に農業と周辺の貿易と鉱業とそして工業とデカート市は多様な産業の懐を誇る都市だったから人口規模や収穫高や採掘高よりもかなり大きな流通規模を誇る都市だった。

 デカート市で手に入らない軍需品といえば硝石だけと近隣で言われるような土地だったから、人口も評価以上に豊かで暗数が多いのも間違いないところだったし、実際に十万人ばかりの人口では市民総出で収穫するような穀物量だったので三倍はさておき倍はいるだろうことは間違いないところだった。

 だが、もちろん多くの市邑条約都市同様に市内に土地建物の所有のない人間に納税の義務はなかったから、デカート市の人口は十万人を少々超えるばかりというのが公式の記録となる。

 そういう、市の記録に乗らないけれどデカート市を支える農業を支える季節労働者たちもこの朝靄のなか歩き始めているはずだった。


 そういう人々の作るまばらな列をソラとユエは軽快に追い抜いてゆく。

 小さな女の子が二人組で裸馬のような速さで荷馬車の脇を駆け抜ける様は、のんきな驚きをもって近所の話題になり、デカート一帯で多少の評判になったが当の二人にはどうでもいいことだった。


 石畳が手入れされているあたりまで街に入り込むと、ここしばらくで数を増やしていた自転車が自前の発電機で灯りをともしたり、あるいはカンテラをぶら下げて忙しく走ったりしていた。彼女たちの父親が作ったものは数百両もあるはずでそれはそれで大した量だったが、二年ほどの間に何倍ものあまり質の良くない複製品も走っていて、それはそれで十分に重宝されていた。


 二人が学志館の課業にはずいぶん余裕のある時間に自転車で漕ぎ出している理由はいわばホームシックだった。ローゼンヘン館から下ってくる家の船が見えないかなぁ、と港や運河を巡っていたのだが、そのうちそういう気分解消というよりも、なんとなく宛もなくデカートを廻るようになっていた。

 デカートを走って巡ろうと思えば、馬の体は蒸かしたての里芋のようになっている。走っているときは熱くて触れないというほどではないけど、停まると吹き出す汗が蒸気になって壁になる。


 自転車でデカートの天蓋の根方を二三本めぐるとソラとユエも湯気で二人がいたことがわかるくらい汗をかいている。天蓋を支える三十四本の根方の間はそれぞれおよそ半リーグあって、それなりに道も入り組んでいるから競走馬でも全力で走り切るのは難しい。

 安全自転車はソラとユエをあまり上等でない馬と同じくらいの速さで駆け抜けさせてくれる素敵な道具、金属とそのほかの材料を組み合わせて彼女たちの父親が作ってくれた簡単だが精密な機械だった。


 普段の彼女たちにはあまりかかわりない道を走るのは、自分たちを街の風の一部にする。という疾走感もさておき、朝飯前に一仕事という達成感もあってなんとなく得をした気分になる。

 差し渡しで五リーグあまりあるデカートの天蓋は外縁部は田園農地であるわけだが、そうであっても十分に広い拡がりを持った市街は、下り坂なら馬とも伍して競えるような安全自転車の軽快さを以てしても、ソラとユエが学志館に通う間に巡り切る、等ということは難しそうだった。


 デカートは共和国協定よりもはるかに古い街であることは間違いなく、その天蓋はかつて巨人と龍が争った折に空から落ちてきた物ということになっている。


 そんなモノが落ちてきてヒトが生きていようはずもないことをどこのどなたが確かめたのか、としばしば揶揄もされるわけだが、幾らかの調査が数千年の間に思いついた折に幾らか繰り返され、天から落ちてきても大丈夫なほどに天蓋の材料が丈夫であることやら、遺構の奥深くに人が使ったのではないかと推測される異物があったり、はたまた外縁の地形にそれらしい痕跡があったりなどという、証拠と呼ぶにはあやふやなしかし、いまや来歴もしれないようななにものかがあることは、認められている。


