ユーリ・セレール

 ユーリ・セレールはデカートでも有数の資産家であるセレール家の次女である。

 セレール家は長らく学志館を支援する理事職に就いて、また学志館の運営に大きく寄付もしていた。

 ユーリ自身の成績はといえば言うほどに優秀というわけではない。

 せいぜいがどこかに嫁に行くまでのヒマつぶしと吟遊詩人の語る物語と詩歌について、迂闊に騙されない程度にいちいち流れの腰を折って場の気分を壊さない程度の市井の常識を身につけようと、民草の礼儀として学志館に通っていた。

 何に興味があるとかないとか言うほどのこともなく、卒業してしまえば会うこともなくなるだろう学友たちと戯れる事を楽しみに学志館に通い至る、ごく普通の富裕層の子女の一人だった。

 もちろん彼女はそのことに疑問を持ったことはないし、恥じるところはないのだが、理事の娘が学業不振であることを教授方に嫌味にされて心安らかというほどに無神経無関心というわけでもない。

 とはいえ、彼女にも新しい楽しみはあって、そのうちの一つが編入されてきたロゼッタの世話を焼く事だった。

 何故ということもない。

 ロゼッタはゲリエ家の執事だったからだ。

 デカートのほとんどの人々は気にしてもいない様子――冷凍庫なる文物を魅せつけられてどうしてそういう態度を取れるのか、ユーリには理解出来ない――だけどともかく、デカートに大きな変化をもたらしたゲリエ家の執事が学志館に編入されてきたのだ。

 一緒にゲリエ家のご令嬢ふたりも編入されてきたのだけれど、そちらはいつも何人もで連れ立っていて、ちょっと年下だったので日頃から声をかけてご一緒するにはちょっと無作法に感じられた。彼女たちと同じ組に自分の弟がいるというのも面倒くさい。ロゼッタは図書館で見つけたその日のうちに同い年の女同士という口実で、下級生に編入されたけれど作法院という他所の学舎での勉強の経験もあるという事を聞き出すくらいには仲良くなっていた。

 ロゼッタは本店にいるネコのマーファみたいに撫でたり抱いたりするのは嫌がるけれど、犬のモスリンと違って年中吠えつくということをするわけではない。

 ユーリの基準から言ったらロゼッタは親しい友人の一人だった。

 ロゼッタと一緒に入ってきたゲリエ家の使用人であるアミラはなんというか、ユーリが姉に感じる気後れのようなものを若くして備えた女性や母性を体現する少女だった。彼女は私塾学校という学び舎に始めて通うらしく特段成績優秀というわけではないが、しかしただ地頭の良さを感じるアミラは器用さと世渡りのうまさを感じさせるそつのなさで、年下の同窓生に慕われ急速に頭角を現していた。

 一方で他所でいくらか帳簿の付け方なども習ったというロゼッタは、なんで下級生に編入されたのかよく分からないくらいに色々できたが、もちろん幾らかはまるで何も知らず、見たところあまり器用とも言えず、ユーリとしては気楽に善行を積める気安い相手だった。


 そういうわけでロゼッタが司書のもとに資料の相談に行ったまま戻ってこないので迎えにいったユーリはボーリトンと何やら談笑しているロゼッタを見つけて間に割って入った。

「ボーリトン。アンタ何やったのよ」

 ユーリがボーリトンを睨みつけると彼は肩をすくめるようにした。

「……なんにもしやしないよ」

「だいたいなんでアンタが図書館なんかに用があるのよ」

「あのなぁ。お嬢さん。俺は伝馬便の郵便の配達しているって前に教えてあげたろ。届け物があれば、図書館にだって用があることはあるんだよ」

 ボーリトンはこれは本当にうんざりしたように言った。

「ボーリトンさんに近道教えてもらったお礼を云っていたの。その時はお互いに用事もあったしね。……お仕事中足を停めさせてごめんなさい。あのあと無事つけました。途中結構暗くて細かったから、つけるって教えてもらわなかったら通ろうとは思わないような路地だったけど、だいぶ近いですね」

「酔っぱらいが寝てると滑り落ちるような道だから誰かがタムロしていることも殆ど無いしね。あんまり綺麗な道でもないし明るくもないけど、ガラの悪い連中もあんまりいないよ。ただ酔っ払っているときは通らないほうがいい」