 デカートが空から落ちてきたとして料理の乗った蓋付きの器のようなものとして、その下半分が、料理を盛られていた器が皿のような形なのか、汁椀のような形なのか、中には人々がかつて生活を営んでいたとして、その人々は中にいたのかどこにいたのか、という話題は考古学的に幾度か語られて、確かめるべく人々が繰り出したこともある。だが実際には、成果と言える何かとしては、デカートの地下に広大な遺構があるという、わざわざ地下に潜るまでもないような事柄が知れただけで帰ってきていた。


 理由はいくらでも挙げられるわけだが、果てしなく広大で明かりのない地下の廃墟は、文字通りの迷宮として人々を阻んでいたし、実際に入れるところ以外は入ることが出来なかったのだ。

 そう言う入りやすいところはとうの昔に調べ尽くされてなにもなくなっていた。


 あちこちに鉄と思しき金属の壁があり、鉄や石とは思えない壁があり、そういう壁をいくらかめくったり破ったりするうちに事故が起き、油断をすると安物の指南器では方位を定めることも怪しくなる。

 その割に新しいなにかは見つからない。

 化物がいればまだしも、食料のあてもない暗闇行は余程肝の座った穴堀り自慢でも消耗をする。

 今も度胸試しや研究のために地下に潜る者たちは多かったが、目を瞠る何かを見出したという話はない。


 そう言う果てしない暗闇の冒険の話を聞いたソラとユエは自転車の前輪についた前照灯を頼りに潜れば灯りの問題は解決するから、ちょっと大きくなったら潜ってみよう、等と割と簡単に考えていた。デカートに比べればとてもとても小さなローゼンヘン館の地下でさえ散らかりすぎてて何が何だかわからないのに、二人は気楽に考えていた。


 探検をするとして、地下に踏み出すとして、まずそうあるためにはまず地上のデカートの様子を知っておかなくてはならない。

 とくに水路は地下への出入口や目印になるはずだから流れの向きや匂いは手がかりになる。

 そう考えると、単に街中を自転車で走っているだけなのだが、色々なものを目に留めながら走ることになる。

 それは二人にとって、毎日新鮮な発見に溢れるものだった。


 そのうち、地下がとか水路がとか考えないでも、自転車でデカートの街を巡るのが当たり前になっていた。

 課題は二人で適当に分担してそれぞれが二回書いてこなしていた。

 双児がどこまで似ているかはそれぞれなのだろうけど、二人は互いの走り書きを見て何で私はこんなこと書いたんだっけ、というようなことが時たま事件になるくらいにはソラとユエの互いの字は似ている。


 そういう走り書きを集めたデカートの探検準備のメモを二人は学志館の課題のための帳面とは別につけていて、不揃いな紙を綴った台帳は枕くらいの大きさのものが出来上がっていた。


 二人はそれをうまい具合に隠したつもりでいたのだが、グルコは二人が朝何をしているかは当の二人から自慢話のように聞いていたし、ロゼッタは二人の部屋を掃除したときに隠し場所を発見していた。というか、二人が隠し場所にしていた棚の裏板が外れることも主人である双子の父親であるゲリエ氏から聞いていたし、その内側に隠した鍵付きの文箱の合い鍵も預かっていた。

 二人は、秘密だよ、と父親に言われた隠し場所と大事なものを入れる箱を自分たちの趣味の記録を綴った帳面をしまう場所に選んだということで、そのひとつ目がいっぱいになり始めたということである。

 そうやってムクドリがお気に入りの洞にドングリを貯めている所をキツネが見ていたのだが、ムクドリのほうは気が付いてもいなかった。


 ともかく、街場のざわつきとは少し離れた春風荘から学志館までの土地は静かな田園争いといってせいぜいが春先の猫の声がうるさいという程度の土地だったから、ロゼッタは定時定時に学志館に通い、定時定時に春風荘に帰ってきて食事をしている間は気にする必要もなかったし、気にするには彼女は彼女でやることが多かった。


 今日も元気に主家のお嬢様方が執事見習のグルコを伴って元気に自転車登校する姿を、自分も自転車で追いながら眺めていればそれでよかった。

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