 ロゼッタの丁寧なお礼と説明にボーリトンは気分を変えたように応えた。

「ロゼッタはアンタと違って酔っ払うほど酒を飲みません」

 ユーリが割りこむように言った。

「執事なんてやってれば、自分は酒を過ごすほど飲むことは多く無いだろうけど、酔っぱらいのご主人の介抱とかすることはあるだろ」

「ゲリエ様がそんなふうにお酒を過ごすことはありません」

 ロゼッタの返答より早くユーリが熱狂のままに断ずる。

「だれだって?」

「ゲリエ様よ」

「誰さ、それ」

「ボーリトン、アンタ、伝馬便の小間使いとかやってるくせにゲリエ卿の名前を知らないの?ローゼンヘン館のご主人の。製氷庫作った方よ」

「製氷庫ってストーン商会とあんたんとこで作ったアレだろ」

「そうよ。夏でも氷ができる氷室よ」

 嘲笑うようにユーリが笠に着て言った。

「よくわかんないけど、凄いんだな」

「なんで凄いのが分からないのかソッチの方が分からないわよ」

 鼻息荒くユーリが断じた。

「……ストーン商会の方は知らないけど、アンタん所のは評判悪いぜ」

「売上も評判も上々ってお店では誰もが言っていたわよ」

 馬鹿馬鹿しいというようにユーリがボーリトンの言葉に威勢よく被せた。

「商売の上ではそうかも知れないな。だけど、追い出された連中も多い。マラゼーの婆さんも風邪で死んだ。アンタのとこの綺麗になったお店は二百からの貧乏人を追い出した土地に建っているからな。そういう連中にだって友達はいるさ」

「誰、それ。親しい方だったの」

「親しい方なんてのは貧乏人にはいないよ。親しくなるほど他人に気を使う余裕は貧乏人にはない。ただ婆さんはガキには優しかったから世話になったこともある」

「……ごめんなさい」

 勢いに任せた無様にユーリが正気を取り戻した様子で言った。

「アンタが俺に謝ることじゃない。……んああ、ええと、ロゼッタ。役に立てたなら良かった。いつかおウチのご用事があるようなら言ってくれ。俺は普段伝馬便の小間使いをやってる。街場の言伝とかちょっとした用立の案内くらいなら出来ることもある。モノを売ったり買ったりってことはしてないけど、そういう店の幾らかを知っていることもある。このお嬢さんの同窓生だから用事があるなら訪ねてきてくれ。……なんか余計なことになったけど、役に立ててたならよかった。また」

 ボーリトンはユーリがおとなしくなったことで離れる間を得た様子で去っていった。

「アイツむかつく。少し世慣れているからって偉そうにして」

「ユーリ。あなたの無神経は私も時々本当にいらつくことはあるわよ」

「なに?ロゼッタ、私たち親友でしょ」

「親友でも家族でも他人の付き合いなんだから、深かったり多かったりすれば、いらついたりむかつくことはあるのよ」

「それってアレかしら、私たちの愛の野薔薇が逆巻くように茂りを深め、心の通い路を狭めてしまっている。ってことかしら」

「逆剥けが痛いって言いたいならそうかも知れないわね。何それ、修辞の課題かなんかなのかしら」

「そういうわけじゃないけど、結構良くない?」

「そういう風流を好む方がいるのも知ってはいるけど、私には詩情はよくわからないわ」

「まぁアレよね。詩人の頭の中とか、絵かきの目の作りとか、音楽家の耳とか、私たち平凡人には真似したくても、どうしてそうなっているのか、よくわからないわよね」

「ユーリ。私はアナタがどういう風なつもりでそれを口にしているのかのほうが、私にはわからないわ」

 ロゼッタとしては可能なかぎり皮肉を排したつもりで口にした言葉をユーリは不思議そうな顔で受け止めた。

「私が天才だって云ってくれるのは嬉しいけど、別に私は自分の才能に自惚れたことはないわよ」

 ロゼッタは目の前の少女が何を言っているのかわからなかったのでどんな返答をするべきか戸惑ったが、数秒の沈黙の間のロゼットを眺めてユーリは勝ち誇ったような顔を浮かべて教室を去っていった。

 彼女が何を食べて育ったらそこまで天真爛漫に自信を明らかにできるのか、ロゼッタにはわからなかった。

 だが、考えてみれば主家のお嬢様方は四人が四人ともそういう風でもあったので、そもそも幼少の育ちというものはそういう風に人柄に現れるものなのだ。と、納得してロゼッタは自分の課題に戻ることにした。

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